窓に降る雪 18
窓に降る雪
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18
翌日、雪はようやくやんでいた。曇ってはいたが雲の色がだんだんと明るくなってきているのがベッドの中からでもうかがえる。
目覚める前から意識されるとなりの体。三生は顔だけを動かしてとなりで眠っている雄一の顔を見た。
乱れた黒い髪がいつもよりずっと彼を若く見せている。まっすぐな少し長めの髪を彼はいつもきちんと整えていたし、仕事以外のときは無造作にかきあげることもあるが、こんな眠っている時の顔は見たことはない。
冷え切らない程度に暖房をつけてはいてもあたたかいベッドの中は天国のようで離れたくないが、三生はサイドテーブルへ手を伸ばしてそこに置いてあった雄一の腕時計をつかむと時間を見た。
今日は東京へ帰らなければならない。
横に眠っている雄一を起こさないようにベッドを抜け出して服を着るとしばらくしてからそっと彼を起こした。
「高宮さん」
「……じゃないだろう。名前を呼んで」
高宮が言いながら三生のほうへ手を伸ばした。彼女を引き寄せてその唇にキスをする。
「雄一さん、おはよう」
三生がはにかんだような笑顔。彼の手が服の上から三生の腰をなでた。 「大丈夫?」
三生はうなずく。本当はまだゆうべの傷が腫れているように感じられたが。
高宮が服を着て居間から台所へ入ってきた。
「今朝は北村さんを頼んでいないから朝食は僕が作ろうか」
「え? 雄一さんが?」
「そう、北村さんが炊飯器をセットしておいてくれたからご飯はもう炊けているよ。ほかの材料も揃えてくれているはずだから」
高宮が冷蔵庫を開けると三生ものぞきこんだ。
「わたしが作ってもいい?」
三生が卵を取り出しながら言うと
「三生が作ってくれるの? うれしいなあ。でも……出来る?」
ちょっと心配そうな、からかうような言い方。
「もちろん! 朝ごはんくらい作れるよ」
三生は慣れた手つきで野菜を刻み始めた。初めて使う台所だが彼女の手際の良さから普段から料理をしているのに違いないと高宮は思った。父親と二人暮らしの三生だ。きっと子供のころから家事を手伝っていたのだろう。
「こんなものしかできないけれど」と三生が言いながら作った料理が並ぶ。
青菜の煮びたし、あんかけ豆腐、ベーコンエッグ、味噌汁、そしてご飯に野沢菜漬け。
「おいしい。三生は料理が上手だね」
高宮が食べはじめると言った。ゆっくりとおいしそうに食べるので見ている三生のほうが気恥ずかしい。
「そんなことないよ。普段食べるものしか作れないから」
「それが一番大事なことだろう?」
高宮は満足そうに言った。
それから東京へ戻る間、ふたりは束の間の恋人同士の時間を楽しむように過ごした。車を運転する高宮と他愛のないおしゃべり、休憩で寄ったサービスエリアでは手をつないで店に入り一緒に飲み物を選ぶ。
東京が近付くにつれて三生は不安が募ってきてはいたがそれは顔には出さずにいた。高宮が大丈夫と言ったから大丈夫なのだ。そう信じられた。
今日は学校の近くで降ろしてもらい、振り返って三生が見ると高宮は車の中から手を振り返した。三生が門へ入るまで見届けるつもりなのだろう。三生はもう振り返らずに寮の門へと入っていった。
学校も寮も静かだった。いつもの日曜日の夕方と変わらない。
三生が寮の自室へ入り、バッグから制服を出してハンガーにかけた。この制服を着て寮を出たのがおとといのことだとは信じられなかった。スキーウェアもみんな別荘へ置いてきてしまったが、かすかな体の痛みだけが残っている。
「三生が帰ってきてるって? 三生、いる?」
部屋の外から尋香の声がしてドアがノックされた。
「三生、大丈夫だった?」
三生がドアをあけると尋香が入りながら尋ねた。
