副社長とわたし 20

副社長とわたし

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20


 新庄さんが来ていたのは火曜日のことだった。
 廊下を歩いていたら秘書室へ入っていく新庄さんの姿が見えた。彼女は社長付きの秘書なので、いつもは社長のいる旧本社にいるけれど時々はこちらにもやってくるらしい。その後で副社長室で常盤さんと話をしていたが、それが終わると常盤さんと新庄さんが副社長室を出てきた。 常盤さんが出てきたところでわたしへ向かってさりげなくアイコンタクト、といってもただ目を合わせただけだけど。 手を振られなくてよかったなんて思ってしまったのは新庄さんが一緒だったからだろうか。

『秘書課の人たちと食事会があるから』
 常盤さんはそう言っていた。忘年会を兼ねた食事会で社長秘書以下、重役秘書も含めて秘書課の人たちが集まっての食事会だそうで、重役の中では副社長だけが出席ということで新庄さんもそのために来たらしい。

「瑞穂ちゃん、うちらも忘年会やろうか」
「そうですねえ、でもどこにしましょうか」
 三人だけの営業所だからどこか安いところでやるにしてもここは東京で去年までのようにいかない。それにうちの会社からは社員の飲食代はどんな名目でも出ない。以前は会議費みたいな名目で落とすことができたけれど、このご時世に儲かっていない会社が社員に無駄な飲み食いをさせるわけがない。 それだけうちの会社は苦しい。親会社が三光製薬に合併されてしまってもそれは変わらない。うちの営業所では三人そろって飲むということは忘年会くらいしかないけれど、それも会費制で金田所長が酒代だからといっていつも多く出してくれる。
 あの人たち、副社長も出席しての秘書課の食事会ってどんなところでやるのだろう。会費制だろうか、でも想像不可能。さっきの新庄さんだってちらっと見ただけだけど、なんだかすごく気合いが入っているような華やか系の淡いピンク色のスーツだった。

 わたしたちの忘年会はそのうちに、ということでわたしは片づけをしてから退社して会社を出た。いつものように電車の駅へ向かおうとしたら声をかけられた。
「トーセイ飼料さん」
 コート姿のその人は制服ではなかったからちょっと誰かわからなかった。
「総務の、島本です」
 あ、そうだ。三光製薬の総務にいる備品の担当の人だ。わたしたちが初めてこのビルへ来た時に足りない机の発注をお願いした人。
「いま、ちょっといい? よかったらカフェにでも。時間取らせないから」
 そう言って島本さんは少し歩いたところにあるカフェへ案内してくれたが、歩いているあいだも何も言わない。話し好きっていう感じの人じゃないけれど、何も話さないっていうのも。
 カフェで席に着いて飲み物が来るまでも黙っていたから、わたしからちょっと話しかけてみた。
「ここ、素敵なお店ですね。静かで。わたし、初めて来ました」
「そう」
 会話が続かない。わたしと同じくらいの年齢の人だけど、おとなしそうだって初対面の時にも思った。
「あのう、わたしに何か……」
 そう言ったらやっと話し始めた。

「山本さん、副社長と親しいの?」
 えっ。
 背筋がびくっとなる。この人、どうしてそんなことを。
「エレベーターで副社長から手を差し出されたって……」
「い、いえ。あれは成り行きみたいなもので」
「でもトーセイ飼料さんの部屋が副社長室の向かいになったのも、山本さんが副社長に直接
話したからだって」
「わたしが話したというよりは、それも本当に成り行きで」
「ふうん……」
 なに? なに? ……この人。

「じつはちょっとお願いがあって」
 お願い?
「この前、うちの会社で副社長によるレビューがあったの、知っているでしょう?」
「はい、まあ」
「その時にね、配置転換に関する希望があれば出すようにって副社長が言っていたんです。わたしだけじゃなくて全員にだけど。わたし、それを出したのだけど、返事もなにもなくって。副社長は検討は必ずするって言っていたのに」

