窓に降る雪 11
窓に降る雪
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いろいろ考えあぐねて三生は次の土曜日に父の友人である出版社の三崎へ会いに行くことにして外出許可をもらった。三崎ならスクープ雑誌のことも知っているかもしれなかった。尋香には大丈夫と言ったが三生には何も出来ることはなかった。
高校生の三生には相談にのってくれるような大人の知り合いはいなかったし、何のつてもない。父にしても三生とあまり変わらないかもしれなかった。唯一思いついたのが三崎だった。スクープ雑誌でも雑誌社なら同じ出版業界でなにかいい考えがあるかもしれない。
しかし出版社へ行くために三生はひとりで電車に乗ろうとしてつけられているような変な感じがした。まさか?
電車は混んでいて都心へ近づくにつれてぎっしりと人が詰まっていった。ようやく電車から吐き出されるようにして駅の階段を下りて改札口へむかったがその時は人が多すぎて誰かにつけられている感じはしなかった。だが、三崎の出版社へ向かう広い通りへ出たとたん誰かがついてきているのに気がついた。
三生は振り返らずに立ち止まった。このまま出版社へ行っていいだろうか。三生は三崎と会う約束をしたわけではなかった。いきなり訪ねて、もし留守だったらどうしよう。顔から血の気が引いていくようだった。そして腹もたった。
父の受賞パーティーの夜に近寄ってきた記者は最初から三生を狙っていた。
あのスクープ雑誌は三生を他の誰かと間違えたりはしていないのだ。今、ついてきているのはあのスクープ雑誌の記者に違いない。
三生は駅への道を戻り始めた。すると後からついてきた男が道をそれた。やっぱりあの記者だ。
三生は道をそれて離れて行く男の背中をにらんで見つめていた。その男の後ろ姿に声には出さずに言ってやる。
「わざとらしい!」
男の姿が見えなくなると三生は駅へ戻って切符を買った。あの記者はどうしただろうか。わからなかった。
三生は息苦しさを感じた。まるで少しずつ追い詰められているような気分になってくる。三崎にも会えない。電車に乗っている間中、三生はまわりを気にしていた。やっと渋谷駅へ着くと白広社の近くまで歩いて行く。
高宮に会いたかった。
しかし今週はとうとう高宮に電話をしなかった。彼の声を聞いたら自分が冷静でいられるか三生はわからなかった。彼を頼ってしまいそうだった。白広社のビルを少し離れたところから見上げながら三生はため息をつく。
白広社を見るのは初めてだったが、こんな大きなビルで高宮は仕事をしている、いやこの会社の社長なのだ。
今日、彼が出社しているか三生は知らなかったが、もしかしたらという思いを打ち消すことができなくて三生は公衆電話を探しながらビルの前まで歩いて行ったが、今どき公衆電話は見つからない。
駅で電話をすればよかったと後悔しながら白広社のビルの前まで来てしまったが、土曜日のせいか樹木をところどころに植えこんだビルの前の開けたスペースにはほとんど人通りはなかった。
しばらくビルの玄関を見て立ちつくしていたが、何分くらいたったのか、すっと自動ドアが開いてスーツ姿のひとりの女性が出てきた。三生は何気なく歩きだしてその女性をやりすごそうとしたのだが、その女性はまっすぐに三生に近づいてきて「あの、失礼ですが」と声をかけてきた。
「以前にお会いしましたよね。T企画で」
野田中礼子は目の前の三生を見ながらはっきりと言った。すぐに三生は思い出して会釈をした。
「私、高宮社長の秘書の野田中と申します。中からあなたをお見かけしたものですから。よろしければちょっとお話しできますか?」
「あの、わたしは通りかかっただけなんです」
「そうですか、でもお急ぎでなければ」
野田中は高校生の三生に対してもていねいに話しかけていた。
「社長にお会いに来られた……のでしょう?」
「そんなことはできないとわかっています」
野田中に負けずに三生は冷静に答えた。
