窓に降る雪 20
窓に降る雪
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20
M大学のキャンパスは夏のような日射しでまだ5月というのに暑いくらいだった。三生は高宮に休みを取らせたことを気にしていたが高宮は意に介さなかった。
「申し込みをしておいたから建物の中も見せてもらえるけど、先に受付に行かないと。あ、でも」
三生が高宮を見て言った。
「高宮さんのこと、なんて言おう」
三生が受付で名前と住所を記入していると係りの人に「そちらはご家族ですか?」と聞かれた。
「そうです」
高宮が平然と答えると三生がこっそりと高宮の顔を見て笑った。今日の高宮はジーンズに白い綿シャツとカジュアルな麻のジャケットという、いつもより無造作でラフな髪と服装だった。
案内の人がついてくれて説明しながら回ってくれる。実際に講義をしている教室に入れて
もらったり、ひと通り建物内を見終わってから食堂などのフリースペースなどは自由に入ってよいと言われたので三生と高宮はひと休みしようとカフェテリアへむかった。
何台も並んでいる自動販売機でそれぞれ飲み物を買い白いテーブルのひとつに着いた。
「今日は暑いね」
高宮は紙コップのアイスコーヒーに口をつけながら窓の外を眺めた。
「緑が多くていいところだ」
三生がうなずく。
「他にもキャンパスがあるんだけど、わたしの希望する学部はこっちだから」
三生が言い終わらないうちに高宮の後ろから声がかかった。
「高宮社長? へえ、こんなところで社長にお会いできるとは……宮沢です。お久しぶりです」
振り向きながら高宮は立ち上がった。こんな場所で相手だけを立たせたまま話をするほど高宮は横柄ではない。しかし同席させるつもりもなかったので三生も立ち上がろうとするのを手ぶりで抑えた。
若い男が立っている。カジュアルな服装だが学生ではなさそうだった。革の鞄を持っている。
「やあ、宮沢君、仕事ですか?」
「いえ、仕事じゃないんです。じつは俺、ここの卒業生なんです。講演を頼まれまして、ちょっと打ち合わせに」
「そうなのか。仕事のほうはどう?」
「社長にそう聞かれるなんて恐縮ですよ。なかなか難しいです。俺なんかまだまだですよ」
宮沢が言いながら三生といかにもプライベート然とした服装の高宮を見比べている。
「彼女は来年この大学に進学希望なのでね。今日は見学に来たんだ」
「そうですか。じゃあ秋の大学祭にも来て下さいよ。大学祭でも俺、『公開トーク』ってのをやる予定なんですよ。彼女もよかったらぜひ」
三生が会釈したので宮沢はさっと自分の名刺を彼女の前へ置いた。
「宮沢直人です。よろしく」
そして三生の返事を待たずに高宮にお辞儀をした。
「じゃあ失礼します。社長、またよろしくお願いします」
宮沢がカフェテリアから出て行くのを見送って三生は尋ねた。
「会社の人?」
「元社員だよ。うちでCMプランナーをやっていたんだが今は独立してね」
「CMプランナー?」
「そう、フリーのね。ああいう男には君を会わせたくないんだが」
三生には意味がわからなかった。高宮が言う。
「CMの世界では人はとても重要な素材だ。人の出てこないCMはむしろ少ない。女性用の化粧品のCMに女の人の出てこないものはないだろう? 特に化粧品のようなCMでは女性タレントは重要だ。イメージに直結しているからね。
今、一番勢いがあって注目されているタレントや女優が起用されるんだが、タレントのほうでも化粧品のCMに起用されることは大変なことなんだ。注目度が高いし、旬のタレントだっていう証明だからね」 高宮はわかりやすく説明した。
「化粧品に限らずCMに起用するタレントで売上や企業イメージが左右されるんだ。だから」
三生を見る。
「芸能人、有名、無名にかかわらず彼らはCMに使えそうな人を探し出すのも重要な仕事なんだよ。君はT企画の若林社長も注目したくらいだ。宮沢君が君に目をつけたとしても不思議じゃない」
「そんな」
三生は言ったが高宮は気がついていた。三生は目立つようなことをまったくしていなかったが努めてそうしているのだから自分でも演技とか自己表現ができることに気が付いているのかもしれない。
しかし三生が自分自身でそのつもりがないのだから、高宮もどうこうするつもりはなかった。
高宮は宮沢の名刺を三生から取り上げようかと思ったが大人げないのでやめた。彼女なら大丈夫だろう。三生の魅力は自分だけのものにしておけばいい。
夏休みの間いつものように三生は家へ戻ったが、高宮と電話をする回数は増えたものの、やはりなかなか会うことはできなかった。高宮は8月の旧盆の時に3日ほど休みが取れそうだと 言っていたが、三生は8月の1か月間は予備校の夏期講習を受けるつもりだった。
