大きなカブ 4

大きなカブ

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「はい、運送会社止め、ですね」
「そう、うちの会社には置くスペースがなくてね。今月中にはお客のところへ発送するのでそれまでは運送会社に置いといてもらうように手配してあるので運送会社止めで発送して下さい」
「かしこまりました、営業にも言っておきますので」
「注文書はファックスで先に送ってしまったのでお願いしますよ」
 ファックスを確認するとすでに注文書が来ていた。営業を見ると比呂乃ちゃんがまだ電話中
だったので、運送会社止めにすることを書いたメモを添えて持っていった。 注文書の発注日を
マルでかこって比呂乃ちゃんへ渡す。受話器を耳にあてたまま比呂乃ちゃんがわかったというふうにうなずいた。

 翌々日。
「おーい、コウエイ社からの注文とったの誰だ?」
 業務部長の声が響いた。
「運送会社止めにする件、聞いたか?」
「はい、聞きました」
 私が答える。
「西野さん、ちょっと」
 業務部長の部屋へ呼ばれた。
「荷が届いたそうだけど、運送会社止めじゃなくてコウエイ社に直接届いたそうだよ」
「え……」
「注文書は運送会社止めになってないね」
「それは、運送会社止めにすることはあとから電話をいただいたので」
 業務部長の持っている注文書には私の書いたはずのメモがついてなかった。発送欄を見たが運送会社止めにする旨も記入されていない。
「運送会社止めにすることはメモして営業へ回しました」
「でも運送に関することは業務に回してくれた方が良かったんじゃないか。直接、発注担当の岡本君へ言うとか」
「……」
 しかし注文書は営業部長がチェックして業務の発注へ回ることになっている。もっとも営業部長がいないことが多いので営業事務の比呂乃ちゃんが注文書を取りまとめて業務へ回している。 比呂乃ちゃんが呼ばれた。
「皆川さん、運送会社止めにする件、西野さんから聞いてない?」
「はい、注文書にも書いてなかったので」
 そんな、わたしの書いたメモは。
「むこうは荷を降ろす予定がなかったのでフォークリフトも何もなくて困ったらしい。運送会社にまた送り返す手続きを取ったそうだけどコウエイはもう怒ってうちに返品するそうだ。 送り返す運賃と返品の運賃は当然こっちへ請求すると言っている」
「困るねえ」
 後ろに立った経理部長が言った。
「大きなものだし、数もあるからねえ」
 私は唇をかんだ。
「西野さん、これからはそういうことは必ず注文書へ書き入れるように。そのために発送欄があるんだから」
「……申し訳ありませんでした」
 確かに注文書へ直接書き入れればよかった。発注日をマルで囲んだように。そのマルは確かに書かれている。 それから経理部長にも謝り、発注の岡本さんにも謝った。私より若い岡本君は「いいですよ、気にしないで」と言ってくれたが。それにしても。
 比呂乃ちゃんはなぜあんなことを言ったのだろう。私の書いたメモは?
 比呂乃ちゃんはさっさと営業の部屋へ戻ってしまっていた。 相変わらず、電話が鳴っていた。誰もなかなか取ってくれない。しかたなく私が取る。が、声が出なかった。
「もしもし、ディーアンドさん?」
「……あ、はい、失礼しました。ディーアンドでございます」

 どんどん気分が落ち込んでいった。
 定時に仕事を終わり帰る。佐久間さんからメールが来たが今日は出張で会社にいなかった彼は知らないのかもしれない。
「お疲れ様、気をつけて帰ってきてね」
 いつものメールを打つ。
 次の日、気を取り直して仕事へ向かった。もう何事もなかったように一日が過ぎて行く。もともと私が電話以外にしゃべらなくてもまわりの人たちは気にしないし、仕事が忙しかった。でも確実に電話を取るのがいやになっていった。 なるべく倉庫などに用事を作って電話に出ないようにしていた。今日は佐久間さんや他の営業の人もいるから彼らも電話を取ってくれている。そのほうがはかどるだろう。
 午後、四時近くになってやっとほっとしてコーヒーを淹れに給湯スペースへ向かったが、廊下のところで比呂乃ちゃんの声が聞こえた。
「……わたし、知らないもん。メモがついていたなんて。あの人、高卒のバイトのくせに出しゃばるからミスするんじゃないの」
「おい、皆川さん! だってあのとき……」
 岡本君の声が聞こえた。
 メモってあのときの? でも高卒のバイトって……比呂乃ちゃん、そんなふうに思っていたなんて。
 ぎりぎりのところで体の向きを変えて離れようとした途端、後ろに誰かがいてあやうくぶつかりそうになる。
「……」
 佐久間さんだった。何も言わず立っている。私が脇をすり抜けようとすると腕をつかんだ。
「由紀」
「なんでもない。離して」

