副社長とわたし わたしの総務課長様 8

わたしの総務課長様

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「さあ、一杯どうぞ」
「いただきます」
 目の前の三上は日本酒をうまそうに飲んでいる。そりゃうまいだろう。三光製薬が接待にも使う店だ。銘酒といわれる酒や珍しい地酒を数多く揃えている店で、外観は江戸時代の料亭風な建物だが、中は個室の座敷以外にもテーブル席とカウンターなどもあり、通好みの酒が揃っている。
「いい酒ですねー」
「三上さんは出張が多いからいろいろと飲んでいるでしょう」
「でもこんないい酒には滅多にお目にかかれませんよ」
 また三上に酒を注いで、料理もたっぷりと頼んである。

「いやー、常盤課長に誘ってもらえるなんて。ついてきてよかった」
「いつもお世話になっていますから。遠慮せずにどんどんどうぞ」
「でも常盤課長、忙しいんじゃないですか。総務課長になられて」
「忙しいのはどこも同じですよ。トーセイ飼料さんもそうでしょう? 大阪本社のかたが出張で来られているくらいだ。あの人は大阪本社の営業課長だそうですね」
「そうです。本社の営業の谷崎です。大阪に行く前は営業所にいて、私が配属になるのと入れ替わりに本社へ行ったんです。仕事のできる人で俺もいろいろ教えてもらいました」
「瑞穂さんも忙しそうだ」

「常盤さんってば、わかっていますって」
 わかっている? なんだか三上の心得ているような顔。
「常盤さん、今日は瑞穂ちゃんに振られちゃったんでしょう。瑞穂ちゃん、実家へ帰るって言ってさっさと帰っちゃいましたからね。それで常盤さん、俺のこと飲みに誘ってくれたんでしょう?」
 そう言って三上はにこにことしながら料理を口へ運んだ。
「……まあ、そうなんだけど」
「瑞穂ちゃん、けっこうマイペースなところありますからね。あ、悪い意味じゃないですよ。そういえば谷崎さんもそんなこと言ってましたね」
 谷崎。そこであいつが出てくるのか。
「谷崎さんは瑞穂さんとも親しいみたいだね」
 三上が「へ?」という顔をした。じっと俺の顔を見ている。

「あーはははっ。常盤さん、それは心配ないっスよ。谷崎さんは確かに営業所にいたことはありましたけど、瑞穂ちゃんとは歳が違いすぎるでしょ。谷崎さんは三十八ですよ。少なくとも俺の
知っている瑞穂ちゃんの彼っていうのは谷崎さんじゃなくて」



「…………なくて?」

 はっとする三上。さすがに酒を飲んでいても。
「い、いや。あの、その」
「三上さん」
「嫌だなあ、常盤さん。し、知らないですよ」

 口を滑らしたのはそっちだろう、三上さん。汗が流れているぞ。あの谷崎がもしかしたらと思ったが、そうか、谷崎じゃなくて他につきあっていたやつがいたのか。
「と、常盤さん、誤解なんてしないでくださいね。瑞穂ちゃんにだってつきあっていた人がいたって不思議じゃないでしょ。でもそれはずっと前のことで」
 知っているじゃないか、三上さん。
「瑞穂ちゃんは東京へ来る何年も前から彼氏なんていませんて。そこのところ誤解しないでくださいね。谷崎課長のことも」
「わかっています。俺だっていい歳をした大人だ。別に気にしていませんし、それ以上聞く気もありませんよ」
「ホントですか?」
「ホントです」
 俺が酒を注いでやると三上は明らかにほっとした感じだった。そして安心したからだろうか、谷崎という男が来てやっているという仕事のことなどを話してくれた。が。三上をさらに飲ませて正解だったのか、はたまた不正解だったのか。

