ハニー・ホットケーキ
ハニー・ホットケーキ Vol.1
目次
後編
「杉沢さん、お客様ですよ」
「はい?」
「寺尾様とおっしゃっていますが」
総務の受付から電話をもらったけれど。
寺尾? 知らないなあ。だれだろう。でも客だし。
ノックして応接室に入ったらひとりの男が窓際で外を眺めていた。
あら、この会社の応接室には似合わない良いスーツ着てるじゃないの。チャコール系の黒いスーツ。そのスーツの上着が背中にすっきりと添っている。ジャストサイズ。
「杉沢でございます」
振り向いたその人はモノトーンのストライプのネクタイを締めて、ほれぼれするような完璧な Vゾーン。
そしてその上に乗っかっている顔は?
「失礼ですが」
わたしがそう言ったら、いきなりその人が苦笑いした。そんなことをしてもいい男なのが崩れないのが憎い。あ、でも、その顔。
散髪したてのようにすきっと整えられた髪。顔にはひげ1本もない。でもその顔は……。
「あっ、あの時のオジサン!」
あわてて口をふさいだけれど、出てしまった言葉はしっかり相手に聞こえていた。
「オジサンねえ。俺はそんなにオジサンじゃないつもりだけれど。たぶん美那子が思っているよりも若いと思うよ」
「……すみませんっ!」
「でもどうして、あなたが」
「この前、名刺渡しただろう。なぜ連絡してこなかった?」
「なぜっておっしゃられても……」
「ホットケーキミックス、買うって言っただろう」
寺尾さんはわたしの前に立つと顔をのぞきこむようにして言った。ちょっと待って下さい。それはないでしょう。わたしの心臓の動悸が彼に聞こえそうだ。
「あ、あの、それでしたら」
小売りしているスーパーをお教えします。でも、東京ではごく限られたところでしか売ってませんけど。
「待った」
?
「俺は美耶子に会いたくて来ているんだけどなあ」
……わたしに、ですか?
「マルケイグループって知っているだろう」
そりゃもちろん。日本の東半分を牛耳る大手スーパーの名前だもの。食品会社に勤める端くれとしてあたりまえ。
「セインズってのは、そのマルケイの別会社。今度セインズがマルケイのグループ統括会社として立ち上がった。来週、発表がある。俺はそこの社長なんだよね」
知らない、ということくらい恐ろしいことはない。
じゃあ、買ってくれるっていうのは取引してくれるっていうことなのか。マルケイのお店にうちの ホットケーキミックスを置いてくれるっていうことなのか。
……す、すご過ぎる。
わたしはおじけづいて
「あの、営業の部長と課長を同席させてお話をうかがってもよろしいでしょうか」 とロボットのような口調で尋ねてしまった。
「どうぞ。でも俺は美那子と話したいんだけどなあ」
それは聞こえないふりをしたら寺尾さんは笑っていたけど、でも。
営業部長と課長に話すとふたりとも飛ぶように応接室へ向かった。普段の会議の時もそのくらい素早くお願いしますよ、と言ってやりたくなるほどの素早さで。
ひと通り寺尾さんとの挨拶が済むと、営業部長が
「あの、杉沢は今週いっぱいで退職する予定なものですから代わりに私がお話をうかがいますが」
と切り出した。
そうだった。わたしは辞めたい旨を月曜日に部長と課長に言ってしまった。あとは明日の最後の引き継ぎと総務の手続きを待つだけだ。
「いや、そうだとしてもこの話を最初にしたのは杉沢さんとですから。今日は杉沢さんと話させてください。杉沢さんは明日まではこちらの社員なのでしょう?」
「しかし、社長が直々にお話しするような」
「小売業では商品の品質は価格とともに最も重要なことのひとつです。会社の幹部がこれに間接的にしか関わっていないようではお客様の当社への信頼にはお応えできません。私はそう考えますが。
それに営業は取ってきた仕事はその人の実績だ。若い人の仕事を横取りするようなことはよもやお考えではないでしょう」
…………
あーあ、言っちゃったよ。あの部長や課長に。
でもこれはわたしが取ってきた仕事とは言い難い。それにわたしが辞めちゃえばあの人たちにはそんなこと関係ないよね。それでも寺尾さんが言ってくれただけ胸がすっとした。
それに寺尾さん、あなたはやっぱり社長だよ。そんな寺尾さんに酔っぱらって愚痴っていたなんて自分が恥ずかしいよ。
でも、応接室でふたりきりになって、このホットケーキミックスの開発の経緯や工場での生産や管理のことを説明し始めたのに、寺尾さんはじっとわたしの顔ばかり見ている。
どうしてそんなに見つめるの。
これは仕事。これはビジネス。
寺尾さんは取引先。取引先の会社の社長。
あのマルケイの、セインズの……。
「美那子」
「ですから原料の小麦は」
「美那子」
「……なんでしょうか」
すっと手が伸びてあごが上げられる。
できればその手を振り払いたかった。わたしのあごが、頬が震えていたから。
「美那子は仕事の話しかしようとしないんだねえ」
だって。
仕方がないじゃないの。
もう辞めるって決まっているんだもの。
寺尾さんがそんなすごい人だって知らなかった。知らなかったっていう、そのことがなんだか悲しい。
一筋だけ涙が落ちた。
「何で泣くんだ」
もう手遅れ。この仕事をさせてもらうことすらも。
「ここを辞めるからか? それとも他の理由で?」
それをわたしに言わせるの。
「明日の晩つきあえよ。また一緒に飲もう」
そんなこと。
「女で俺にあれだけつきあえるやつって珍しい。俺にだってとことん飲みたいって思う時だってあるんだ。苦労して会社を立ち上げているのに、さもあたりまえ、みたいに言われて、それが不愉快に思える時だってある。
社長だからってなんでも命令下しておきゃそれでうまくいくなんて、そんなことはないんだ。お互いたいして変わらないんだよ。だから俺だって美那子と飲みたいんだ」
……そんなこと。
「でも翌朝のホットケーキはなしだ。二日酔い明けのホットケーキ、あれは効いたよ。あの日は一日胃がむかついた」
「でも、あれは!」
「そう。俺が食べさせてくれって言ったんだから。でも今度は」
寺尾さんの顔が近づいてきた。
唇が触れながら彼のささやく声が聞こえる。ハニーって……。
終わり
2009.09.04
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