いつかの海辺で 1

いつかの海辺で

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 そろそろ伊豆の別荘へ行くか。
 新藤 漣(しんどう れん)は真夏並みに暑くなってきた七月の日差しにそう思った。もう梅雨明けもしたらしい。今度の土日にはまたいつもの夏のように別荘へ行こう。

 漣の家は裕福だった。漣が子供心にわかるほど家は大きく、別荘が伊豆と軽井沢にあった。夏休みになるたびに伊豆か軽井沢に出かけていたが、漣は海辺にある伊豆の別荘のほうが好きだった。
 海へ突き出した小高い丘の上に別荘はあり、丘を下れば小さいが弓を描いた白い砂の浜辺があって、それに続く岩の見え隠れした磯があった。その向こうは断崖が続き人はそれ以上行くことはできない。 この小さな浜辺は新藤家の所有でプライベートビーチなのだったが、地元の漁師に管理をさせており、別荘をはさんで浜とは反対側にある小さな漁港の集落の子供たちが遊ぶのを許していた。子供たちなら浜辺に何か打ち上げられたとか、変わったことがあればすぐにその親である漁師たちへ知らせが行く。
 だから漣がこの別荘に来た時、はじめは別荘の持ち主のお坊ちゃん扱いだったが毎日浜へ遊びに行くうちに地元の子供たちとも打ち解けて都会育ちの漣が裏も表もわからないくらいに日に焼けていく頃にはすっかり遊び仲間になってしまった。海水パンツ一枚で毎日泳いで小さな銛で魚を追いかけたり、 磯の貝や見たこともないようなぶよぶよの変な生き物をつついたり。漣よりも年上の子がリーダー格で同じ年ごろの子がふたり、あとは下級生で総勢でも五、六人、男の子たちばかりでそれは漣が中学生になってもほとんど同じ顔触れだった。
 夏になるたびに遊んだ屈託のない友達は大人になった今はほとんど集落を離れてしまい、ひとりが残って漁師として働いているだけだったがそれでも蓮は別荘へいくのを楽しみにしていた。

 別荘に出かける予定を林田へ伝えておく。
 林田は新藤家の家政全般を取り仕切って新藤家の秘書のような役割もある。漣が生まれる前からいる信頼のおける人だった。 あさっては別荘へでかけるというその日に林田が会社から帰宅した漣に言う。
「お食事中、申し訳ありません。じつは今日伊豆の別荘から連絡がありまして、管理人の吉田の奥さんが入院されたと……」
「吉田のおかあさんが? 病気で?」
 びっくりして漣は尋ねた。
 管理人夫婦の妻だったが、漣はおかあさんと呼んでいた。漣にとっては伊豆の、別荘のおかあさんのつもりだった。
「おととい倒れたそうで……どうも子宮筋腫のようです。連絡が遅れて申し訳ないと吉田が申しておりました。つきましては別荘へ漣様がいらしてもお世話が充分に出来ないのでいかがしま
しょうかと」
 お世話と言っても漣はもう二十八だ。それにひとりでのんびりしに行くだけだから身の回りの世話と言ってもたかがしれているだろう。しかし食事はいつも吉田のおかあさんが作ってくれている。
「いいよ、僕の方はほっといてくれて。それに僕も吉田のおかあさんを見舞いたい。吉田さんが大変なら誰か手伝いの人を頼むようにすればいい。吉田さんから地元の人をお願いしたほうがいいだろう」
「わかりました。吉田もこんな時ですが漣様にお目にかかりたいと申しておりました」
「無理をしないようにと言ってくれ」


