窓に降る雪 1
窓に降る雪
目次
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三生(みおう)の同級生の尋香(ひろか)がやって来ると、とっておきの笑顔で言った。
「三生、お願い。一緒に出てよ」
「あれえ」
三生はわざと驚いてみせた。
「なに言ってんのよ。あなたに声がかかったんでしょ」
尋香ったら完全に甘えているなと三生は思う。
尋香は文句なく美少女だった。まっすぐな黒髪と大きいが少し切れ長の目。ただのお人形でない証拠に尋香の瞳には光があった。美少女の外見から想像できない強さが尋香には隠れている。
尋香の両親は日本人だが父親は工業デザイナー、母親は舞踏家で家はロンドンとフランスにあって日本には住んでいなかった。尋香は中学から日本に戻って全寮制の嶺南学院に入学して三生と同室になったのだった。
ふたりが中学3年の春、高等部の先生から尋香が呼ばれた。市内の演劇祭に英語劇をやるのだが高等部だけでは人数が足りないから尋香にも出てもらいたいという。
尋香は中学に入るとすぐに芸能プロダクションであるT企画というところに所属していた。まだ芸能活動はほとんどしていなかったが演技の勉強をしているしバレエも幼いころから続けていた。
自分で決めた女優になる夢を実現しようとしている尋香を三生は応援していたが、それとこれとは話が違う。尋香はその劇に三生も出てほしいという。
背の高い三生は尋香とは対照的だった。三生は普通のショートカットでほんの少し癖のある髪が黒というよりはちょっと色の薄い印象なのだが茶色く目立っているわけではない。すっきりと整った顔立ちの三生はいつも年上に見られていたし、
それは落ち着いた態度のせいでもあった。中学生のわりに大人っぽい。黒髪の美しい尋香がそばにいると余計にそう見られた。お互いが引き立て合うようだった。
しかし三生は尋香が三生にも劇に出てほしいというのを笑って相手にしなかった。三生はそういったことに全く興味がなく運動は得意だったが暇さえあれば本ばかり読んでいた。
ところがしばらくして三生にも高等部の演劇部の指導教諭から声がかかったのだった。
「三生、何だって?」
「やっぱり劇の話だった。わたしにも出てほしいって」
「高等部だけじゃ人数が足りないんだって」
「なら高等部で人数そろえればいいのに」
三生が言うのを聞いて尋香が笑う。
「うふふ、三生にも出てもらいたいってわたしが言ったの」
「えー、なんで、いやだよ」
「だって高等部の人たち、あなたほど英語しゃべれないもん」
尋香に言われてはおしまいだ。尋香は英語とフランス語がしゃべれる。
「それに高等部の人たち、セリフを言うのに一生懸命であんまり劇になってないし」
かなり手厳しい。
「わたしだって劇なんて出たことないよ」
「三生なら大丈夫。セリフに苦労しないから余裕があるでしょ」
「あのねえ」
三生はあきれて尋香の顔を見た。
「あなた、何の役やるか知っているの? 主役だそうじゃない」
「だから三生にも出てもらいたいの。中等部のわたしが主役だと風あたり強いじゃない。だから。それからうちのクラスからはあと今日子と沙希も出るのよ。ね」
尋香は三生が劇に出てくれるだろうと踏んでいた。三生は見かけどおり冷静だけど決して冷淡ではない。
尋香は中等部へ入学して初めて三生と話した時、なんだか真面目すぎてとっつきにくそうな印象とは違って三生がとても気さくに話してくれるのにびっくりした。
他人の陰口や噂話もしないしなにより三生は尋香の話をよく聞いてくれた。あとからわかったが三生の父は作家でアメリカ文学者でもあり、三生自身は日本育ちだが英語もしゃべれて尋香と英語で会話をすることもあるくらいだった。
いずれにしても三生はいい聞き手になってくれた。それでも三生は必要なことは言いにくいことでも逆にはっきりと言うのだが。
