窓に降る雪 16
窓に降る雪
目次
16
ずいぶん走っていたように感じられた。
車は高速を降りて一般道を走り始めた。店や家々がある町中を過ぎるとだんだんと建物もまばらになり周りは田畑や林が続くようになってきて、やがて地面にかたまりのような白いものが見えはじめて三生はそれが雪だと気がついた。
車は東京からノンストップで走り続けている。車の時計に目をやるともう午後8時近かった。
さらに走るとまわりはすっかり雪景色になって林の中を続く道路のまわりに建物や人家はほとんど見えなくなっていた。やがて細い道を折れ、少し走って建物のある敷地内に入ると車を止めた高宮が振り向いた。
「さあ、着いたよ」
三生には車のライトの光が届く範囲と建物の外灯の明かりがついているのしか見えない。高宮がドアを開けて手を差し出してきた。
「大丈夫?」
開けられたドアから刺すように冷たい空気がどっと車内へ入ってきたのでむしろ三生は安心した。もうここは東京じゃない。高宮にうなずいてから三生は車を降りる。
屋根のあるエントランスのようなところへ止まった車のまわりはきちんと雪かきがされていて雪はなかったが建物のまわり、見えるところ一面にこんもりと雪が積もっていて今もかすかに小雪が降っていた。
すぐに建物の入り口へ入る間にも制服のスカートでは足が凍りそうだった。ドアの中へ入ってほっとしたが、中にはもう一つ広い入口があってその中が玄関だった。高宮が玄関のドアを開けるとひとりの男が立っていた。
「お待ちしておりました」
その初老の男が言うと高宮は彼に車のキーを預けて三生の手を取ると、男は三生にお辞儀をして出て行ったのだった。
三生は部屋へ入ると窓に寄って外を見ながら尋ねた。
「ここはどこ?」
「長野だよ。私の別荘なんだ。会社のものではなく私の個人的な、ね」
窓の外は真っ暗でよく見えなかったが二重になった窓ガラスと窓の外側についた雪が確かにここは長野だろうと三生は無理に自分を納得させようとした。
高宮が三生の前へ立つと両腕で彼女の肩を引き寄せるようにして抱きしめた。
「心配したんだ、三生。君がひとりで渋谷駅へ向かったと聞いて……心配で君に会えなかったらどうしようかと思っていた」
三生は高宮のスーツの上着の肩へ額を押しつけている。
「あの時、人の海のような渋谷の街で君が行方不明になってしまったようで愕然としたよ。君の後ろ姿を見つけた時は……正直、腹が立った」
三生には高宮の言っていることがよくわかったが、あんなに彼が怒るとは思っていなかった。
「ごめんなさい、まだ怒っている?」
高宮はため息をひとつしてからちょっと笑った。
「いや、怒ってない。君は見つかったんだし。それより」
高宮は三生のあごへ手をかけるとそっと彼女の顔をあげさせた。ふたりの唇がふれあう。柔らかくキスをして高宮が頬をよせるとさっきまでひんやりとしていた三生の頬に赤みがさしていた。
高宮がきつく抱きしめているので三生はちょっと苦しくなって身じろぎをする。
「わ……わたし、家へ電話をしなければ」
高宮は体を離して三生を見た。
「さっきお父さんへ電話をしておいたよ。ここにいることを言っておいた。だから大丈夫」
「……そう」
三生がどっちつかずの表情で答えるのを高宮はじっと見ていた。高宮には彼女の戸惑い、彼女のためらいが手に取るようにわかった。
三生を守りたい、あの無遠慮なやつらから三生を守りたいという気持ちだけで彼女に何も言わないでここへ連れてきてしまった。
ここへはもう誰も三生を追いかけてこないことをなんとか彼女にわからせて安心させたかったが、どう見ても三生は納得しているようには見えない。
三生もそんな高宮の視線から逃れようもなくじっと彼の顔を見上げていた。ふいに唇が震える。あふれてくる涙を見せまいと三生は顔をそむけるようしたが、高宮が抱き寄せた。さっきよりも熱く繰り返しキスをする。
「いや」
精一杯の抵抗で三生はつぶやいた。三生はもうそれ以上彼に応じられなかった。このままキスを続けていたらどうにかなりそうだったが高宮を好きな気持ちよりもためらいのほうが強かった。高宮が腕をゆるめると三生が離れた。
「怒っているのは君のほうだね」
「怒ってない。聞きたいだけ」
でも三生の表情が怒っている。
「どうやって、ううん、どうして言ってくれないの。あなたがスクープ雑誌をおさえようとしている、その方法を」
「君は知らなくていい」
「……わたしが何もできないからって高宮さんにまかせて、それでこうして別荘へつれてこられて知らなくていいだなんて……」
あんまりだという気持ちと、助けてもらっているのに自分は駄々をこねる子供のようだと感じる気持ちと。
三生は無理に黙った。ただ黙って高宮の言う通りにしていればいいと?
