大きなカブ 1

大きなカブ

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 私ってかなり無口だと思われているみたい。
 まあ確かにしゃべらないけれど。相手にもよる。昔からの友達には普通にしゃべる。でも初対面の人には特にしゃべらない。別にしゃべらなくても平気。昔はなんかしゃべらないと気づまりで相手に悪いんじゃないかと無理してしゃべっていたこともあった。 けどそんなことしてしゃべっても不自然に話が弾まないし、黙っているほうが楽だって気がついてからは無理にしゃべることもなくなった。つまらない女、暗い女と思われてもいいのよ、別に。ほんとにつまらないし、暗いから。
 経理だけど総務担当の柴田さんがめずらしく私に話しかけてきた。
「西野さん、絵の、デザイン系の専門学校でているんでしょ?」
 はあ、そうですが。
「ちょっとこれお願いできるかな」
 何? カブの絵? 今度の社員旅行で「大きなカブ」の劇をやるって? なに、それ子供むけのお話じゃない。それで大きなカブの絵を描いてほしいって、 模造紙に? 自分で描いたらと言いたいところだけど、答えは聞かなくてもわかるから言わない。だって私、絵、描けないんだも
のー、とかなんとか。
 描ける自分からしてみるとこの描けないっていう理由はなんなんだ? って思うね。絵がうま
かったら描いて当然ってか? いやいや、そんなことは言えません。 私はしがないアルバイト、この外資系の会社に英語がしゃべれるわけでもないのに雇われて早や二年。 あとから正社員として入社している私よりも若い女性社員もいるが、私の仕事内容はテクニカルサービス部門の事務で正社員並み。 でも待遇は時給計算のバイトでいいように働かされている感はあるけど、それは最初に雇われるときに承知済みだから別に文句もない。
 社員旅行だって、もちろん私は参加しなくていいんでしょうね。まあ描いてやるか、仕方がない。断るほうが波風立ちそうだし。 旅行幹事をやらされているっていう柴田さんが会議室のテーブルを寄せて紙を広げてくれた。
「西野さん、助かるわあ。部長にカブの絵を準備しろって言われて。もっと早く言ってくれたらいいのに」
 B5のコピー紙へざっと下書きして柴田さんに見せる。
「こんな感じですか?」
「あー、カブだわ。やっぱり絵心のある人は違うわねえ」
 そんなに持ちあげなくてもいいですって。
 さらに模造紙へシャープペンでざっとあたりをつけておいてから柴田さんに聞く。
「何で描きますか?」
「え? なに? って」
「マジックインキで、とか、絵の具でとか」
「あ、ああ、由紀さんにお任せするわ。といっても絵の具なんてうちの会社にないから買ってこなきゃならないけど」
「せっかく描き始めたので墨汁で書くところまでやっておきます。紙をそのまま置いておいてくれたら明日、私が家から絵の具を持ってきますから」
