窓に降る雪 6
窓に降る雪
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6
日曜日、三生(みおう)は朝から外出した。さすがに尋香はこんどの週末は外出しないと言う。
「勉強している」
尋香はそういっていたが本当だろう。テストが近かった。
三生はテストのことは気にせずに学校の門から出る時には勉強のことはすっかり頭から追い出して近くの私鉄の駅へ向かったが電車に乗るわけではなかった。
駅のロータリーにシルバーのセダンタイプのドイツ車を停めてわきに高宮が立っていた。
ネクタイはしておらずカジュアルな綿ジャケットにストライプのシャツ。三生は「うわー、大人のファッションだー」とちゃかして考えていた。三生は相変わらずジーパンにTシャツ、綿パーカーという格好。
「おはよう、早いんだね」
まだ約束の時間には20分もあった。
「そりゃ、デートだからね」
「こんなにいい車に乗るんなら女らしい服じゃないとだめだね」
三生は座ってから革張りのシートをそっとなでた。高宮はまったく気にしていないらしい。
「どこか行きたいところは?」
高宮がエンジンをかけてから聞く。
「どこでも、どこがいいのかあまり知らないし」
「箱根へドライブにいこうか。いい?」
三生は箱根へ行ったことがなかった。作家の父と二人暮らしで父は観光に出かける人ではなかったので三生は学校の旅行以外で遠出することはほとんどなかった。海外へ行ったこともないという。
「でも英語はできるんだろう?」
「少し。父から教えてもらったし、学校のシスターたちはネイティブスピーカーが多いから」
「なるほど。海外に住みたいと思ったことはない?」
「…………」
高宮は軽い気持ちで聞いたのだったが三生は考え込んでいるようだった。
「別に」
やっと三生が答えた。
「わたしの母はアメリカ人だけどあんまり外国には興味ない」
「そう」
今どきハーフは珍しくない。三生の顔立ちからそうではないかと思ってはいたが高宮は自分から尋ねるようなことはせず三生も特に気にしているような様子はなかったが、高宮はいつかの記者が言ったことをぼんやり思い出していた。
渋滞とまではいかなかったが車の多い所をぬけだしてそれからは一定のスピードで走っていく。
「この間、上野ではゆっくりできなかったから今日は楽しみにしていたんだ。僕も出かけるのは久しぶり」
高宮は生き生きとして見えた。
「車、好きなの?」
三生は聞いてみた。高宮は運転が好きそうだったからだ。
「ああ、車も運転も好きだ。男は乗り物が好きなやつが多いんだよ。車やバイクや電車なんかね」
「いつもは自分で運転してないでしょ?」
高宮は運転手つきの社長車に乗っていた。国産高級車で今日の車とは違う。
「仕事ではね。以前はよく母を乗せてドライブへ出かけたけど」
「お母様?」
「うん、もう亡くなったけれどね。僕が大学生の時に」
「……ごめんなさい」
高宮がちらっと三生を見た。
「君が謝ることじゃないよ。今頃母が生きていたらきっと高校生のお嬢さんにつき合わせるなんて、なんてことするのと言われそうだな」
三生は思わず笑い出した。
車は心地良く走っていく。
箱根はけっこう人で混んでいた。高宮が車を止めた硫黄のにおいのたちこめる展望コースのある谷は観光客でいっぱいだった。石だらけの細い遊歩道をふたりで歩いたが、すれ違う人も多く三生は高宮のうしろをついていくように歩いたので時々、高宮が振り返って話しかけてくる。
やっと広い所へ出て並んで歩くが三生は高宮が段差のあるところでは三生の背に触れないまでも手を添えるようにしてくれているのがわかった。
「こんなことされたら照れちゃうよ」
三生は心の中でつぶやく。高宮は大人なんだと思う。
それから三生は温泉で黒くゆでられた卵を買ってふたりは車に戻った。
「高宮さんも食べる? これ」
「ゆで卵? いいね、ひとつもらえる。君はジュースか何か飲む?」
「……みおう」
「え?」
「君、じゃなくて、みおうだよ」
三生の目が笑ってそう呼んでほしいと言っていた。
「みおう」
「はい」
「塩、くれる?」
ふたりいっぺんに笑ってしまった。三生がゆで卵についていた塩の小袋を差し出す。
なんだか彼といると心地よい。今日の彼が楽しそうだからかもしれないと三生は感じていた。彼が気楽にしていてくれるので三生も緊張しなくてすむ。
緑の美しい箱根の道をふたりはいろいろなことを話しながらドライブしていた。三生が美術館があるというので元箱根のほうへ向かったが東洋美術の美術館は客はほとんど入っておらずそこはまるで別世界のようだった。
焼き物や茶道具類。巻物、掛け軸といった書画。いずれも整然と並べられている。
