ハニー・ホットケーキ


ハニー・ホットケーキ Vol.2

目次


前編


 ……しかし世の中って甘くないわね。
「あたた……」
 がんがんする頭をかかえて起き上がったら、そこは見覚えがあるのにないようなコンクリートの壁とでかいベッド。わたしはそのベッドの真ん中で寝ていたわけだけど……。
「うっ、わー」
 思わず叫んじゃったこの状況、それは。
「は……れ……?」
 見まわしたベッドには誰もいない。
 わたし、ひとり。え、え、え? でもこれ、寺尾さんのベッドだよね。ここ、寺尾さんの部屋だよね。
 部屋の中は妙にしんとしている。



 同僚や後輩たちが送別会をしてくれるって言ったけれど、それはまた後日に。
 わたしは最後の片づけをして周りの人たちに短い挨拶をすると定時に会社を出た。定時に帰るなんて営業に配属されてからほとんどなかった。会社を辞める最終日、それはとても居心地の悪い一日だった。ただもう早くこの一日が終わって欲しかった。
「はあーっ」
 会社を出たところでため息をつく。安堵と疲れと。
 もう形式だけの一日、ただ終わるための一日だった。
 杉沢美那子二十五歳、明日から失業者。自己都合で辞めたから失業保険もすぐにはおりない。このご時世に仕事を辞めるなんて、ホントわたしって向こう見ず。
 
 でもこの解放感はなんだろう。
 最後にかました一発逆転ホームランのおかげで営業の部長からは引きとめられたけど、でもだからってとうに会社から離れているわたしの気持ちは変わらない。いや、ほんとは、ちょっと、かなり、迷ったけどね。
「美那子」
 約束通り寺尾さんが待っていてくれた。
「よーし、じゃあ飲みに行こう。おまえの退職記念だ」
「もちろん、今夜は思いっきり飲むわよお! 飲んで明日からバリバリ求職活動するわよお!」

 寺尾さんを相手にわたしはとにかく飲んだ。学生時代のこととか、いろいろ話しながら。飲みながら寺尾さんもいろいろ話してくれた。
「俺はその頃、民間の研究所にいたんだけどさ、ああいうところにはサラリーマンとはまた違った人たちがいて、そいつらもすげー飲むの。面白いくらいに。研究所の休憩室の床に酒やつまみを広げてさ。交替で飲んで、眠って、そのまま仕事して。三日くらいそれが続くわけ。それが忘年会だったりするんだよ。年が明けて新年会になったこともあるな」
「ひゃー、すごい。それは女にはできないわねえ」
「美那子も言いたいことあったら言えよ。聞いてやるよ」
「あははー。もう辞めてしまった会社のことなんてアホらしい。それより、おかわりー」
 

 
 ……はあ。
 どうやらわたしは飲みつぶれただけで、これだけ王道な展開を二度もしながらやはりなにもなかったらしい。
 ゆうべ、寺尾さんも飲んでいたけど、でも酔っていたのは圧倒的にわたしだった。寺尾さんはわたしのヤケ酒につきあってくれたんだ。
 枕元に置いてあったメモに気がついてつまみあげるとそこには男の筆跡で仕事へ行くって書いてあった。土、日は仕事だからまた電話する、とも書いてあった。

 ほんとに甘くないわね、世の中って。
 なんでわたしは今、ひとりで男のベッドにいるんだろう。キスまでしたのに。いや、べつに甘い展開を期待していたわけじゃない……してたか。だって二度目よ?
 あ、はい、はい。べろべろになっていたのはわたしです。だってあの人、本気でわたしに飲ませたんだから。そんな女をどうこうしちゃうほど寺尾さんはさもしくないってことね。
 だけど、ほんとにまた電話してくるだろうか? あの人は。

 それから数日の間、仕事探しの手始めとしていろいろ調べたり求人誌を読んだり、ハローワークってところにも行ってみたけど……。
 その日の夜、ぼーっとテレビを見ていたらセインズの会社発足のニュースが流れていた。記者会見で壇上に並ぶ何人かの中央には寺尾さんがいて、テレビに映し出された寺尾さんの顔は社長の顔だった。当然顔つきが厳しい。別人みたい。
 そう言えば発表があるって言っていたけど、道理で土、日も仕事なわけだわ。