「もー、しょうがないなあ」
結局、三生は尋香に押し切られてしまった。
演目はヘレン・ケラーの話を先生が英語劇にしてくれたものだ。
てっきり高等部が中心になってやるのかと思って三生は今日子や沙希と一緒に劇の練習に参加したのだが、ヘレンは尋香、サリバン先生役は三生だという。高等部の演劇部員は3人しかいないからという理由だった。
英語劇だったからセリフの暗記が大変で、先生は練習中は英語だけで話せと言うし、演技指導も結構厳しかった。三生は運動には自信があったが演技も発声も出来なかったから尋香から特訓される羽目になってしまった。
「尋香、三生の先生なのー?」
寮にある防音のピアノ室を借りて練習するのだが同級生たちが面白半分に見に来る。
「あー、みんな邪魔しないで。三生を特訓しているんだから」
「そんな付け焼刃で練習したって」
三生の抗議を尋香はにっこりととりあわない。
「三生には出来るわ」
なぜか自信のある言い方。
「ねえ尋香、ファンレターがきているわよ」
クラスメイトが外出した時に外でこっそり高校生の男の子に預けられたという。
「尋香が演劇祭に出ること噂になってるって、その男の子言ってたよ」
「そりゃ市内の男子高校生にファンクラブもある尋香のことだもの。当然よね」
「えっ」
三生が声を上げた。
「尋香にファンクラブなんてあった? 知らなかった」
「それがさー、ほら、この前、尋香がコマーシャルに出たでしょう? あれよ、あれから」
そのコマーシャルは尋香にとっても初めての芸能活動だった。車の高級セダンのCMで主演は大物男優だ。尋香はその娘という役どころでほんの1、2秒くらい座席に座っているところが映し出されているだけだったが、たった2秒でも尋香の美少女ぶりは際立っていた。
「市の演劇祭には必ず見に行きますって、その高校生の男の子が言ってた」
クラスメイト達がキャーキャー言う。
「それじゃわたしもがんばらなきゃ。だから三生も」
尋香がぽんぽんと三生の肩をたたく。
まったく。尋香はかわいいだけじゃなくて演技も発声もバレエもずっとレッスンを受けているけどこっちは素人なんだからね。三生は心の中で文句をいいながらしぶしぶ練習を続けた。
尋香には悪いが三生はとうていうまくはできないと思っていた。口にはしなかったが。
演劇祭の当日、舞台の袖で三生はヘレン姿の尋香のかわいらしい姿と一緒に並んで待っていた。
準備が整いもうすぐ幕が上がる。市の新しい文化ホールはかなり本格的な舞台だった。幕が上がり始め暗い観客席が見え始める。尋香が英語で三生にだけ聞こえるように言った。
『本気だして』
そして尋香の目つきが変わった。
舞台はもう尋香のものだった。尋香の演技に会場が引き込まれている。英語のセリフにもかかわらず観客はあっけにとられるように見ている。完全に尋香はヘレンだ。尋香を中心とした渦に巻き込まれているようだ。それは三生も例外ではなかった。
三生が舞台に立つと足の震えるような、今から自分が他の人間を演じるという興奮が感じられた。それを尋香がまるで煽るように演技をぶつけてくる。おじけづきそうだった。
ヘレンがサリバン先生に心を開くまで、「water」という単語に心の目を開かれるまでの演劇や映画などでも有名なくだりだ。学生が演じるのは無理があるが英語劇では誰もが知っているストーリーが選ばれたようだったがとんでもなかった。三生はこの劇に決まったのは尋香のせいではないかと思っていた。
尋香の演技に最初は押されていた三生だったがストーリーどおり最後は三生が演技を締めくくる。最後の拍手が聞こえ幕の下りるのを見て三生はがっくりと疲れて舞台の袖に戻った。ひどく足が重かった。
「三生! すごいわ」
尋香が抱きついてきたが、どうすごいのか意味がわからない。ふたりを見る他校の生徒や会場スタッフの驚きとも感嘆ともとれる視線。