高宮はこういうものに詳しくはなかったが、三生の眼は真剣で静かにそして熱心に見ている。ゆっくりと見てまわった後に三生が高宮と並んだ。
「退屈だった? ごめんね」
「いや、なかなか興味深かった。君はこのあいだの日本画展もそうだけど美術が好きなんだね」
三生がうなずく。
「将来は日本美術の研究や修復をやってみたいんです」
「じゃあ、大学へ行って?」
「はい」
「自分のやりたいことがあるっていうのはいいものだよ」
自分の大学時代を思い出して年寄り臭いかなと思いながらも高宮は言った。
「他に好きなことは? なに?」
「部活で陸上を少し。ただ走っているだけだけど」
答えて三生は急に立ち止った。高宮も歩くのをやめている。
「わたしと付き合いたいと……父から聞きました」
「そう、お父さんに話しておいた。三生がよければと思ってね」
「やっぱり高宮さんって大人。わざわざ父に言ったりして。わたしのこと子供だと思っているんでしょ」
三生は高宮に問うような表情。
「そんなことないよ。気にさわった?」
高宮が三生の手をとった。
ついと手を引く。予想していなかった高宮の動きに三生は手を引かれてかくんと引き寄せられていた。高宮の肩に顔が着きそうになる。
「な……に」
「好きだ」
高宮の腕に力がこもったが、三生はぱっと体を離した。
「ちょっと待って。なんで急にそんなこと言うの」
「別に急じゃないけどね」
高宮が真面目くさって言う。
「三生が好きだから言ってるんだ。迷惑かな?」
「そんなことない。だけど、だけど……わたし、高校生だよ」
「高校生なら好きになっちゃいけない?」
「そうじゃなくて! ……高宮さんは大人だし、仕事もしていて、社長で……わたしなんて確かに子供だよ、あなたに比べたら」
「子供じゃない」
「大人でもないでしょ」
三生は妙にこだわっていた。
「もしかしておもしろがっているの?」
「……どういうこと?」
「高校生とつきあってどうなのか、とか」
「三生」
高宮の語気がちょっと強くなった。
「そういう遊びをする気はない。できたとしてもね。君が高校生でも好きなんだ」
高宮は繰り返した。
「三生はどう思っている? 私のこと」
三生はうつむいた。
どうしたら、なんと答えていいのかわからなかった。
高宮は三生が街で見かける高校生や若い男の子たちのようにげらげら笑ったり大声をあげてふざけながら話したりはしない。大人なんだから当たり前かと三生は思っていたがだんだんそれが高宮の性格と立場のせいらしいということがわかってきていた。
高宮は三生には想像もつかないような厳しい世界に生きている。しかし三生には礼儀正しく、しかも気楽でやさしい態度で接してくれていた。それが高宮が大人の男だということを余計に三生に意識させていた。
「まだわからない」
三生にはそう答えるしかなかった。
「正直だね。でも私の気持ちは変わらないよ。君が好きだ。だからお父さんに話しておいたんだ」
「まだ知り合ったばかりなのに……」
「ああ、会うのはね。でも私は1年くらい前に尋香さんと一緒にいる君を見ているよ。T企画のビルの前でだったかな。本当はもっと前にも」
「え? もっと前?」
思わず三生は聞き返した。
「そう、S市の演劇祭で英語劇に出ていただろう? あの時に若林と一緒にね。君はまだ中学生だった」
「ええっ?」
あの時三生は中学3年生だった。尋香と一緒に出たその劇を高宮が見ていたなんて。もう 2年も前のことだ。
「あの時は尋香さんを見に行ったんだが、私には君のほうが印象に残った」
高宮はまた歩き出した。
「1年前に君を見かけたのは偶然だったけれど、それからちょっと若林をつついてね。君が尋香さんと一緒に来る機会を待っていたんだ」
「それで若林さん、強引に」
高宮はうなずいた。その後初めて高宮は三生に声をかけたのだが、三生のことはそれよりもずっと前に知っていたのだ。
「父の受賞パーティーのときもわたしが吉岡順三の娘だって知っていたの?」
「いや、あの時は知らなかった。君が娘さんでもパーティーへ来るかどうかはわからないだろうし。だからあの時はとても驚いたよ」
「……いやだなあ」
「なにが?」
高宮が振り向いた。
「だって、わたしが知らないのに高宮さんはわたしのことを知っていたなんて、ちょっと一方的」
「だからこうして君に話している。私も一方的なのはもうたくさんだよ。三生にも私のことを知ってもらいたい」
その言葉に引き寄せられるように三生は高宮へ追いついて並んだ。彼は何気なく三生を見おろしてほほ笑んでいる。
「君のように目標を持って大学へ行けるのがうらやましいよ。……私はね三生、自分の力で社長になったんじゃないんだ」
そう言って彼は話し始めた。
2007.09.16
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