「まあまあ、漣さん、こんなところまで申し訳ありませんねえ。わざわざお越しいただくなんて」
 別荘へ向かう前に真っすぐに病院へ漣は来ていた。別荘からは車で二十分ほどの市内の小さな総合病院だった。
「元気そうだね、おかあさん。安心したよ」
「すいませんねえ、ちょっと具合が悪くなっただけですのに」
 吉田のおかあさんはさほど病人然としておらず持ち前の明るさで言った。
「息子さんですか」
 看護師の若い女性が声をかけてきた。
「いえ、違いますよ。わたしらが働いている別荘の持ち主の坊ちゃんですよ」
「坊ちゃんなんて」
 二十八の男に坊ちゃんはないだろう。漣は苦笑した。
「ほうら、漣さんみたいにすてきな人が来ているから気になるんでしょう? ねえ、看護師さん」
 看護師の女性は笑って出て行ってしまったが、そう言えばさっきから女性看護師がやけに目に入る。 仕立ての良いスーツをきちんと着こなし、見舞いの花束を持ってやってきた漣はすっかり看護師たちの注目の的らしい。
「なんだか都会の男が珍しいようですね」
「そりゃあ、ここらは田舎ですからねえ。蓮さんが目立つからですよ。男前のかっこいい若い衆がベンツに乗ってブランド物のスーツを着て、しかもこんなおばさんのところへ見舞に来ているんですから」
「若い衆、ですか」
 漣はその地方らしい言い方に笑った。そんなことを言うのはこの吉田のおかあさんくらいしかいない。
「早く良くなって下さいよ。僕はおかあさんの刺身が食べたくて来ているんだから」
「すいませんねえ、今回は義理の娘に食事の支度は頼んでおきましたから。なに、わたしより料理はうまいですんて」
 吉田さんに義理の娘なんていたのか。親戚の人という意味かな。田舎の人間関係を表す言葉は独特のものがあるからなあ、と漣は考えていた。

 漣は長居をせずに病院を後にすると別荘へ向かった。幸い吉田のおかあさんは深刻な状態ではないようだったし、今回は一泊するだけだ。 別荘では吉田さんが出迎えてくれていた。
「漣さん、すまんですね。わざわざ見舞いまでいただいて。さっき女房から電話があったもんで」
「うん、おかあさん元気そうだったよ。よかったね、一週間くらいで退院できるそうじゃないか」
 吉田さんは陽に焼けた顔をほころばせた。
「はい、ありがとうございます。今回は料理は親戚のもんに頼んでおきましたから、すいませんが。夕食は六時でいいですか?」
「うん、その人にもよろしく頼むように言ってくれ」
 漣はすぐに部屋へ行ってTシャツとハーフパンツに着替えた。ここには必要なものはほとんど置いてあるからいつも手ぶらで来る。 ベランダへ出て午後の暑い西日を眺めた。もう五時だというのに暮れる気配のない七月の太陽だった。
「おかあさんの料理でないということは何かなあ。やっぱり刺身かなあ」
 漣はつぶやいた。
 ここは海が目の前だ。新鮮な魚介にはことかかない。小さな集落は半農半漁か漁業のかたわら民宿を営むかのどちらかだから土地の人ならおのずと料理は想像がつく。 しかしそんなことを考えながら夕食のテーブルを前に座った漣は美しいセッティングに目を見張った。箸も置かれていたがナイフとフォークもある。出てきたのはまず前菜だった。鯛のカルパッチョ風生野菜添え。東京のレストランならそうメニューに書いてあるだろう。 食材はともかく盛り付けが洗練されている。生野菜の真ん中に小さくこんもりと鯛の薄造り。穂じその花だけが茎からはずされたものが薄造りの鯛の身から透けている。
 漣は振り返った。吉田さんは神妙な面持ちで皿を運んでくる。
 ひと口食べてみた。おいしい。
 鯛はもちろん新鮮でおいしいのだけれど、酸味としょうゆを効かせたソースというかタレの味が気に入った。すぐにコーンポタージュが出てきたが、あきらかにトウモロコシから手作りした味がする。 肉もあった。薄切り牛肉をさっと焼いてゴマのタレにあえてある。こちらは箸で食べる。
「おいしいなあ」
 頬張りながら漣が言うと吉田さんもうれしそうに言う。
「刺身もええけんど、漣さんはお若いからうちの女房の料理よりこういったほうがいいでしょう」
「いや、お母さんの刺身は最高だよ。吉田さん、これ作っている人あとで手がすいたら呼んでみて」
 しかしデザートの夏ミカンのシャーベットが出るといったん台所へ行った吉田さんが戻ってきた。
「漣さん、済まんです。恥ずかしいからってどうしても来んです。ご挨拶するように言ったんだけんど」
「あ、いいよ、いいよ」
 漣は吉田さんを困らせないように言った。
「おいしかったって言ってくれれば」

