いつかの海辺で 2

いつかの海辺で

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 昼食はリクエスト通りそうめんだった。
 漣が朝食を食べていないのに緒都は気がついたようだった。手早く昼食を用意してくれたが、程よく冷やされたそうめんにだしの良く効いたつゆがおいしかった。つゆだけでも飲んでしまった。
 薬味だけでもネギ、ミョウガ、ショウガ、青しそと梅肉を練ったものと並ぶ。あとアジの塩焼きや季節の野菜を煮びたしにしたもの、醤油の焼きおにぎり。昨晩同様盛り付けが美しい。おいしくて全部たいらげる。
「お若いから食べられますね」
「若いっていったって君も同じくらいだろう? ところで君は吉田さんの親戚かなにか?」
 いっぺんに聞いてしまった。
「わたしですか? 三十一です」
 すらりと緒都が言った。
「わたし、吉田さんの息子の博之さんと結婚していたんです。でもうまくいかなくて別れてしまって……」
 吉田さんの息子は千葉に住んでいると聞いたことがある。たしか去年孫が生まれたと言っていたが……。そうか、だからこの人は「義理の娘」か。今は息子は再婚していて妻がいるのだから吉田さん夫婦は緒都のことを「息子の嫁」とは呼べないのだ。きっと息子と別れてしまった後でも娘のように思っているのだろう。
 それにしても緒都は年上には見えなかった。一度結婚しているようにも。

「そう……悪いことを聞いたね」
「いいんです。三年も前のことだし。博之さんとはうまくいかなかったけどお父さん、お母さんは大好き。本当の両親だと思って甘えさせてもらっているの」
「ぼくも吉田さんたちは大好きだよ。小学生の頃から」
 緒都がにこりと笑った。
「お母さんたち、よく漣さんのことを話してくれたわ」
「何て? 金持ちのお坊ちゃんのドラ息子だって?」
「まさか……お若いのに将来は会社を継ぐためにがんばっていらっしゃるって。子供のころから知っているけれどええ若い衆になったって」
「ええ若い衆」
 何度聞いてもおかしな言い回しに聞こえる。「いい(良い)若者」という意味なのだとわかってはいたが。

「緒都さんはいつからここに?」
「ついこの間から。わたし失業中なんです。こっちで働き口がないかと思ってさがしているところ」
「緒都さんは料理人なの?」
「え、違います。ずっと食べ物屋さんでアルバイトしてたから。厨房を手伝っていたし」
「そう。君ならきっとお店をやってもはやると思うよ。僕なんか毎日通っちゃうよ」
 あら、というふうに緒都の顔が驚いている。
「そんなふうに言ってもらったのは初めて……ありがとうございます」
「あ、そうだ、吉田のお母さんが退院しても、もし大変なようなら手伝ってあげてよ。アルバイト代はもちろんきちんと払うから。僕からお願いしているんだからいいだろう? 君の仕事が見つかるまで、ね。お母さんのために頼むよ」
「じゃあ……お母さんが大変なようなら」
「よかった!」
 漣が子供のように手をたたいた。
「夏の間ここへ来る楽しみが増えたよ。たいてい土、日はここへ来るんだ。だから君に働いてもらうのは主に土日になってしまうけど……いい?」
 緒都がうなずいた。

 今日はもう日曜日で東京へ戻らなければならないけれど、予定を変えて夕方まで別荘にいることにした。車で帰るのだから夜になってもかまわない。そうしたのは緒都の作る夕食が目当てだった。
 あれから緒都は夕食の買い物へ行くと言って出かけてしまったので漣はいつもの通り、昼寝をしたり本を読んだり、そして午後四時頃にはまた浜へ行った。夏の午後四時は西日が強く、まだじりじりと暑かった。しばらく泳いでいると別荘の近くに緒都らしい姿が見えた。 なんとなくうれしくなって別荘へ戻ろうと浜を歩きだすと道のほうからひとりの男が浜へ降りてきた。
「れーん!」
「カズ!」
 それは漣の同い年の幼なじみ、この集落で漁師をしているカズだった。
「おおい、漣、サザエ食うか」
 カズが手に持っているバケツを振る。
「うちのかあちゃんが獲ってきたんだ」
 かあちゃんというのはカズの奥さんだ。早くに結婚したカズにはふたりの子供がいる。
「奥さん、元気か」
「そりゃあもう。お前も元気そうだな。吉田のばばあ、入院したんだって?」
 あいかわらずカズは口が悪い。
「うん、でも一週間くらいで退院できるらしい」
「お袋たちが見舞いに行ったってよ。たいしたことなくてよかったな」
 カズと一緒に別荘へ戻りサザエを置こうとふたりが裏から台所へ入ると緒都が顔を出した。
「あ、おかえりなさい。サザエ? うわ、大きい」
「あんた緒都さんだっけ?」
 カズがバケツを渡しながら尋ねた。中には網に入ったサザエがごろごろしている。
「そうです。おかあさんのピンチヒッター」

