ハニー・ホットケーキ


ハニー・ホットケーキ Vol.2

目次


後編


「それじゃわたし、もう帰ります」
「なんだ、帰るのか」
 いくらなんでもあの王道を三度も繰り返す気はないわよ。
「電車なくなっちゃうし」
「あほ。帰るな」
 寺尾さんがぐいっとわたしの手を引っ張った。
「もう一軒つきあえ」
「えー」
「なんだよ、その言い方」
 飲むのは嫌じゃないし、寺尾さんと一緒にいるのも嫌じゃない。でも失業中のわたしにはいろいろと思うところもある。
 こうして寺尾さんと一緒に飲むのはなんとなく楽しい。ってか、うれしい? そんな乙女な気分なのに現実は重くのしかかる。
 でも。
 酒の入ったオジサンが人の言うことを聞くわけがなくて。引っ張られるようにしかたなくついて行ったら、今度はホテルのバーだった。
 あら、多少は社長らしくなってきたじゃないの。いいわ、こうなったらつきあいましょうとも。どうせ明日もなんの用もない。
 わたしは、でも何となく飲みたい気が失せてしまって軽いカクテルを頼んだ。寺尾さんは今度は
ウィスキーをロックで飲み始めた。アイリッシュ・ウィスキーだよ。さすがにここはホテルのバーだもんね。
「なんだ、なにシリアスしてるんだ」
 髪はボサで髭面に良いスーツというばらばらな外見でそんなこと聞かないで。こういうところではシリアスを気取るものよ。
「今後のこと考えると、ちょっと」
「不安か」
「……まあ、その通りです」
 今のご時世で自分から会社辞めて不安じゃないわけがない。
「おまえ、ある意味勇気あるよな。自分から会社辞めるんだからさ」
 それは褒めてくれているんですか。
「仕事、紹介しようか」
 ……仕事、それは喉から手が出るほど欲しい。でも。
 こんな大人な店の中だからわたしも大人の答えをしてもいいよね。
 バーテンダーが向こうのお客さんの注文に静かに答えながら酒を作っている。寺尾さんは片肘をカウンターへ乗せてわたしを見ている。明るさの抑えられた静かな音楽の流れる、こんな店の中だから。
「いいえ、それはやめておきます」
「なんで?」
「寺尾さんが好きだから」

 好きだから。だから。

「一緒に飲むのが楽しいから。だからそれはやめておきます」
「……そうか」
 寺尾さんは持っていたグラスをさらりと飲み干した。
「じゃ、今度は俺の番だな」
「へ?」
「ほら、立って。次、行くぞ」
 えっ、また場所変えるの。わたしは落ち着いて飲むほうが好きなんだけど。
「次はどこへ行くんですか」
「ここ」
 小さな音がしてエレベーターの扉が開く。扉の向こうは客室の廊下だった。
 えっ……。
 普通ならわかるよね。女なら。これがどういう状況かってことが。
「えっと、あの、部屋、ですか」
「そ。今度は俺が聞いてやるよ。美那子の話」
 話なんて。充分聞いてもらった。飲んで話して、楽しかった。

 寺尾さんが向き直ってわたしの顔をじっと見ている。
 ずるいよ、あんなに飲んだのに寺尾さんの目は酔っていない。そんな彼の目をもう見ていられなくて視線をそらした。
「もう話なんて」
 すいと寺尾さんの腕が伸びて引き寄せられた。顔が彼の胸に押し付けられて言葉が継げなくなる。
「そんな顔するな」
「…………ふ、がっ」
「あ、ごめん。苦しかった?」
 はーはー。押さえすぎですって。息がっ! 死ぬかと思ったじゃない!
 肩で息をしていたら、ふわっと体が浮いた。息を落ち着かせようとしていたわたしは完全に虚をつかれてドアの中へと引き入れられていた。
「あ……」
 今度こそしっかりと抱え込まれてキス。からめられた舌が動くたびに彼の味が流れ込んでくる。ウィスキーの香りの混じった彼の味と、それに、それに、わたしの体にふれている彼の手が……。
「話してみろよ。俺が聞いてやるからさ」
「……話だけ?」
 顔が離されて、くくっと寺尾さんが笑う。無造作な髪と髭面なのに憎らしいほどその表情が似合っている。
「話は後だ」







 このオジサンは熱くて。
 酔っぱらいのくせにやることは熱心で。

「酔ってたんじゃないの?」
「誰が?」
 そうだね、この人があれくらいで酔うわけがない。

「美那子のこと、一度目はともかく二度までも部屋まで連れ込んでおきながら何もしなかったんだぞ。あれから今日まで頭の中は美那子のことがちらついて 仕事にならなかった。記者会見のとき
だって、なんで美那子を抱いておかなかったんだってそればっかり考えていた」
 あの時にそんなこと考えていたの! 嘘でしょう。
 でもこの人ならそれも嘘じゃないって思えるキスとわたしの体をまさぐる手だった。
「わたしになんにもできないくらいに飲ませたの、誰よ」
「俺だけどさ」
 寺尾さんが動くたびに酔いが回っていくようにくらくらしていく。ふわふわに舞い上がって、もう目が開けていられなくて息もできないくらい。体が熱くて、逃れようとしてももっと熱い体に侵入されてしまっている。
「熱いよ……」
「熱いのは、いやか?」
「いやじゃない……」
「それでこそ美那子だ」

 ハニー。

 焼きたてのホットケーキにかけたはちみつのように。
 熱くとろけていく。とろけながら寺尾さんの声が聞こえている。

 ハニー。
 マイ・ハニー。
 …………








 翌朝。
 テーブルの上にはホテルの熱々ホットケーキにはちみつをかけてもらったものが置かれていた。
「う……」
 ちょっと寺尾さんが嫌そうな顔した。やっぱり。
 この人、やっぱり甘いもの苦手なんだ。そうだよね、酒飲みだもん。無理して食べてたのね、あの時は。うふふ。
「……うれしそうだな」
「えー、そんなことないですよ。さあ、冷めないうちにどうぞ」
 寺尾さんはテーブルの上を見ている。
「なんで美那子のぶんがない?」
「えっ? あっ? えーと」
「じゃあ、一緒に食べよう。ほれ、口を開けて」
 バターとはちみつがたっぷり沁みたホットケーキをひと切れ、わたしの口元に差し出す寺尾さんがにやっと笑って。
「あーん、しろ」
「えっ? あ、あの、あーん?」
 口の中に入れられるホットケーキ。ハニーなホットケーキ。

 すみません、わたしも甘いものはちょっと……。

終わり


2009.10.01
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