「そんなふうに考えなくていいんだ。私は君が好きだ。愛しているから守りたい。雑誌のほうは本当に君には説明したくない。私の仕事が絡んでいるし、聞いて気持ちのいい話じゃない。私も君には説明したくないから言わなかった。わかって欲しい」
「だけど……だけど……高宮さんが困るようなことはないの……」
「もちろんない。うちの弁護士にも相談してある。心配はいらないよ。私にまかせるんだ」
三生はしばらく高宮を見つめていたが、やがてうつむいて彼の胸へ顔をつけた。それは彼を信じているという三生の精一杯の言葉の代わりだった。
「三生、もう心配しなくていい。もう誰も追いかけてこないよ」
「うん……」
「愛している」
ソファーへ腰をおろして高宮が三生の顔を上げさせたが彼女は悲しいような顔をしている。まだ今日は一度も笑顔を見せていない。
「そう……君も疲れただろう。何か食べよう。それから眠って明日のことは明日考えよう。今夜は眠ったほうがいい」
三生はうなずくしかなかったが、高宮がキッチンへ行って熱いシチューと飲み物を持ってくると急におなかがすいているのに気がついた。彼を手伝ってサラダやパンを並べる。
「これ、さっきの人が用意してくれていたの?」
「そうだよ、ここの管理を任せてあるんだ。さあ、座って。食べよう」
食事が済むと高宮は客用の寝室のひとつへ三生を案内してくれた。
「この部屋は内から鍵がかかるから安心してお休み」
ベッドの上にはホテルのような白いパジャマとガウンがきちんとたたまれておかれていた。もう夜中の12時を過ぎている。三生は部屋続きのシャワー室でシャワーを浴びるとすぐにベッドへもぐりこんだ。
気持ちが高ぶっていていたが無理に眠ることにして目を閉じたのだったがやはり眠れなかった。ベッドの中で三生は泣いていた。もう泣くしかなかった。
……高宮へ何もかもを預けてしまいたかった。
彼に抱かれて、そして彼に守ってもらう。しかし三生には自分を守ってもらう引き換えに高宮に抱かれるように感じられてしまうのだ。それが泣いている理由のひとつでもあった。
好きなら何も考えずに高宮の庇護を受けて、そのかわりに抱かれたらいいのに。しかし三生の中の何かがそれに反発していた。それが何かは三生にはわからなかったが。
泣けば気持も落ち着くはずと三生は心の中で自分へ言い訳をしてその通りに泣いて、やがて疲れが涙を乾かして三生はやっと眠りについた。
窓の外へもれる三生の部屋の灯りを高宮は自分の寝室で暗い窓ガラスの前に立って見つめていた。やがて灯りが消え何の気配も感じられなくなっても彼は窓のそばに立ち続けていた。
三生が目覚めるとすでに明るくなっていた。
着替えて居間へ行くと高宮はソファーへ腰をおろして新聞を読んでいた。
「おはよう」
彼女が声をかけると立ち上がってきて三生の顔をのぞきこむ。
「おはよう、眠れた?」
高宮はTシャツの上に黒いVネックのセーターとジーパンだった。彼の普段着姿を初めて見る。
「着替えが私の服でごめんよ。ここへだれかを連れてくることはないものだから」
「ううん、ありがとう」
三生は高宮の渡してくれた服を着ていた。ハイネックのスウェットの上着、ウエストがゴムの黒いトレーニングパンツ。細身でも背の高い高宮の服は三生にはやっぱりぶかぶかだった。
「服はもうちょっと待っていて。先に朝食にしよう」
ふたりそろって朝食を食べる。高宮がコーヒーを飲みながら聞いてきた。
「さて、せっかくだから遊びにいこうか」
三生は心の中でえっと驚いてしまった。顔にも出てしまったのだろう。
遊びに行くって……?
「ここから車で20分もいけばスキー場があるんだ。君はスキーやったことある?」
「え? あの、スキー? ……うん、学校のスキー旅行で」
びっくりまなこで答える三生を高宮はおかしそうに見ている。
「そうか、じゃあ少しは滑れる?」
三生はうなずいた。まあ少しなら滑れる。
「よし、それならスキーに行こう。いいかい?」
高宮が楽しそうに言う。
「でもわたし、何も、何も持ってないよ。その、ウェアやいろいろ」
「レンタルがあるさ。服も売っているから先に買いに行こう。着替えもね」
「……だけどわたし、そんなにお金持ってない」
立ち上がりかけた高宮がまた座りなおした。
三生は数千円程度しか持っていなかった。そんなに買えるわけがないと思ったのだ。
「行き先も告げずにここへ連れてきてしまったのは私だから、君は私のお客としてそんなことは気にしなくていいんだ。客というより……大切な人だから、だから君さえよければここにいる間は気にしなくていいんだ」
そして彼ははっきりと言った。
「愛しているから一緒にいたいんだ。明日まで一緒に過ごそう」
高宮が身を乗り出して三生の頬へキスをした。
三生は心がふわりと軽くなったように感じた。三生には高宮が普段よりもずっと気楽にリラックスしている雰囲気がわかる。彼はわたしと一緒にいたいと言ってくれた。明日まで一緒に過ごそうと、愛しているから……。
ゆうべもそう言われているのに三生は初めて言われた言葉のように気がついた。愛している、愛していると……。
驚くような、うれしいような、何とも言えない三生の表情を高宮は静かに見ていてその瞳には三生の反応を楽しむような光がある。
「何回でも言うけど? 君が望むなら」
三生の頬が赤く染まる。こんな時、何と言ったらいいのだろう。「わたしも愛している」だろう か……。 しかしここで急に三生は自分の状況がおかしくなってしまった。
高宮に借りたぶかぶかの服を着て、今だって袖をたくしあげている。化粧品なんて持ってくるはずもなく素顔のままだったし、ゆうべ泣きながら寝てしまったからまぶたが少し腫れている。三生だって「愛している」なんていう言葉は
もっとロマンチックな雰囲気で言ってもらいたかった。 なのに高宮は三生の一番最悪なときに愛していると言う。愛しているからスキーウェアや着替えを気にしなくていいだなんて……。でも笑い出すと止まらない。
高宮も笑いながら三生を見ている。
「いいよ。スキー、連れて行ってください」
三生が答えた。
2007.10.08掲載
目次 前頁 / 次頁
Copyright(c) 2007 Minari all rights reserved.
|