ハニー・ホットケーキ
ハニー・ホットケーキ Vol.1
目次
前編
……あれ……
目が覚めて見ていたのはコンクリの打ちっ放しの天井。
……って、なんで?
反射でばっと起き上がる。知らない部屋の中。コンクリの壁、でかいベッド、床に散乱する物。 わっ、それってわたしのバッグ! わたしの靴! わたしの服!
あっあっ、わーーーっ! 自分の体はっ!
パニック寸前だったけど、キャミとパンツははいている。真っ裸ではない。だってお決まりよねえ。酔っぱらって知らない部屋で目が覚めて、ベッドで真っ裸だったっていうのは。
お決まりといえば……まさか。
となりに男が寝ているとか。
……いたよ。
しかも裸の(上半身しか見えないけれど)男が。
ベッドの向こう端で背をこちらへ向けて。背筋の締まったいい背中だけど、それじゃまるでわたしが隅へ追いやったって感じじゃありませんか?
でも、この人、覚えている。ゆうべ知らないうちに一緒に飲んでいて、わたしが飲み足りないって言ったら自分のところで飲もうって。飲み明かしてもかまわないって。
あー、でも、この人とウィスキーや焼酎飲んだのは覚えているのに、この人の顔、覚えてなーい。
と、とにかく服を着よう。こういう場合、男が目覚めるとロクなことにならない。
ベッドからそーっと抜け出して服をかき集めて、部屋の仕切りの向こうが洗面所らしかったから、そっちへ行って服を着た。ついでにトイレを借りて。トイレで座りながら、落ち着け、落ち着け、と考える。
酒を飲んでの失敗は初めてじゃない。葬り去りたい失敗はいくつもある。気がついたら道でゲロにまみれて寝ていたということもあった。なんだ、それに比べたらたいしたことないじゃないの。あの人に謝って、お礼を言って、帰らせてもらおう。トンズラするよりまともな対応だわ。うん、わたしって大人。そこまで考えたら。
ドン、ドン。
トイレのドアをノックする音に飛び上った。ほんとに飛び上ったよ。立ち上がったもん。あわてて下着を引き上げて。
ドアをノックする人間。それはあの男しか考えられない。とにかく出なければ。ノックされてすぐに出なけりゃと単純な思考回路で動いてしまう自分が悲しいけど。
うわっ。
トイレのドアを恐る恐る開けたら裸の上半身が目の前に。わーっ、と叫びそうになったら、男はパジャマのズボンは穿いている。ほーっ。
「出て。早く」
「あっ、はいっ」
髪の毛へ手を突っ込みながらその男は顔をゆがめて思いっきり不機嫌そうに言った。バタンとドアを閉めてトイレへ入るとすぐに中から流す音が聞こえてきた。
ど、どうしよう?
でもすぐに男はトイレから出てきた。わたしには目もくれず洗面所で口をすすぎ始めた。
「うー、最悪だ」
あ、気持ち悪かったのね。そうでしょう、だってあんなに飲んだんだもん。わたしは焼酎を適当な炭酸飲料で割って、この人はウィスキーを飲んでいたけど最後はむちゃくちゃだった。この人、わたしの飲んでいた焼酎も横取りして飲んでいた。
「あの……」
「悪い、そこのタオル取って」
「あ、はい、はい」
男は顔を洗うと拭きながら部屋へ戻った。ソファーへどっかりと座ると寄りかかりながら、はーっと盛大なため息をついた。
「あー、飲み過ぎた。ゆうべはほんと、よく飲んだなあ。あんたも飲んだねえ」
はあ。
「あの、ご迷惑かけてすみません。お酒のうえでのことでお詫びのしようもありませんが、失礼させていただきます。ありがとうございました」
「なに、それ」
なに、とは?
「昨日の落ち込みからは立ち直ったわけ? いいなあ、立ち直れる人は」
落ち込み?