 そのまま席へ戻り書類をかかえて倉庫へ行ってサービス用の備品をチェックする仕事を続けた。途中からサービスの人がひとり来て、足りないものを在庫から出す手伝いをしてくれた。定時までそれを続けて事務室には戻らなかった。電話が鳴ろうと関係ない。
 会社を出て車のところへ行くと佐久間さんが待っていた。
「おれの車に乗れよ」
 何も考えられなくて黙って車へ乗った。佐久間さんも私のミスを知っているのに違いない。営業課長なんだから。佐久間さんがコウエイ社の担当でないだけよかった。
「……由紀らしくないな」
 私はメモをちゃんとつけたわよ。でもご勝手に。言い訳するのも悲しくてしたくない。
「でもお前の気持ももっともだ。高卒でバイトだって言われてもやっていることは正社員並み、いや正社員以上におまえはよくやってくれているよ」
「……でもミスしたらバイトも正社員もないでしょ。お客さんに対しては」
「そりゃそうだな。今回は運送費が高かったから目立ったけど、あんなミス、コウエイの担当の宮城嶋のほうが驚いていたぞ」
「注文書へ直接書かずにメモを添えただけだから悪いのよ。わたしのミスだよ」
「メモをつけたのか。営業に回す前に?」
 言い訳がましくなるからもうそれ以上言いたくはなかった。
「どうやらお前のミスじゃなさそうだな」
「ありがとう、そう言ってくれて。でもミスはミスよ。でも立ち直れるから大丈夫」
「手を貸そうか?」
「何?」
「立ち直るのに」
 そういうと佐久間さんは右折して進路を変えた。
「何? どういうこと?」
「黙ってついてこい」
 ばか、車なんだから、佐久間さんが運転しているんだから私にはどうしようもないでしょ。
黙ってついてこいだなんて。
 車はしばらく走って駐車場へ止まった。聞かなくてもわかる、ラブホテルの駐車場だ。
 佐久間さんはどんどん入っていく。部屋へ入って、でも入口のドアを閉めたところでわたしは動けなくなった。佐久間さんがわたしの前へ戻ってきた。
「おまえ、仕方がないって思っているんだろ」
「……」
「比呂乃に足をすくわれたこと」
「……」
「だけどおれにはおまえの学歴なんて関係ない。それにすべての社員がおまえを見下したりしていないよ。おまえの仕事ぶりを見ればおまえが有能なことくらいすぐにわかる。おれにもだ」
 そうして佐久間さんはぎゅっと私を抱きしめた。
 そう、比呂乃ちゃんは社内でも私としゃべってくれて英語ができることをひけらかさない人だと思っていたのに。同僚として仲良くしてくれていると思っていたのに、その彼女があんなことをするなんて。そのことのほうがつらいのだ。
 佐久間さんの唇が重なってきて私の手からぽたりとバッグが落ちた。
「つらいんだろ……由紀」
「……」
 佐久間さんの腕に抱えられるようにしてベッドへ連れて行かれた。
「忘れろ。おまえが気にするようなことじゃない」
 口がふさがれて返事が出来ない。どんどん服をはぎとられてあっというまに裸で佐久間さんが絶え間なくキスと愛撫を繰り出してくる。確かにこんなことになったらもう何も考えられない。 背が高くてがっちりした彼の下では彼の思うままのようだったが、彼がすごく優しくしてくれているのがわかった。
「今までこんなこと……」
「ずっと待っていたんだ。でも由紀は忙しそうだったから」
 ……佐久間さんは私に深いキスをしてから。
「由紀が好きだ」
「佐久間さ……」
「亮二だよ、由紀」
「わたしも……亮二……」
 佐久間さんの手はやさしいけれど躊躇なかった。待っていたものに満たされるようだった。心も体も。何よりわたしの耳にささやいてくれた彼の「愛している、由紀」っていう言葉がわたしの心へ特効薬のように効いていく。

 私の上から離れて横たわった彼が私の体を引き寄せながら言う。
「由紀、結婚しよう」
「え……」
「おれもおまえも結婚をためらう歳じゃない。今すぐだっていいくらいだ。べつに結婚の妨げになるものはないと思うけど、どう?」
 ぼーっとしている私の頬を佐久間さんがつついた。
「うん、実はね。会社、今年いっぱいで辞めようと思っていたんだ。イラストの方に専念しようと
思って」
「そうか。おまえは損得抜きで仕事をまじめにやりすぎる。自分が大変なのがわかっていてもな。仕事はひとつにしたほうがいい。でもまさか、だから結婚できないって言うんじゃないだろうな」
「そう言いたいところだけど」
 私は彼の胸に顔をこすりつけた。
「こんなふうに抱かれたら言えないよ」
 彼がまた笑いながらキスしてきた。おかしいのか、うれしいのか。子犬がじゃれあうようなキスをくりかえしてわたしたちはまた抱き合った。

 年末まできちんと働いて仕事を辞めた。それまで小さなミスもしないように気を配ったのは言うまでもない。比呂乃ちゃんは話しかけてこなくなったが、仕事上はつとめて前と変わらず接した。わたしがそうすると決めていたから。 送別会も固辞した。最後に倉庫のほうへ挨拶に行くと柴田さんと業務の岡本君がいて紙袋を渡してくれた。中には私の描いたカブの絵とプレゼントの包み。
「社員旅行の時におれたちこの劇をやらされてさんざんでしたよ。でもこの絵は西野さんが描いたんでしょう? 仕事辞めて絵の方をやるって聞きました。がんばってください。」
「ありがとう、岡本君もね」
 いつのまにか佐久間さんが後ろに来ている。
「あら、佐久間さん、何か……」
 柴田さんが言いかけてやめた。佐久間さんがとなりに並んで立つとわたしの肩へ腕をまわして自分のそばへ引き寄せたからだ。
「あ……、そういうこと」
 柴田さんと岡本君が目を丸くしている。
 佐久間さんの手が暖かかった。
 私は笑うしかなかった。

終わり


2007.09.06掲載
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