「墨汁なんてあるの?」
「はい、前に部長が何かを書くといって買ったのがあります。小さいやつですけど」
 確かお客への挨拶状を毛筆で書くと言って墨汁と筆を買ったのだ。小学生のお習字用のやつだけど。
 私はその墨汁を出してきて小さな給湯スペースから皿やぞうきんを持ってきた。皿へ墨汁を出し、筆を浸す。別にそれ以外の準備もいらないだろう。
 真っ黒な墨汁を含んだ筆をざっとした下書きだけの模造紙へ走らせる。浸み込みの悪い模造紙の上では墨汁はなめらかに伸びる。思っていたとおり。 自分の立つ位置を変えながら線だけで葉のついたカブを描いていく。最後にカブの実のおしりのところにしっぽのような端っこを描いて出来上がり。
「へえ、うまいもんだねえ」
 佐久間さんの声。
 驚いた。いつのまにか柴田さんだけでなくて営業の佐久間さんと営業事務の皆川さんがいたのだ。
「ほとんど下描きがないのにさーっとかけるなんて、由紀さんすごいわね」
 皆川比呂乃ちゃんがいう。比呂乃ちゃんはわりと私がしゃべる人。
「これでどうするの? 色とかつけるんでしょ。あ、私も手伝うね」
 そう、ほめてくれるだけじゃなくて手伝ってよね、ギャラリーの皆さん。
「明日、絵の具を持ってくるので。それまでに乾くでしょうし」
「じゃあ、明日は比呂乃ちゃんもお願いね」
 柴田さんはあくまで自分は手伝う気はない。
 翌日、自分の水彩絵の具を持ってきて昼休みに色づけ作業にかかる。
「葉っぱは緑色だよね」
 比呂乃ちゃんが私の手元を覗き込みながら言う。
「そう、薄く色づけすればいいでしょ。こっちから塗ってもらえる? 墨の線にかからないように、にじむから」
 葉に薄い緑色を塗ってもらい根元はさらに薄い色にぼかしてやる。カブの実は墨汁を薄めて淡い薄墨で控え目にさっと陰影をつける。 比呂乃ちゃんが塗ってくれたところと自分の塗ったところの差が一目了然だけど、ここは大人同士、さりげなくカバーしてやる。
「カブらしくなったね、さすが由紀さん」
 と、比呂乃ちゃんがお返ししてくれる。できあがったところで昨日の佐久間さんがぬっと現れた。
「あ、できたの。ふーん、いいじゃない。ここ比呂乃ちゃんが塗ったんだろ?」
 佐久間さんが指さす。
「えー、わかりますう?」
 営業マンの佐久間さんは営業事務の比呂乃ちゃんに遠慮がない。みんなから好かれるタイプの比呂乃ちゃんはまさに営業のマスコットってな感じ。 絵の具を片づけて会議室を三人で出る。佐久間さんが話しかけてきた。
「昨日の夕方、ここを使ったんだけど西野さんが描いたって言ったらみんな感心していたよ。君は絵がうまいんだねえ」
 それって営業マンの打ち合わせかなにかですかあ? 私が描いたっていわなくてもいいのに。本当は褒められて謙遜して見せなきゃいけないんだけど。
「ありがとうございます。お役に立てて何よりです」
 ああ、堅い挨拶になっちゃたわ。

