窓に降る雪 2
窓に降る雪
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三生と尋香が高等部の2年生の新学年を迎えていた。
高校生になってから尋香は少しずつ芸能界の仕事をしていた。あまり仕事をしないのは尋香の両親が高校在学中の芸能活動を反対している手前そうせざるを得ないらしい。
時々、三生は外出の時に尋香と一緒に寮を出た。尋香の所属事務所のある渋谷まで一緒に行って事務所の近くで別れるのだ。
この日も三生は尋香と一緒にT企画まで来たがいつものようにビルの前で尋香と別れるつもりだった。
尋香はビルに向かいながら「バイバイ」と言って手を振っていたが、しかし尋香がビルの自動ドアの前へ行くよりも早くドアが開いて中からT企画の社長が勢いよく出てきた。
「社長?」
尋香が驚いて声をかけたが社長の若林は歩道まで飛び出していた。
「吉岡さん、ちょっと待って! 瑠璃(るり)、お前も」
瑠璃は尋香の芸名だ。三生は何かと思って立ち止まった。すぐに若林が追いつく。
「あー、良かった。間に合って。吉岡さん、ちょっと瑠璃に付き合ってもらえないかなあ。ほんのちょっとだけ。それからお茶でも、いや食事もごちそうするから。ね、いいだろう?」
若林が三生の肩を押さんばかりにビルへ向かわせようとする。
「でも、わたしは……」
「さあ、ちょっとビルのホールまででいいから入って、入って。瑠璃も一緒なんだから」
三生がしゃべる暇を与えない。なかば若林に押されるように三生はビルの1階ホールへ入った。尋香もいる。
「どうしたんですか? 社長」
「いや、じつはさ、今、着物デザイナーの三宅さんと打ち合わせしていたところ。ほら、瑠璃の写真撮影のだよ。吉岡さんもちょっと見てみない? というか、瑠璃の他にもうひとり着物のモデル用に頼んでいた子が
急きょ他の仕事へ行ってもらってね。困っていたんだ。瑠璃が一緒だから ちょっと吉岡さん、手伝ってもらえないかなあ」
若林は強引で調子良く言った。
「わたし、出来ません」
三生ははっきりと言ったのに若林は取り合わない。
「今日は着物を持ってきてもらっているんだ。今日でないと困るんだよ。ね、頼むよ」
「三生」
尋香が三生の顔を見ている。 「お願い」
「あなたに頼まれることじゃないと思うけどね」
三生はしかたがないというふうにちょっと肩をすくめた。尋香にそう言われなかったらもちろん断っただろうが着物デザイナーの三宅沖子(おきこ)にもちょっと興味があった。映画やドラマで名が売れている着物デザイナーだ。
2年ほど前の時代劇映画では衣装監督をしていて三生はその時代考証の正確さと着物の古雅な雰囲気が気に入っていた。
もちろん三生が言葉を交わせるような相手ではなかったが、ほんの少しその仕事を見せてもらうのもいいかもしれないと三生は考えていた。三生の顔つきを見て若林はそれ以上三生に考える時間を与えないといった雰囲気で尋香と一緒にエレベーターへと向かわせた。
「三宅さん、お待たせしました。こちらが瑠璃です」
スタジオには大きなテーブルがいくつもつなげて置かれていた。三生もテレビで見たことのある着物デザイナーの三宅、その助手らしいふたり、そして背広の男性やスーツを着た女性が何人か。
「はじめまして。瑠璃です。よろしくお願いします」
尋香がきちんと挨拶をする。
「こちらはモデルの予備のかた?」
三宅のほうから先に聞かれた。
「そうです、よろしくお願いします」
若林が言うので三生も仕方なく頭を下げた。
「じゃ、吉岡さんはそこで待っていて。後で呼ぶから」
壁際に寄せて並べられた椅子に座ると三生は尋香たちの様子を見ていた。
尋香は他の人たちに挨拶をしながら三宅の前へ座ると紙を広げられて説明を聞き始めた。もちろんプロデューサーらしい人や若林や脇にはT企画の社員らしい人もいる。
やがて三宅の助手が何枚もの着物を広げ始めた。
「わあ、すてき」
「あら、瑠璃さん、着物はお好き?」 三宅沖子が尋ねる。
「はい、あまり着る機会がないんですけど、わたし外国育ちなので着物にすごくあこがれていたんです」
尋香がまじめに言う。こういうときにきちんとした話し方をするのが尋香だ。
「じゃ、ちょっと羽織ってみて。お願いします」
スタジオの一角の撮影用の無地の背景が掛けられた前に尋香がすばやく上着を脱いで立った。白いキャミソール風のノースリーブのトップに細身のベージュのハーフパンツ。上着を取るだけですぐに着物が羽織れるし、邪魔になるようなアクセサリーもつけていない。
「へー、尋香さすが」
三生は心の中で感心してしまった。三生はこの日は度の入っていない眼鏡をしていたが、さすがにそれははずして、自分は何をさせられるんだろうと考えていた。
助手が2、3枚着物を替え帯をあてながら別の助手がデジタルカメラで写真を撮っている。それを見ながら三宅たちは打ち合わせをしている。
「さっきの黄色がいいようですね。それから緑と……じゃあ、それに変えて」
三宅が指示を出すとさっき羽織った黄色の着物がまた尋香の肩へかけられた。
「それを軽く着付けして。あと組み合わせとしては」
プロデューサーが言うと若林が振り返って三生を手招きした。
「ちょっとそこへ立って」
尋香の横を指す。三生がそこへ行って突っ立つと三生の肩にも着物が掛けられた。
「いいね。でも君の方が背が高いからちょっと膝を曲げて」
三生が正面から少し体を斜めにして膝を曲げた。日本舞踊の踊っている途中を止められたようなこの体勢を続けるのかと三生は心配になったが、すぐに尋香がその横へ立った。