受験生には盆も夏休みもない。
いよいよ明日から夏期講習が始まるという前日、三生はスケッチブックを持って近くの公園へ出かけた。
抜けるような青空で午前中だというのにすでに気温が上がっていて暑かった。なるべく日陰を選んで小さな折りたたみ椅子を置く。盛りの夏の花が咲いている花壇の前で写生をし始めた。
暑さで乾いてしまったような百日草やサルビア、名を知らない花々。Tシャツの上に日焼けをしないための長袖のオーバーシャツを着て、帽子もかぶっていったが強い日差しにじりじりと焼かれるような感じだ。それでも三生は集中して夏の草花を描いていった。
こんなことをしていられるのも今日だけだからだ。
遊具のある向こうの広場からは子供の声もしていたが植え込みや花壇のあるこちら側には誰もいない。その時ふと影が動いたのに気がついて三生は顔を上げた。高宮が立っている。
「やあ、暑いね」
三生はスケッチブックを手に黙って立ちあがった。
「今、君の家にうかがってお父さんからここにいると聞いたんだ。絵を描いているの?」
彼は三生の家から歩いて来たのだろう、上着を脱いで腕にかけて長袖のワイシャツ姿だった。ぴしっとした白いワイシャツが目に痛いほど夏の日差しに輝いている。
三生が黙っているので高宮は言う。
「今日は仕事を調整して休みにしてきた。会社から来たから背広で来てしまったけど。どうした? 驚いた?」
「…………」
三生があいかわらず黙って高宮を見上げている。
「……驚いた」
三生がやっとにじむような笑顔を浮かべた。
「ずっと会えないと思っていたから……」
「そうか、ごめんよ」
三生は急いで椅子やスケッチブックを片づけた。
「描いている途中だったんだろう。いいの?」
「うん大丈夫。好きで描いているだけだから」
「車で来たから出かけないか。お父さんにも言ってある」
ぱっと三生の顔が輝いた。素直に喜びが表情に出る。
ふたりは三生の家まで戻り、三生が出かける支度をしていると父が手招きをした。
「なに? お父さん」
父は何か意味深な顔つきをしている。
「高宮君は大人だからわかっていると思うが、避妊なしのセックスはだめだぞ」
「お……お父さんっ!」
三生は顔から火が噴くかと思った。
「はは、それさえわかっていればゆっくりしておいで」
父は屈託なく笑っている。高校生の娘にこんなことを言うなんて、なんて父親だろう。しかし別荘に泊まったことは父も承知だったにしても三生は何も言えない。
玄関で待っている高宮のところへ行った時もまだ三生の顔は赤かった。
「どうしたの?」
「何でもない」
三生の後から父が玄関へ出てきたので高宮は礼儀正しく挨拶をしている。
「ああ、気をつけて」
父も快く送り出してくれたが三生は「行ってきます」と言っただけだった。
エアコンの効いた車のなかでやっと三生は汗がひいた。車を運転しながら高宮が言う。
「明日から夏期講習に通うんだろう。今日なら会えると思ったんだ」
「それで、わざわざ?」
「まあ、そんなところ。7月はずっと会えなかったし、あまり会わずにいると君に忘れられてしまいそうだからね」
そういえばこの前高宮と会ったのは6月の末だった。ずっと会えなかったが彼を恋しい気持ちに変わりはない。
「忘れるなんて、そんなことない。でも会いたかった」
「私もだよ」
あの指輪を贈ると言われた日以来、三生はもう泣くこともなかった。
1月の別荘でのことは後悔するはずもなかったが、その後で二か月も会えなくて会えたと思ったら泣いてしまったのだ。恥ずかしくてどうしたらいいのかわからなかった。
あの時、高宮は三生が落ち着くのを待ってくれたのだと今ならわかる。けれどもそれ以来、彼はキスもしない。
それにさっきの父の言葉。
別の意味で新たな波立ちを三生の心に起こさせる言葉だった。
好きだから高宮に抱かれたのに、ひと月に一度会えるかどうかなのだからこうして車に乗せられてホテルへ連れて行かれても……。でも彼は決してそういうことをしない。
……もしかしたら別荘でわたしを抱いたことを後悔しているのだろうか? お互いに好きでも高宮は三十の大人だ……。
いくら経験のなかった三生でも、あの時の高宮が最後までいかなかったことがわかっていた。
「なんだか考えている顔をしているね。何を考えているの?」
「……えっと」
三生は答えることをためらった。自分はなんてことを考えているのだろう。お父さんたら、なんであんなことを言ったの。
「お父さんに何か言われたの?」
高宮が先に尋ねる。
「え? いいえ……」
まさか、さっき父が言ったことを高宮へ言うわけにはいかない。
「お父さんはやはり私と君がつきあうことに賛成じゃないのかな」
高宮は別の意味にとったらしい。
「ううん、そんなことない。父は……ゆっくりしてこいって」
「そうか、安心した」