「ではどうして……いえ、それを聞くのは野暮ですね。でも、もしあなたを社へご案内したら社長はとても喜ばれると思います。ご案内させていただけませんか? ほんの少しでも」
「高宮さんのお仕事の邪魔はできません」
三生はきっぱりと言った。
「とてもしっかりしていらっしゃるのね。でも、あえて言いますがお顔の色が悪いですよ。そんなあなたを気がついていながら帰らせてしまうことはできません。ね、年上の者の言うことは聞いたほうがいいわ。私がご案内しますから」
最後にやさしく姉のように親身に言われて三生は自分の顔へ手をやった。額に冷たい汗をかいている。渋谷に着いたころから気分が悪かった。電車に酔ってしまったのかと思っていた。
三生はためらったが野田中に手をとられるようにされて白広社のビルへ足を踏み入れた。野田中が受付けで来客の手続きをしてくれるのを待つあいだも三生は広いロビーを見回す余裕はなかった。
野田中に社長の応接室へご案内しますと言われてエレベーターに乗ったが、普段は平気なエレベーターの閉塞感と上昇に三生は口元を押さえた。
「大丈夫ですか?」
心配する野田中礼子に案内されるままに応接室へ入った。
「どうぞお座りになって下さい。さっき社長には内線でお知らせしましたから」
三生はありがたくソファーのすみへ腰をおろしたが、広い応接室に続くとなりの部屋へ入った野田中礼子がすぐに戻ってきた。高宮も一緒だった。
「三生」
高宮が礼子を追い抜いて三生の前へ来た。
「具合が悪いのか。顔色が悪い」
三生が立ちあがろうとするのを制して高宮は三生の座っている前へ片膝をつき、三生の冷たく汗ばんだ額へ手をあてた。それを見た礼子がちらっと驚いたような表情。
「ごめんなさい、急に……ちょっと……気分が悪くて。野田中さんのご親切に甘えてしまいました」
「いいんだ。さあ、横になったほうがいい。楽にして」
「そんな、ここは……」
高層階のガラス張りの窓と広くて天井の高い部屋で人が10人ほども腰をおろせるような大きな黒い革張りのソファーがテーブルをはさんで向い合せに対に置かれているのだ。こんなところで横になるわけにはいかない。
そんな三生の気持ちを察したのか高宮は「ちょっと立てる?」と言うと三生の体を支えるように腕をまわした。
立ちあがった三生は思わず彼にしがみついた。くらくらして気持ちが悪いのを彼にしがみついたままじっとがまんした。高宮が三生をかかえるようにしてさっき高宮と礼子が出てきたとなりの部屋へ三生を連れて行く。
デスクがあってその前にもソファーとテーブルがあり、ここが高宮の社長室のようだった。応接室に比べればこちらの部屋は小さい。
社長室のソファーへ三生を座らせると礼子がタオルと毛布を持ってきてくれた。高宮がタオルで三生の顔をやさしく拭いてやる。
「迷惑かけてごめんなさい。仕事中なのに」
「迷惑なんかじゃない。土曜日なのに君に会ってやれない私が悪いんだ」
「でも……」
「私に会いに来てくれたんだろう? うれしいよ」
今度は高宮の手が三生の頬をなでた。三生は一瞬目をつぶってしまった。あたたかい高宮の手。
「ほんとうは高宮さんの会社のビルを見て帰るつもりだった。……会いたかったけれど、中に入れそうもなかったし……そしたら野田中さんが声をかけて下さって……」
「そうか、でもしゃべらないほうがいい。少し休んで」
三生は深呼吸をして息を落ちつけた。もうこれ以上悪くなりたくなかった。高宮がとなりでじっと様子を見ている。
「野田中さん」 高宮が礼子を呼んだ。
「この部屋へは君以外誰も入れないように。会議は2時間で終わらせる。それまですまないが彼女を頼む」
「かしこまりました」
「三生、悪いがこれから会議なんだ。本当はそんなもの放り出してしまいたいところだが、そうもいかない。2時間だけだから休んでいてくれるかい? 野田中さんがいるから。待っていてほしい」
「わたし、帰ります……」
しかし高宮の手に押さえられて立ちあがれない。
「だめだ。そんな青い顔で帰らせるわけにはいかない。どうか私の言う通りにしてくれ。野田中さん、頼むよ」
「はい」
高宮はぎゅっと三生の手を握ると立ち上がって出ていってしまった。