「あの子、確か吉田の博之さんと結婚してたっけな」
 別荘のベランダにまわりながらカズが言った。
「別れたんだろ?」
「何だ、知ってんのか。情報早すぎ」
 カズがにやっと笑った。
「前にも見かけたことあるけど、かわいいよな」
「なんだ、カズ。おまえ彼女に気があるのか。奥さんに言いつけるぞ」
「そんなんじゃねえよ、ばーか。博之さんと別れたのにまたいるから変だと思っただけだ。博之さんが結婚してから民宿を続けるって話もあったらしいけど、別れちまったからな」
「こっちで仕事を探しているって話しだったけど?」
「ふうん……じゃああの仕事は辞めたのか」
 カズと一緒にベランダのイスへ腰をおろした。
「あの仕事?」
「漣は東京の人間だからわかるだろう? あの子、東京で何とかっていう劇団の女優なんだってよ」
「女優?」
「東京には小さい劇団がいっぱいあるって話じゃないか。そんなののひとつだろ」
 漣はそんな小さな劇団があることはテレビで見て知っているだけだった。客のこない演劇をして団員達はアルバイトで暮らしている。売れて客が入る劇団や俳優はほんの一握りだ。
「そうか……それは知らなかったな。でもいいんじゃないの。僕も吉田のお母さんのかわりにここの手伝いを頼めるし」
「まあな、ここはうち以外じじいとばばあばっかりだからな」
 そんなこともないが確かにカズの言うとおり若い世代は極端に少ない。

 カズの持ってきたサザエは刺身になって出てきた。車で帰るからビールが飲めないのが残念だ。 今日は和食でまるで旅館のような食事が一通り並んだが漣が参ってしまったのは最後のお茶漬けだった。
 ごはんにさっと焙った鯛の薄切りを乗せて薄く醤油で味を調えただし汁をそそぐ。緒都が目の前で熱いだし汁を注いでくれた。いろどりの良い極小のあられやミツバの刻んだもの、切りごま。お茶漬けというよりは雑炊風だ。
「あー、帰りたくなくなってきた」
 漣がそう言うのを緒都は笑いながら聞いている。
「また来週来られたら来るよ。いや、絶対。緒都さん、よろしく頼みます」
「お待ちしています」
 緒都がほほ笑んでそう言った。

 こんなに休みが待ち遠しいのは子供の時以来だ。
 伊豆から帰ってきた翌日にはその週の予定を確認して週末は伊豆へ行くことに決めていた。別荘に、緒都のいる別荘に。

 吉田のおかあさんが退院してしばらくの間も緒都は別荘を手伝っていた。漣は毎週欠かさず別荘に行っていたが、八月が終わる週末に浜にいると緒都が近づいてきた。
 緒都は別荘を手伝ってくれてはいたが、漣と話をすることもほとんどなかった。食事は漣から吉田さんに頼んで緒都に作ってもらっていたが、それ以外は家事の合間の緒都を見かけて目が合うと笑いかけるくらいだった。
「漣さん、わたしそろそろ東京へ戻ります。ちょっと仕事は見つからないし、漣さんの別荘をお手伝いしていても吉田さんちに居候では申し訳ないし。バイト代たくさんいただいてしまって。ありがとうございました」
「帰るの? もしよかったらずっとここで働いてもらってもかまわないんだけど」
「ありがとうございます。でも、おかあさんも良くなったし、別荘の管理に三人も必要ないでしょ。わたしもアルバイトでなくて本格的に仕事を探しているの」
 たしかに別荘の仕事はフルタイムで働く仕事ではない。漣の一家が別荘を使うのはおもに夏の間の週末だけだったし、吉田さんも本業は漁師だ。
「そう、そうだね……でもよかったら緒都さんの連絡先を教えてもらえない?」
 緒都がびっくりしたような、それでいてちょっとうれしそうな顔つきで電話番号をメモに書く。そのメモを緒都が漣に手渡したその時。

 思わず緒都を引き寄せていた。
「漣さん、やめて」
 緒都は抵抗した。
「やめて……やめてください!」
 はっきりいわれて漣は腕をゆるめた。緒都が後ずさって漣を見た。
「どうして……」
「好きだからに決まっているじゃないか」
 漣はなぜそんなことがわからない? というふうに言った。
「緒都さんが好きなんだ。それ以外にないよ」
「漣さん……」

 彼女が黙っていたので漣はもう一度、今度はしっかりと緒都を抱きしめた。
「誰かをこんなに好きだって思ったことは今までないよ。緒都さんが初めてだ」
 緒都が漣の胸につぶやくように言った。
「わたしは初めてじゃないわ……」
「結婚していたんだから、そうだろう。でも僕は気にしないよ。何人目でもかまわない。君が今、僕を好きなら」
「…………」
 漣のあまりに欲のない、と言うかこだわりのない言い方に緒都は何と言おうか困ってしまったが、何と言ったとしても変だ。
「でも……やっぱり」
 ためらいの言葉とともに緒都は漣から離れようとしたが
「じゃあ、なぜ連絡先を僕に教えるの」
 漣が離そうとしない。
「東京で会ってくれる? 約束してくれないと離さない」
「漣さんたら」
 緒都はあきれ顔だ。このお坊ちゃんたら、と思っている顔つき。
「電話……してくれれば」
「絶対、電話する」
 育ちの良さなのか、苦労知らずなのだからか、漣の強引な物言いは鼻へつかない。きっと性格なのだろうと緒都は思った。彼が電話をしてくるのは間違いないだろう。


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