 翌日、漣が朝寝坊をして起きるとすでに夏の日差しで暑かった。 吉田さんがたいへんだろうと朝食はいらないとあらかじめ言ってあったが、昨日の夕食を食べた後でちょっと後悔した。あの料理を作った人が朝食を作ってくれるのなら食べてみたい。
 漣は浜へ降りるために別荘の裏手へまわった。こっちからが近道なのだ。少し離れたところ、その向こうに吉田さんの家が見える。吉田さんは以前は民宿をやっていたので建物もそれふうだ。変わらない、このあたり。
 別荘の裏には洗濯物干し場があり、すでに洗濯物が干されていた。漣がその脇を通って裏へ抜けようとした時、洗濯物の陰からふいに若い女性が出てきた。
「あ……」
 漣も驚いたがその女性も驚いたようだった。まだ若い。漣と同じくらいの年格好だった。Tシャツに膝上丈のジーンズのズボン。ゴムぞうり。洗濯物用のかごを持っている。
「おはようございます。お出かけですか?」
「うん、浜まで。……あの、君は?」
「あ、ごめんなさい。わたし、吉田のお父さんから手伝いを頼まれて来ました」
 ああ、そう、よろしく頼むねと言いながら漣はこの子は今日だけ手伝いに来たんだろうと思っていた。 少し化粧をしてショートカットの髪がきれいなブラウンだ。すんなりした体つきで陽に焼けてショートパンツから出た足は少年のようだった。地元の子だろう。でも、こんな子いたかな?  もっとも漣はここの女の子はほとんど知らなかった。子供の頃遊んだのは皆男の子ばかりだったからだ。

 それから浜でひと泳ぎして砂浜に寝そべっていると、しばらくしてさっきの女の子が近づいてきた。
「あの、お昼はどうなさいますか?」
 漣は女の子のゴムぞうりの足を見ながら顔だけを起こした。
「え? ああ、なにか適当に頼めるかな。いい?」
「はい、何がいいですか……」
「いいよ、何でも」
 この時も漣はまだ気が付いていなかった。
「あの、夕べと同じようなものでいいですか?」
「ゆうべ?」
 漣は驚いて起き上がるとぱっと立ちあがった。
 女の子のすぐ前に立ちあがってしまい、水着でむきだしの上半身が女の子の目の前にきてしまった。女の子が二、三歩後ろに下がる。
 昨日の料理をしてくれた人とは思わなかった。吉田さんは義理の娘だと言っていたので六十に近い吉田さん夫婦のその義理の娘というのも40歳くらいの人だろうと思っていたのだ。

「昨日の料理って君が作ったの……」
「はい、お気に召しましたか?」
 都会的なその言い方に漣はびっくりした。こんな若い子だったなんて。
「へえ。あ、いや、とてもおいしかった。それにとても……洗練されていた。東京でもあんな料理にはめったにお目にかかれないよ」
「ありがとうございます。お昼は吉田のお父さんが病院へ行って留守なので新藤さんのお好みを伺っておこうかと思いまして」
 他人行儀なのは仕方がないけれどまるでレストランのシェフと会話しているようだ。
「あ、ねえ、君……」
 漣が前へ出るとその子がまた後ずさった。かすかに目をそらす。漣は自分が水着一枚ということをすっかり忘れていた。
「あ、失礼。ごめん、別荘へ戻るから」
 あわてて放り出していたタオルをつかむと別荘へ戻った。あの子も後からついてくる。
 シャワーを浴びて服を着て居間へいくとその子が冷茶を運んできてくれた。
「新藤 漣です。君は?」
 わざわざ名乗ってしまった。しかしそうせずにはいられなかった。
「山本 緒都です」
「おと、さん?」
「はい。情緒のちょ、に都会のと、です」
「あ、そうだ。昼食を用意してくれると言っていたね。別に嫌いな食べ物はないよ。でも洋食と和食なら交互にしてくれるとありがたいんだけど」
 最後は笑って言う。
「昼はやっぱりそうめん、かな」
 緒都も笑った。背はあまり高くない。もっとも漣は背が高いから彼女は平均くらいだろう。
「158p?」
「いいえ、160p。新藤さんは?」
 漣がふいに聞いたのにもかかわらず緒都はすばやく答えを返した。
「漣でいいよ。179p、立ってないで座ってよ」
「いえ……わたしは」
「僕が別荘の持ち主だからって遠慮することはないよ。正確には持ち主はおやじ」
 まあそれを言っても彼女は遠慮するだろう。吉田さんの手伝いでここへきているのだから。
「じゃあ、昼食がすんだらちょっと話相手になってよ。吉田のお母さんの最近の様子も聞きたいし」
 そう言えば彼女は断らないだろう。


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