「だから、あの、それを山本さんに聞いてもらえないかなって……」
「聞く? わたしがですか?」
 誰に? まさか副社長に? と思って聞き返してしまった。
「ほかに頼める人、いないし……」
 島本さんが落ちつかなげに何度も両手の指を組み直している。
「あの、その希望っていうのは副社長へ直接出すんですか?」
「わたしは総務だから、そういう書類は総務課長へ出すのよ。どこでもそういう順序ってあるで
しょ? 総務課長か総務部長から副社長へ行くのだと思っていたけれど、それが……」
 島本さんが言葉を濁す。
「それなら総務課長に尋ねてみたらどうでしょうか。それとも総務部長とか」
「それは、そうだけど……」
 わたしは当たり前のことを言うしかなかった。なんだか島本さんもはっきり言わない感じだったから。

「あなた、なんにも知らないのね」
 何もって?
「うちの総務ってね、そういうことをとても聞きづらいところなのよ。それにわたしみたいな平社員が上の人と話しをするのを嫌うというか、そんな感じなの。いままでわたしたちは重役の人と会う機会もほとんどなくて、だから副社長がレビューするって聞いてみんな驚いていた。 あの副社長ってこともあるけど、重役の人と直接話をするなんてこと、今までは考えられなかったから。でも課長や部長はなんとなく面白くなさそうだった。副社長のこともあまり良く思っていないような雰囲気で」
 ……えーと。
「つまり、島本さんは配置転換希望の書類がまだ副社長のところへ行ってないと思っているということですか」
 でも、島本さんは黙ったままだった。

「あのう、でも、それはやはり島本さんが総務課長に直接尋ねたほうがいいと思いますけど」
「それができないからお願いしているんじゃない」
「でも、わたしはトーセイ飼料の社員であって」
「わたし、漬け物なの」
 は、はい? 漬け物?

「入社して四年だけどコピーや書類整理のほかはずっと備品の発注担当。多分この先も会社を辞めるまで同じ担当。そういう人をうちの会社では『漬け物』って言うのよ。塩漬けにされたみたいにずっと動かないっていう意味」

「出世も配置替えもなければ残業だってほとんどない。でも漬け物だってそれでお給料もらえるんだから意地でも辞めてやるもんかって思ってた。でも大学卒業して入った会社なのにずっとこんなだなんて、なんだか嫌になって。どうせ辞めるならと思って配置転換の希望を出したのに……」

 でも、どう考えてもわたしが副社長に聞けることじゃないよ。
「だったら副社長の秘書のかたにお話ししてみたらどうでしょう。主任秘書の稲葉さんなら」
「あの人、やだ。なんだかすっごく厳しそうだし」
 あちゃー、稲葉さん。
「それに秘書の人に話すきっかけなんてないし、秘書の人だってめったに総務には来ないし。それにわたしが秘書の人にこんなこと話したってことが、もし総務課長に知られたら」
「……でも、やっぱりわたしからお話できるようなことではないです。わたしはトーセイ飼料の社員ですし、やはり島本さんが自分で言ったほうがいいと思います。あの、関わりたくないとかそういう意味じゃなくて、これは島本さんにとって大事なことだと思うから。それに稲葉さんて見かけは厳しい感じですけど、話せば聞いてくれると思います」
 島本さんは迷ったように黙っていたけれど、やがて「わかったわ」と言った。

 島本さんと別れて帰った後、なんだか疲れを感じた。
 島本さんは新庄さんのように直接副社長と話したりできないってこともなんとなくわかった。島本さんが副社長に尋ねたいことが三光製薬の他の人に知られたくないという気持ちもわかったけれど、わたしへ聞いて欲しいと言ってきた理由がわからなかった。
 わたしが他社の社員だから? 副社長室の近くにいるから? 稲葉さんには言いにくいけれど、わたしだったらって思われたのだろうか。
 それともわたしが副社長と個人的に親しいって、島本さんは思っているのだろうか……。

『こんどは瑞穂と食事へ行きたいな。楽しみにしているよ』
 携帯電話の、常盤さんから来ていたメールに目を落とす。

 副社長。常盤さん。孝一郎さん。
 わたしにとってあの人は副社長だけじゃないけれど、三光製薬の社内のことをわたしから取り次ぐなんてことは、できないのにね……。


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