 ……今までほとんど表舞台には立ってこなかった寺尾秀明氏が新たなグループ統括会社の社長に就任することで今後のマルケイグループの……
 ……創業者の孫である秀明氏は三十七歳、工科大学卒業後は橋梁工学の研究者をしていたという異色の経歴を持つ……

 社長の顔。別の世界の人みたいな顔。
 寺尾さんはわたしとたいして変わらないって言ったけど、それは言葉のあや。それくらい、わたしにだってわかっている。でも、テレビの中の彼の顔。
 その顔がなぜだか不機嫌そうに見えるのはわたしだけ……?



 寺尾さんからはほんとに電話が来た。びっくりだよ。
 あの発表から一週間後だったけど、週末飲みに行こうって。よくそんな暇があるわねえ。

 行かないほうがいい?
 なにもないうちに、いや、キスはしたけど。でも何気なく会わないようにしたほうがいい?
「忙しいんでしょ?」
『忙しくて、思うとおりにならなくて、ストレスで頭ハゲそう。だからつきあえよ』
 そう言われちゃったら。あの寺尾さんの口調で言われちゃったら。
 ハゲたら大変だもの。

 待ち合わせの場所に現れた寺尾さんは初めて会った時ほどではないけど、不精髭が伸び始めていた。髪も無造作な感じ。これじゃ、なんだかそこらへんのサラリーマンのおっさんと同じだわ。わたしの会社に来たときにすきっとした髪型だったのは、会社発足の発表が控えていたからだったのね?
「髪型、元に戻ったね」
「このほうが落ち着く」
 オジサンに戻ったね、とは言わないでおこう。へへっ。

 それにしても。
 この人、見境なくよく飲むわねえ。大手スーパーのグループ統括会社の社長ならいくら居酒屋でも、もっといいお酒飲みなさいよ。つまみはモツのみそ煮だし。
「俺だってねー、好きで社長になったわけじゃないの。親父がじいさんから社長引き継いでやってたんだけど業績いまいちでさ。俺はさ、親父から本業のスーパー部門をやってくれって言われたんだけど嫌だって断ったわけ。俺は橋の工学をやってたって言っただろ? それなのに、じいさんに泣いて頼み込まれてさあ。 だけどスーパーの仕事なんか知らないし、はっきり言ってやる気もなかったから、一からやらせてみろって言ったんだ。だって俺みたいな橋屋がスーパーで使いものになるわけないだろう? だからさあ、レジ係からやったんだよ」
「レジぃ?」
「そう、表向き契約社員ってことでさあ。自分で言うのはなんだけど、俺ってやっぱり使い物にならなかったよ。パートのおばちゃんに怒られたりしてさ。あー、でも今となっちゃパートのおばちゃんに叱られているほうがなんぼかましだって思うよ」
 ここで寺尾さんは安い焼酎の入ったコップをぐいっと傾けた。
「どうして最初から専務とか社長とかにならなかったの?」
「あんたねー、マルケイって昔はちっこいスーパーだったんだよ。それが時流に乗ってあれよあれよと大きくなって。大きくなったのはいいけど今度はそれだけ不況とか価格競争とかそんなのの影響をモロにうけるようになっちゃったのは仕方ないとして、このところの食品の安全危機とか偽装とか。そんな中で社長なんてやりたいと思う? 普通」
 はあ。
「それにさ、レジをやっているうちに気がついてしまったんだよ。各店舗で働いている人間さえこのままじゃだめだって思っているってことをね。会社の体質っていうの? それが上の役員にはわかってないってことがね」
 ……確かに大変だわ。
「ったく、なんでこんな苦労しなきゃならないんだ。そんな俺の気持ちわかってくれる? だから美那子も飲め」
「おー、飲むわよ」
 所詮、ふたりとも酒好き。
 愚痴ったせいかどうか、寺尾さんの飲み方が落ち着いてきた。この人もいろいろ大変なのね。
なんだかすっかり飲み友達。いや、愚痴り友達だよ、これじゃあ!

後編へ続く


2009.10.01

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