「あなたに……うまく乗せられちゃったみたい」
「何言ってるの、三生ならできるって言ったでしょ」
尋香には余裕があるが三生はそれどころではなかった。やっと緊張が引いて動悸がおさまってきた。
着替えて通路に出るとクラスのみんながわっとふたりを取り囲んだ。
「尋香すごいわ」
「そう、もう私なんて引き込まれちゃって。やっぱり違うよ。他校の劇なんて目じゃないよ」
「三生もすごくよかった。この尋香に張り合うんだから」
「別に張り合っちゃいないよ」
三生が言い訳を言ったが、今になって指先が冷たく震えている。三生はそれを消すようにぶらぶら手首を回した。
「尋香ー。もうファンが来てるわよー」
ひとりがふざけて言ったが三生たちがホールへ出て行くとなんと花束を持った男子高校生が何人も尋香を待っていて、その様子を大勢の人たちがもの珍しそうに見ている。尋香は花束をもらって礼を言いながらにこやかに握手までしている。
「はー、さすが尋香だねえ」
三生は感心してしまった。さらに尋香は背広姿の二人連れの男性と話をしている。おいおい、こんなところでスカウト? と三生は思ったが、違った。尋香がみんなのところへ戻って来ると所属事務所の社長たちだという。わざわざ尋香を見に来たらしい。
「あのう」
そんなことをみんなで話していると三生に声がかかった。
「サリバン役の人ですよね? あのー、握手して下さい」
他校の制服を着た女の子が手を差し出した。続けて同じ制服の2、3人も。
「えっ、わたし?」
「嶺南ですよね。わたしたち西高の演劇部なんです。名前教えてもらえませんか」
「そ、それは……」 三生がうろたえると尋香が口をはさんだ。
「いいじゃない、握手してあげたら」
しかたなく三生は握手した。
「キャー、うれしい。わたしたちいっぺんであなたのファンになってしまいましたあ」
「わたしたち、西高の1年生です。何年生ですかあ?」
妙にテンションが高い。この子たちは都立高校の生徒だと言っていたが、三生のほうが背が高かった。
「中3だけど」
「えーーー、中学生っ? うっそー」
うそじゃないって。他の中学校だって参加しているでしょうが。
そう思ったが高校生たちが大きな声を上げたので三生は恥ずかしくなってしまった。
「もう帰ろう。え? まだいる? じゃ、わたし先に帰る」
こんなところにいるのは閉口だった。クラスメイトたちを振り切るように三生は先にホールを出た。
「三生ったら先に帰っちゃうんだもん」
寮に戻ってきた尋香が三生に言う。
「事務所の社長さんだってあなたのこと聞いてきたわよ」
だからいやなんじゃない。もう。
「ねえ、三生、演劇の勉強する気はないの?」
「ない」
「どうして? あなた自分でもわかっているんでしょ。自分が演技にむいてるってこと」
尋香がもらった花束から抜いてきてくれた白いマーガレットをくるくると回しながら言う。
「今日なんとかできたのは尋香のおかげだよ。まぐれだよ」
「ふーん、その気はないの?」
「ない」
三生は言い切った。そしてこの話は終わりというように教科書を広げた。尋香は肩をすくめるとマーガレットを挿した小さな花瓶を残して出て行った。
尋香に言われるまでもなく三生にはわかっていた。自分は演技することができるのかもしれないと。しかし三生には演劇を勉強するつもりは全くなかった。尋香には言わなかったが今日の劇に出たことを後悔していた。もう二度と劇には出ないと三生は心の中で思っていた。
さっき、そんな三生に尋香はわからないというような視線を向けていたが。外国育ちで他人のプライ ベートにはあくまで立ち入らないのが尋香で、それは三生も知っていた。もうこの話はふたりのあいだでは出ることはなかった。
2007.09.06
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