ああ、そうだった。わたしは先週男に振られて、振られた理由はわたしが仕事で忙しすぎるってことらしくて、そんな理由で振られたのに昨日は会社のバカな上司のせいでクッキーのプレミックスの取引先に
米つきバッタのように詫びを入れるはめになって。おまけに別の上司からは処分を匂わされるし。じゃあ、辞めますって言っちゃいたいのに言えない、このジレンマ。
「ベッドへ寝かせてからも、男があーだ、上司がこーだと文句言って。寝ながら暴れるから俺はろくに眠れなかったよ。まったく」
す、すみませえん。寝相が悪いのは子どもの頃からなんです……。
男はぼさぼさの髪で不精髭が伸びていて、よれよれのパジャマを着ていたけれど、ソファーに偉そーに座っている。こっちは立っているのよっ?
まあ、しかたないか。もう早くこのオジサンから逃げよう。何もなかったみたいだし、お酒の上でのことでって、この人も寝たいだろうし。
「ほんとにすみませんでした。あの、お互いに気をつけましょう。ということで、わたしこれで帰らせてもらいます」
「待った。杉沢 美那子(みなこ)さん」
えっ、なんでわたしの名前を。
「自分で言っただろ。俺の名前、覚えてる?」
すみません、覚えてません。
「なんだ、覚えてないのか。じゃあ、俺と話したことも?」
「はあ、なんとなく自分の言ったことは覚えてますけど、あの……」
「ひとの話は覚えてないってか?」
ひっ、ひええー。
まさか、わたし、ゆうべこの人と変なこと話した? だってこういう場合、ほら、よくあるでしょ。結婚を約束しちゃうとか。それでベッドインとか。この目の前の寝起き男はそうは見えないけれど、わたしはそんなに恋愛体質だったのぉぉ?
「仕事の話、しただろう」
仕事? 仕事か。
でも、やばい。かけらも思い出せねえわよ。
「あっ、そうですねー。そう言われてみれば、そうかも。でもわたし、酔っぱらっていたから」
「ふ……ん、まあいい。それより、俺にホットケーキ食わせてくれるんじゃないの? ちょうどいい。朝飯代わりに作って」
ホットケーキ。
わたしは小さな食品会社の営業で、うちの会社が扱うものは「粉もの」がほとんどで、たこ焼きの粉、お好み焼きの粉、てんぷら粉、なんか。そしてホットケーキミックス。商品はいくつか持ち歩いているからホットケーキミックスもビジネスバッグに入っている。なんでわたしがホットケーキを食べさせてやるって言ったのかわからないけれど、そう言ったらしい。
でも行きずりの男の部屋でいきなりホットケーキを焼くってどうよ? この男の部屋が白亜の豪邸で一夜をすごしてその翌日、見知らぬ女が見知らぬ男にホットケーキを焼いてお互いを知っていく……ってか、それはすごく恋愛的にドラマチックでほんとにそうなら、ちょっとぐらっとくるでしょうけれど、でも違うでしょー!!!
以前よくあったようなコンクリートのむき出しの部屋。その雰囲気を残しつつ、リビングにモノトーン系のソファーや家具。家具は当然少なくて殺風景な感じで、本やファイルが山と並べられた、いかにも男の部屋ってな書斎風な部屋。向こうの寝室だって薄暗かったし。そんな部屋でホットケーキを焼けと?