「社長はきっちり2時間で戻られますよ。それまで休んでお待ちになればいいのです。どうぞ横になって」
礼子が三生の膝へ毛布を掛けながら言ってくれたが三生は気分が悪いのにもかかわらずどうしても横にはなれなかった。
「やっぱりわたし帰ります……」
「まあ、そんなことをされたら私が社長に怒られます。冗談ではなくて社長は本気で怒るでしょうね。社長は仕事にプライベートを持ち込むかたではないのですが、今日みたいに休日に重役会議や出張が続いたりすると何だかいつもと違うんです。普段は穏やかなのに
不機嫌と言ってもいいですね。そんなこと以前はなかったのに。なぜだかわかりますか? あなたに会えないからですよ。さっきあなたの前で膝をつかれた社長を見てわかりました。社長、すごく心配していらっしゃるようでした」
やさしく礼子が言った。
「だからほんとうに社長を待っていて下さい。今、あなたが帰ってしまったら社長は会議を中断してあなたを追いかけかねませんから」
秘書らしい気の付く言い方に三生は素直にうなずいた。ああ、今のわたしは悪いけれど高宮さんと野田中さんに甘えよう……。
三生にとってはここで休ませてもらうのは気が引けたが高宮が自分のせいで仕事を放り出してしまうのはもっと困る。礼子が時々様子を見ながら三生はソファーへもたれて目を閉じていた。今日は三崎に会いに出版社へ行くつもりだったのが記者についてこられて行くことができなかった。
なんだかとても身動きできないような気分だったが、やっと高宮に会えたのがせめてもの救いのような気がしていた。
「わたしってもっと図太いと思っていたんだけど……」
心の中で三生は無理に笑ってみた。尋香が高宮に相談してみたらと言っていたのが思い出される。でもそれはしたくなかった。どんなに追い詰められても。
高宮は言ったとおり2時間で戻ってきた。
「具合はどう?」
三生がソファーに座っていたので高宮はとなりへ腰をおろしながら三生の顔を見た。表情が戻って顔色が良くなっている。三生が「ありがとうございます。よくなりました、大丈夫です」と言うと本当に安心したようにふーっと大きく息を吐いた。
「ああ、よかった。何度会議を中止してしまおうかそればかり考えていた。こんなに長い2時間はなかったよ」
「ごめんなさい」
「また謝る。いいんだ、君が待っていてくれると思ったから長く感じられたんだ。もう終わった」
高宮の腕に引き寄せられた。
「ひと月も会っていなかったね。会いたかった」
「わたしも……」
三生は高宮の胸へ顔をうずめた。
どうして高宮の胸に抱かれるだけで不安も何もかも消し飛んでしまうのだろう。さっきまでの弱気な自分が消えてもっとずっと強い人間になれそうな気がする。高宮自身は強気さが目立つような人ではなかったが、一緒にいると彼の穏やかな強さが伝わってくるようだった。
彼の唇が頬へ触れてきた。そのまま柔らかく押しつけている。しかしその時、ノックの音がして三生は顔を離して彼の腕をほどこうとしたが、高宮は体へまわした腕に力を込めて三生を身動きさせなかった。そのまま「どうぞ」と言う。
「社長、なぜそんなに急いで」
重役らしい年配の男性がドアを開けたが、顔色ひとつ変えない高宮と彼の腕の中にいる顔を赤くした三生をまともに見て重役の言葉が途切れた。
「専務、さっきの会議ではご苦労さまでした。詳しくはまた来週に。でも今後はあのような会議は平日にお願いします。私にもプライベートがありますから。それから夕方からの会食はキャンセルさせて下さい。彼女を送らなければならないので」
重役は書類を落としそうになりながら咳払いをした。
「の、野田中君、客というのは……」
「申し訳ありません。そう申し上げたのですが」
ドアのところで野田中礼子がおかしさをこらえているような顔をして言った。
「野田中さん、今、言ったとおり私は帰ります。では専務、月曜日に」
2007.09.22掲載
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