「うん、連絡できなくてごめん。あなたの携帯番号知らないし」
「ほんとに大丈夫だった? あの後すぐに高宮さんが来て……高宮さんとは会えたの?」
尋香はドアを閉める三生の背中へ言う。三生は振りむく前に「うん、会えた」と尋香へ言ってよこした。
「三生……?」
振り向いた三生は普段の三生とはちょっと違った感じがした。なんだか瞳の表情が違う。かすんだような、少し疲れているような……。
高宮さんのせい、とわかった。尋香の驚いたような瞳の色がすぐに笑顔に変わる。
「三生が大丈夫ならそれでいいの。じゃあ」
それだけ言うと尋香は出て行った。他人のことを詮索するような尋香ではない。
三生は自分の部屋のベッドの上へ横になって天井を見上げた。しばらくは高宮に会えない。高宮の別荘へ行く前と後では三生の身辺はうそのように静かになっていたがもう少し様子をみたほうがいいだろうと高宮は言っていた。
「外出はなるべくしないほうがいい。しばらくは会うのも我慢しよう。電話はしてくれてかまわないよ。待っているから」
高宮は別れ際に三生へ言うと彼女の手をぎゅっと握った。お互いに別れたくないのはわかっていたが高宮は三生を元気づけるように笑いかけてくれた。三生はいつもの学校生活に戻り、3学期を過ごすのだから。高宮の肌のあたたかさを胸に秘めて。
あたたかさを、胸に秘めて……。
「バレンタインデイか……」
三生は勉強するふりをして机へ向かいながら考え込んだ。世の中はバレンタイン商戦が真っ盛りだが、高宮へはあれから電話をしていない。学校の中にいれば三生のまわりは全く変わりがなかった。
生徒の間では三生に関してちょっと噂めいた話もあったが三生はそれらのすべてを相手にしなかった。
3学期は3年生の受験のために学校も寮も一見平穏ではあったが三生たち下級生にも静かな緊張感があってあっという間に過ぎて行くようだった。もっともそこは女の子でやはりバレンタインデイの話題は寮の自由時間に盛り上がっている。
亜美や今日子たちから一緒に外出しようと誘われたが一緒には行かず、静かな土曜日の寮の中で三生は高宮へ電話をしてみた。
『君の周りはあれから大丈夫?』
高宮が聞いてくる。
「うん、大丈夫。ちょっと声が聞きたかっただけ。ありがとう。仕事中にごめんね」
『いや、いいんだ。じつはこれからアメリカへ出張なんだ。今、成田へ向かっている』
「アメリカ? どのくらい?」
『1週間だよ』
「そう……、あの……気をつけてね」
『ああ、帰ってくるのは来週の日曜日だ。また電話して欲しい。待っているから』
「うん、そうする。……じゃあ、気をつけてね、また」
三生は明るく言って自分から電話を切った。もしかしたら高宮に会えるのではと思っていた期待が外れてがっかりしていたが、それは言わずに受話器を置いたのだった。
自室のベッドへ戻り枕を抱きこんで丸くなって横たわる。こんな時は何も考えたくない。三生に出来るのは彼の名刺をはさんだ手帳を胸に押しつけることだけ。
彼に会いたかった。でも会えない。
いったいどのくらい待てばいいのだろう? わたしが高校を卒業するまで? 笑ってしまうくらいまだ先の事だ。その1年の長さに三生は本当に笑ってしまった。
窓の外は雪が舞い始めていた。寒いはずだ。この程度の雪では飛行機に影響はないが、三生は今、滑走路がうずもれるほどの雪が降ってきて高宮の出張が中止になればいいのにと思った。
そんなことはあるはずもなかったが三生は窓ガラスに顔を近づけて息で曇る窓ガラスの向こうに雪がちらついているのを見つめていた。
我慢しよう。彼もきっと同じ気持ちなのだと信じよう。
恋しい気持ちをなんとか押さえるように冷たい窓ガラスに顔をつけていた。
2007.10.15掲載
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