夢とどんどんかけ離れていく現実。だいたいこの男、二日酔いでよくホットケーキ食べるなんて言うわね。
「でも卵と牛乳がないと作れませんから」
そんなものないでしょう、この人の部屋に。冷蔵庫の中はビールとミネラルウォーターでいっぱいだったりして。
「それならある。道具も一通りあるから。ぜひ食べて欲しいって言ったのはあんただよ。食べないと味がわからないだろうって」
「……わかりました」
やっぱりわたしは仕事の話をしたらしい。なんて色気のない。まあ、とにかく作ってやろうじゃないのよ。食べて胸やけしても知らないわよ。
キッチンはやはり使っていないという感じだった。でも男の言ったとおりボールや泡だて器もあった。男が冷蔵庫から牛乳と卵を出してくれる。
卵を溶き、牛乳を加え、それにホットケーキミックスを混ぜていく。分量通りに作ればいいという簡単な作り方。できたタネをおたまですくい、くりっと回すようにしてフライパンへ落とす。これがきれいな丸い形にする秘訣なの。ほんのりバニラの香りで程よい焼き色のふかっとしたホットケーキが焼けていく。
「あ、メープルシロップ! それにバターも」
あれがなきゃ。シロップまではわたしも持っていない。
「バターはあるけど、メープルシロップってやつはない。なきゃダメか?」
「そうですねえ、はちみつなら代用できるかも」
「はちみつならあるよ」
男がテーブルへ出してくれたのは透きとおった黄金色が美しいミカンの花のはちみつだった。こういう単独の花のはちみつってかなりいいものなのよね。
わたしがホットケーキを焼いていると男は着替えをしてきた。といってもいかにも部屋着な灰色のスウェットの上下だ。髪はくしゃくしゃのままだし。男って酒を飲んだ翌日って誰でもおんなじように見えるわねえ。
ホットケーキの皿を男の前に置く。ひと切れ乗せたバターがとろけて、おいしそうな焼き色の上を広がっていく。男はバターのしみていないところをフォークで切り取るとひと切れ口へ入れた。
あれ、この人……。
生地の味を味わうようにゆっくりと食べている。それからはちみつをかけた。ふわっと広がるはちみつの匂い。ミカンの花のはちみつだけあってミカンの花の香りがする。
「うん、いいな。確かに美那子の言うとおりだ」
美那子。
どきっとした。まるであたりまえのように名前を呼ばれた。
「なんだ?」
「な、なんでもありません。なんか名前呼ばれると親戚のおじさんに呼ばれているみたいで」
あわててそう言ったけど、なんだか恥ずかしい。こんな男の前で。
「これ、こんなに美味いのになんで売れないんだ?」
男が頬張りながら聞いてきた。
「営業に能力がないからだそうです」
きのう、業務部長からさんざんに嫌味を言われた。思い出してまた一気にへこんだ。そうかもしれない。男がじっとわたしを見ているので、うつむきはしなかったが、視線が下がった。
「……おい」
ふいに手が伸ばされてわたしのあごにふれた。ちょっと持ち上げられるようにされる。頬がするっと撫でられる。
うっわー、なんなのよーっ!
男の真剣そうな眼差し。黒くてはっきりとした眉。この人、こんな顔していたっけ? それに落ち込んでいても、へこんでいてもそこは女だもん。こんなことされたら心臓があっ!
「このホットケーキ、気に入った。買おう」
え?
男は立ち上がると脱いだスーツが放り出されているところへ行って上着のポケットを探り始めた。
な、なに?
「俺の名刺」
「あっ、ありがとうございます」
営業職の悲しさで両手で受け取ってしまう。なんだか仕事モードになってきたのはなぜ?
うわ、会社名セインズだって。悪いけど知らないよ。
「月曜以降、連絡して。アポ取って来てくれりゃ、話しは通しておくから」
は? はああ?
あのー、こういう場合、もっとその、情緒的な展開になるのでは? さっきの頬をなでたの、あれってなによ。酔った勢いで一夜を共にした男女(なにもなかったようだけど)。思わぬ出会いで思わぬ展開。それから……っていうのが王道でしょう? この場合。でもわたしの場合「それから」が何で仕事の話なのよ。
それに、それに。
もう会社辞めるんだ。なんであんな嫌な思いしなけりゃならないのよ。クッキーのプレミックスの配合を変えたのを言ってくれなかったのは課長でしょ。苦労して就職して、楽しくもない仕事して、でもそれなりに真面目にやってきたのに。どうせわたしは能力ないですよ。もう辞めてやるんだ。
「……すみません、もういいです。仕事のことはなかったことにしてください。わたし、酔っていたんです。あなたも。そんな時に仕事の話なんてするべきじゃないでしょう」
「まあ、それはそうだな」
「ということですので、もう帰ります。さようなら。お世話になりました」
頭を下げて今度こそ部屋を出た。
二日酔いだったのはわたしのほう。電車に乗ったら胸がむかむかして、自分のアパートに着くまでに吐きそうだった。嫌な、嫌なことばっかり。
もう当分、立ち直れないかもしれない……。
後編へ続く
2009.09.04
目次 後編
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