高宮はくつろいでハンドルを握っている。
「……今日はどうして来てくれたの? 忙しいのに」
「え? 会いたかったからだよ。君に……どうしたの、変だな」
「だって……高宮さん、あれから……」
「あれから?」
「キスもしないし……わたしに気をつかってくれている……でしょ?」
「そんな言い方はしないほうがいいな」
穏やかだが断固とした口調で高宮が答えた。
「いつでも会いたいと思っているし、会えば抱きしめてキスしたいと思っている。今だってそうだよ」
「え……」
「君は私がどんなに君の事が好きかわかっていないみたいだね。それとも君は私のことはそれほど好きじゃないのか」
三生は乗り出すように言った。
「わたしだって好きだよ。あなたのこと。でも……じゃあ、どうして……」
「そんなことを言われると男としてはつらいところだな」
高宮が言いながら運転を続ける。
「君は受験を控えた大切な時期だ。子ども扱いするする気はないけれど君は高校生だ。私は何と思われてもいいが、君が私とのことで学校やお父さんから悪く思われるようなことはしたくない。君は前に学校から注意を受けていただろう?」
雑誌の記者に追いかけられていた時のことだ。藤崎シスターからの注意だったが注意には変わらない。
「受験が済むまでは君には勉強に集中してもらいたい。君の将来のためにね。でも」
高宮が三生の顔を見た。
「やっぱりこうして会わずにはいられない。君が好きだから」
三生は自分の単純さにうなだれた。彼は私のことを思っていてくれているのにあんなことを言うなんて。
「ごめんなさい……」
「気にしなくていいよ。君は考え過ぎる。さあ、今日はちょっと僕の行くところに付き合ってくれ」
しばらく車を走らせてかなり海に近いほうにやってきていた。交通量の多い幹線道路をぬけだして住宅が多くなるにつれて緑も多くなる。
「どこへ行くの?」
「葉山の近く。子供の頃によく行ったんだ」
さらに車は緑の多い丘陵地帯のような道に入っていく。どの家々も夏の日差しに輝いている。
ふいに目の前が開けてずっとむこうには海が見えた。強い日差しに白っぽく見える夏の海。
「ここへ来るのは何年ぶりだろう。父が死んでから来たことはなかったから」
高宮が車を止めて三生を降ろしたところはなだらかな丘陵の上に立つ1軒の家の前だった。
古い感じはしたが手入れがされていて空き屋ではないが人の住んでいる気配はしなかった。
「祖父は海が好きでね。父が育ったのもこの家だ。僕が子供の頃はまだ祖父はここに住んでいて何度も遊びにきたよ。懐かしい」
そう言いながら高宮は庭のほうから塀のカギをあけて入っていく。きれいに刈り込まれた広々とした芝生に平屋の木造の家の、庭に面した縁側。
「誰も住んでいないのね……」
三生が言うと彼はうなずいた。
「ほんとうは僕はこっちに住みたいくらいだ。マンションは便利でいいけれどそれだけだ」
縁側に座った高宮がそっと三生の手を引っ張ると素直に三生は彼の隣りへ並んで腰をおろした。
日差しは暑かったが家の西側にある林からは風が吹いてくる。かすかに潮の香りを含んだ風。
ふたりで向こうに見える海を見ながら高宮の腕が三生の体にまわされていた。
自然に寄り添うふたりの体。もう緊張もしない。
こうしていたかった。寄り添ってずっと。けれども三生は黙っていた。
「さっきのこと、まだ気にしているの」 高宮の声がくぐもって聞こえる。
「ばかだなあ、三生らしくない」
三生は笑った。ほんとうだ。わたしはいつからこんなに悩める少女になってしまったのだろう。
「ばかよ。ばかだからわたしにキスして……」
小さい声で三生が言う。
そんな三生に驚きもせず高宮の顔が少し斜めに近づいてきた。
あの冬の別荘以来のキス。わたしはなんて遠回りな臆病な恋人なのだろう。
やさしく触れ合うようなキス。高宮が唇から頬へキスを移して言う。
「大学へ入れば今よりもっと会えるようになるよ。それまで待つのは私には何でもないことだ。君を大切にしたいんだ」
「うん……でも、時々は……キスしてほしい。今みたいに……」
答える代りに高宮はまた口づけをしてきた。今度はもっと長く、ゆっくりと。熱いキスとも違うやわらかなキスだった。彼の腕がしっかりと三生を抱きしめている。
三生は今、心からそのキスを待っていたのだと悟った。これがもっと深いキスになっても三生は離れられないだろう。おそらく……。しかし、やっとふたりが顔を離すと高宮は笑顔だった。
「キスしたいって初めて言ってくれたね」
その言葉に三生は首筋まで赤くなる。そんな三生の頬をやさしくなでながら
「早く大人になってくれ、三生」
高宮は心の中でそうつぶやいた。
2007.10.22掲載
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