 二日後の土、日曜日は社員旅行で私は休み。一泊の社員旅行に参加しないのはバイトの私と都合が悪くて参加できない人だけ。
 月曜日にはいつもと同じ業務。朝、比呂乃ちゃんが来て言う。
「由紀さんも来ると思ってたのに、どうしてこなかったんですかぁ。木村さんも法事だからって来なかったけど由紀さんも用でもあったの?」
「だって私はバイトだから」
「えっ、正社員じゃないからって参加できなかったんですかぁ? ちょっとそれひどい」
「べつに去年もそうだったから、わかっていたことだから」
「あ、あのカブの絵、とても好評でしたよ。業務部の5人が寸劇をやらされてね。おもしろかった」
 やれやれ、おとなの寸劇で「大きなカブ」ですか。

 月曜日はけっこう電話がかかってくる。この社はアメリカの機械メーカーの日本支社で四十人くらいの社員がいるけれど営業マンやサービスマンは普段は外へ出ているし、常に社にいるのは事務系の社員を中心に十人くらい。 かかってくる電話のほとんどが取引先からで電話をとるのは特に決まってなくて、とにかくとれる人が率先して取るということになっている。でも電話をいちいち取っていると仕事の能率が上がらないから、おもに電話を取るのは 営業事務の比呂乃
ちゃんで、営業課には支社長の秘書の深田さんもいるんだけれど、この人は英語がしゃべれて秘書というだけあって美人でお嬢様っぽいんだけど自分の仕事以外はしたくないタイプらしくて 電話が鳴っていてもすぐに取ってくれない。比呂乃ちゃんが取りきれない電話はだいたい私が取っている。それは営業あての電話に次いで多いのがテクニカルサービスあての電話で成り行き上仕方なく。 でも営業マンもサービスマンも外回りが多く、誰もいないと困る。携帯で連絡が取れればいいけれど車で移動中はその連絡さえ取れないんだから。お客様に後で電話するよう
にっていうメモが積み上がっていくだけ。 特に私のいるテクニカルサービス部門は機械の構造、修理、メンテナンスなど専門的な問い合わせばかりで私にはまったく答えられないから上司に言ってなるべくひとりはサービスマンが支社内にいるようにしてもらっていた。 営業も同様でとにかく営業マンでないと話が始まらないのだが営業マンは皆、外回りと出張の繰り返しで机の前にいることの方が少ない。がらんとした営業部の部屋の中には事務の比呂乃ちゃんだけっていうのがあたりまえの状態。 でも今日の月曜日は珍しく営業部長と佐久間さんがいてくれた。安心して営業への電話を二人へじゃんじゃん回せる。あー、わたしの仕事もはかどるわあ。
 ようやく一日の仕事が終わりかかり給湯スペースでインスタントコーヒーを淹れていると佐久間さんがぬぼっと現れた。別にこの人ぬぼーっとしている人柄ではないんだけど、背が高くがっちり体型で急に現れるとぬっという感じにとれてしまうんだよね。
「あ、コーヒー? おれにも入れてもらえる?」
「はい、でもこれインスタントですよ」
「見りゃわかるって。ミルクだけいれて悪いけどおれの机に置いといてくれる?」
 佐久間さん、となりの男性用トイレにいっちゃった。まあコーヒーをお届けするくらい営業課までほんの十メートルほどですから。
 営業の部屋には誰もいなかった。そういえばさっき営業部長と比呂乃ちゃんがカタログの在庫がどうのと言いながら倉庫のほうへ行ったっけ。
「おう、ありがと」
 コーヒーカップを置くと同時に佐久間さんが戻ってきた。早い。
「西野さん、ちょっと待って」
 呼び止められて机のわきを覗き込んでガサガサやっているから待っていると。
「これ、おみやげ」
 えっ? おみやげ?? 差し出された箱は温泉まんじゅう。これって社員旅行の……。
「あのう……私にですか?」
「そうだよ。西野さん、参加しなかっただろ? だから」
 参加しなかったのではなくて、最初から声がかからなかったんですけど。
「あのカブの絵、すごくいいね。あんな特技があるなんてたいしたもんだよ」
 はあ、ありがとうございます、とか何とか言って差し出された温泉まんじゅうを受け取った。でも。
「いやあ、相変わらず支社にいると電話攻めだよ。いつも西野さんが比呂乃ちゃんをフォローしてくれているから助かるよ。ほんとは君はサービスの事務なのに。ところで君はまだアルバイトなの?」
 急に聞かれたけど社員旅行に声がかからなかったのはそれが理由だから佐久間さんは温泉まんじゅうを買ってきてくれたのだろうか。
「そうです。いつでも辞められるように。なんて半分冗談ですけど」
 佐久間さんがへえっていう顔をした。「半分冗談」ってところに反応したみたい。
「もう仕事終わり? ちょっと聞きたいことがあるからよかったら食事しにいこう。おごるから。予定ある?」
 さっきわたしの持ってきたコーヒーを今気がついたように口に運ぶ。

「いえ……ないですけど。でも佐久間さん、終われるんですか?」
 ただでさえ忙しい営業だ。残業じゃないの? それを理由に遠慮しようと思ったんだけど。
「時間内に仕事を終えるのも能力のうち、って支社長なら言うよ。まあ現実には無理だけどね。でもどのみち部長がいないうちにおれは帰るつもりだったから。じゃあ、パチンコ屋の駐車場で待っているよ。西野さんは仕事が終わったら来てくれればいいから」
 そう言うと佐久間さん、上着やなにやら持ってとなりの支社長室のドアへ体を突っ込むようにして支社長に「ではお先に失礼します」、とか何とか言っている。
 すぐに佐久間さんはじゃあ、と言って出て行ってしまった。


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