「ちょっと内緒話のように顔を寄せて」
三生はすぐに反応できなかったが尋香が顔を寄せるのでなんとかそれに合わせた。ポーズを変え、着物を変えて同じようなことを何度か繰り返した。
「はい、いいです。ふたりともありがとう」
プロデューサーが言ってから若林へ聞く。
「あの子、ちょっと合わないね。良すぎるわ。瑠璃との組み合わせはいいけど、今回はなにげない脇役がいいんだ。あの子、T企画の子?」
「まだ所属してないんです。今日はちょっとテストということで」
「へえ、惜しいなあ」
そんな若林とプロデューサーの会話は三生に聞こえなかったが、自分の役目が終わったらしいのでほっとした。また隅へ戻って座る。打ち合わせはまだ続いていた。
また三生は眼鏡をかけていた。雑貨店で売っているような安物でもちろん度ははいっていない。
ずっと待ちながら三生はやはりここへ来たことを後悔していた。そもそも自分のような素人を代役とはいえ飛び入りでこんな打ち合わせに参加させること自体がおかしい。何かが変だ。
しかしもうそれ以上三生には声もかからず、ずいぶんと待っていると若林社長の向こう側に 座っていたスーツの男性が立ち上がるとこちらへやってきた。他の人たちもざわざわと話し始めた。どうやら終わったらしい。
「そんな眼鏡では目を傷めるよ。視力は悪いの?」
スーツを着たその男性は若林社長より少し年上の感じだ。
「いえ、まぶしいのが苦手なんです。でもサングラスではちょっと」
三生は知らない相手だったがこのスーツの男性に答えた。
すらりと背の高い男だった。三生よりも背が高かった。
「高宮です。君は瑠璃さんの同級生?」
スーツを隙なく着こなして三生や尋香よりもはるかに大人のこの男性が今回の瑠璃の仕事に関係しているらしかったので三生は警戒していたが相手が名乗ったのでしかたなく自分も言う。
「吉岡三生です。でも芸能界の仕事をする気はありません」
「そう? 君なら明日からでもモデルでやっていけると思うな」
高宮が三生の言ったことを気にするふうでもなく言った。
「社長に先を越されたなあ。僕が先に声をかけたかった」
プロデューサーらしい男が後から話しかけてくる。三生は完全に居心地が悪くなっていた。
「そうだよ、うちはモデル業は本業じゃあないけれどもモデル事務所とは親しくしているからいつでもOKだよ!」 若林社長が大きな声で割り込んできた。
「ね、三生君、一度でいいから写真撮らせてくれないかな。君ならまちがいなくオーデション合格だよ。僕が責任持ってやるから」
「いえ、いいです」
「今日はだめ? せっかく来てくれたんだから」 若林は強引だった。 「瑠璃の他の写真撮影がこれからあるから、君も」
「いいえ、結構です」
三生が体を引いたが若林は三生の手を取らんばかりに口説こうとしていた。三生は困ってしまったが、その様子を見て
「彼女が嫌がっているんだからしかたないじゃないか、社長」
高宮が言ってくれた。
「高宮がそう言うなら」 若林はしかたがないというふうに笑って「いつでもその気になったら来てくれよ」と言ってやっと引き下がった。
「瑠璃」
三生が尋香へ声をかけた。
「わたしは先に帰るよ。あなたは写真撮影があるんでしょ」
「ごめんね、三生。社長はあなたをすごく買っているのよ」
「でもその気はないから。じゃあね」
ビルの玄関ホールまで下りてくるとさきほどの高宮が立っていた。
「さっきはありがとうございました」
三生は彼のところまで来ると小さく頭を下げて礼を言った。
「いや、若林社長が君のことをぜひスカウトしたいと言っていたよ。でも君はああいう仕事には興味がないんだね」
三生はうなずいた。そういうことだったのか。
「帰るのなら送らせてもらえないかな、お嬢さん」
「いえ、学校に戻りますから」
「全寮制だって? なんていう学校?」
「……嶺南学院です」
高宮は小首をかしげた。知らないようだった。
「失礼します」
三生は言うとビルの玄関を出たが、三生が出て行くと国産の高級車がすうっと前へ来てドアが開けられた。あまりのタイミングのよさにびっくりして三生が立ち止まるとすぐ横には高宮がいる。
「私の車なんだ。どうぞ、送っていくよ」
礼儀正しく高宮はドアをおさえて三生を待っている。運転手付きの車だ。高宮のその紳士的な態度に三生は断るのが難しくなってしまったと咄嗟に迷っていたが、だからといってほいほい乗るわけにもいかないだろう。
「すみません、知らない人に乗せてもらうわけにはいきません」
「知らない人、か。私を知らないという人と会うのは久しぶりだ。社長なんてやっているとこっちは知らなくても大抵相手は私のことを知っている」
「社長さんなんですか」
「そう、広告代理店のね」
確か瑠璃は白広社と言っていた。有名な会社らしかったが三生は知らなかった。
それよりもそんな大きな会社の社長が高宮のような男だとは思っていなかったので、そのことのほうに驚いていた。会社の社長というのは年寄りばかりだと思っていたのだ。
「すみません、やっぱり失礼します」
三生がもう一度言うと高宮はほほ笑んだ。
「困らせてしまったみたいだね。じゃあ、気をつけて」
高宮はそう言うと車へ乗り込んだ。
三生は軽く頭を下げ駅へむかって歩き始めた。けれども三生は自分の後ろ姿を高宮が車の中から見送っている事に気づいてはいなかった。
2007.09.06
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