「いえね、常盤さんが心配なのは俺もわかりますよ。だって瑞穂ちゃん、おじさんキラーですからねえ、本人は自覚していませんけど。瑞穂ちゃんの真面目なのに気が利くところにおじさんたちはころっときちゃうんですよねえ。俺はそう思いますよ。瑞穂ちゃん、俺たちが前にいた明研製薬でもおじさんたちにかわいがられていましたしね。 それにほら、常盤さんのお父さん、三光製薬の社長さんだって瑞穂ちゃんのことすごく気に入っているって感じじゃないですか。最近じゃ社長は金田所長と話すよりも瑞穂ちゃんとお茶飲むために来ていますからね」

 おじさんキラー、って……。
 それに親父が瑞穂のところに行ってるなんて、そんなの初めて聞いたぞ。

 三上から無自覚に次々と投下される爆弾に撃沈寸前。
 なんでこんなことまで聞かされなきゃならないんだ。

「常盤さんなら他の男なんて問題じゃありませんから。気にしないでくださいねー」
 三上はそう言って帰って行ったが、正直言って聞かなきゃよかった。
 なんだかどっと疲れたような気がした俺って馬鹿か……。



 瑞穂を初めて抱いた時。
 瑞穂は初めてではなかった。だがそんなことは気にしていない。
 俺だって女性とつきあったことがある。それなりに恋愛を楽しんだこともあった。だがやっと腕に抱いた瑞穂にそんなことは吹き飛ばされてしまった。初めてではないにしろ、男女のことに慣れていない瑞穂はやはり恥ずかしがり屋のいなかのねずみだった。それがなによりもうれし
かった。

 俺にこんなことを考えさせるのは瑞穂しかいない。
 
 なのに、なぜ瑞穂がそばにいないんだ……。





 瑞穂が帰ってきたのは日曜日の夜だった。東京駅に着く時間に車で迎えに行った。
「ただいま、遅くなっちゃった」
 そう言った瑞穂はどこかしら楽しそうだった。
「楽しかった? 顔がにこにこしているね」
「うん、お父さんお母さんと一緒に温泉へ行って、近くの温泉なんですけど、一泊してのんびりできました」
「温泉って、混浴?」
「やだー、まさか。孝一郎さんたら」

「お父さんやお母さんと過ごせてよかったね」
「うん。孝一郎さんはひとりでつまらなかった? ごめんね。でも、これからは」
「これからは?」
 部屋に帰ってきて瑞穂がとなりに座るとすぐに話し始めた。
「わたし、アパートの荷物をまとめますね。ここへ引っ越してきてもいい?」
「え? でも、瑞穂」
「両親にも言ってちゃんと許してもらいました。一緒に住むこと。だから」
 それは……。

「あの、そうしないほうが良かった?」
 なにも答えない俺に瑞穂の顔が心配そうになる。
「いや、そうじゃないんだ。ただ、瑞穂が大変じゃないかなって。僕の瑞穂にここへ来てほしい気持ちは変わっていないよ」
「よかった。わたしのひとりよがりかと思っちゃった。だって……」
「瑞穂はわかってないね。俺の瑞穂を好きな気持ちを」

 俺の理性を揺さぶるのは瑞穂ひとりなのだということが。
 できることなら瑞穂を会社も何もかも辞めさせて、一生外へ出したくないと思うことがあるなんて、口には出せないが、まさかそんなことを考えるとは。そんなことを考えさせるのは瑞穂ただひとりだ……。

「孝一郎さんだってわかってない。わたしの気持ち……」
 そう、わかっていないかもしれない。

 瑞穂を抱いていると瑞穂を完全に手に入れたいと、このまま素のままで抱いてしまいたいと本能がかき乱される。だが、それをしないのはためらうようにそれは、と瑞穂が言うからだ。瑞穂にも仕事がある。真面目な瑞穂だから。

 恥ずかしがり屋のかわいいねずみ。
 なにも考えさせないで思い切り腕の中で鳴かせてあげたい。

 でも、それは思うままに愛したいという男のわがままと紙一重だ……。




「ゆうべの孝一郎さん、なんだかすごかった」
「そうかな」
 翌朝、朝食の時にそう言いながら瑞穂は顔を赤くしていた。
 俺をそうさせているのが瑞穂なのだということがやっぱり瑞穂にはわかっていない。


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