副社長とわたし わたしの総務課長様 7

わたしの総務課長様

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「瑞穂ちゃん、今週は谷崎課長は水曜日から来るそうだから。これ、連絡ね」
「はい。わかりました」
 月曜日には金田所長、三上さんといつもの仕事。三上さんが指輪に気がついたかどうかわからないけれど、何も言わなかった。金田所長はもとよりそんなことを言う人ではない。
 わたしはまだちょっと指輪が気になる。普段は指輪などしていなかったから。でも気になると言うよりはうれしくて、が本当の気持ち。孝一郎さんが指輪へキスして唇が指に触れたあの感覚を何度も思い出してしまう。




 まったく我ながら現金だな、と思わずにいられない。
 瑞穂と休日を過ごせただけで月曜日の気分が軽い。だが、瑞穂には少し無理をさせてしまったかもしれない。実家へ帰ったというのにすぐに帰ってきてしまって。今度、家へ帰った時のことを聞いておこう、と思ったが。

 今日は袴田が出勤していた。
「先週は申し訳ありませんでした」
 朝、そう言いに来た袴田に大丈夫かと聞いてみる。無断で休んだわけではない。
「月末までに仕事の引き継ぎができるようにしておいてください。無理しないで」
「はい」
 小さな声で答えた袴田はやはりあまり元気そうな様子ではなかった。なんとなく顔色が悪い。しかし袴田ばかりを気にしてもいられない。年度末の仕事もあって総務全体が忙しい時期だ。佐伯瑶子に「袴田さんのこと、気をつけてあげて」と言っておく。佐伯に頼んでおけば大丈夫だろう。

 新入社員のことで人事部から電話があったり、総務部長との打ち合わせなど通常の仕事以外のことがあるためにあわただしく時間が過ぎる。副社長の真鍋さんから新入社員の研修で事務でのグループ化について話をしてはどうかと言ってきたのは水曜日のことだった。

「失礼します」
 秘書の浅川が副社長室のドアを開けてくれる。
「どうぞ。孝一郎君」
 真鍋さんが鷹揚に答えて向き直る。新入社員研修について話をして、研修の最初に組み込まれている一般業務研修でグループ化の話をすることにした。
「総務部長に話をしてもらってもいいのですが、君が副社長のときから進めていることだから総務課長としての立場と併せて今年度進めていくグループ化について話をしてもらったほうがいいと思うのですよ」
「はい。私もそう思います」
「では、時間や細かいことは人事部の研修担当者と決めてください。浅川さん、孝一郎君にお茶を」
「いえ。私はこれで」
「まあまあ」

 この人のまあまあは曲者だ。ということを思い出した。
「ほら、お向かいにはまたあの人が来ていますね。あの人はトーセイ飼料さんの大阪本社の営業課長だそうですよ」
「詳しいですね。誰に聞いたのですか」
 浅川か、それとも?
「情報源は秘密です。でもお向かいのことですからね。知ろうと思えばいくらでも目や耳へ入るものです。君がトーセイ飼料さんをあそこへ入れた理由がわかりましたよ」
 そう言って真鍋さんは笑っている。
 ちらりと見たトーセイ飼料では先週と同じように瑞穂とあの男が仕事をしていて、打ち合わせらしくふたりでなにか話している。だが、今日は金田所長もいる。三上も。
「トーセイ飼料の皆さんも真面目に仕事をしている。それだけのことです」
「おや、孝一郎君は気にならないのですか」
 ……気にならないわけがないじゃないか。こっちは大人げない勘ぐりをしたくないと思っているのに。
「孝一郎君の婚約者のお嬢さんは分け隔てなく良く働きますねえ。いつも気さくな感じで話している様子が見て取れる」
「山本瑞穂さんです」
「はい?」
「彼女は山本瑞穂さんです」
「そうでしたね。そしてあの先週から来ている新顔さんは谷崎さんと言うそうですよ」
「……情報、ありがとうございます」
「いいえ、どういたしまして」

「真鍋さん、なにかあるのですか」
「なにか? さあ、どうでしょうかねえ」
 真鍋副社長の言うことはなんとなく、いや、はっきりとわざとらしい。もしかしたら真鍋さんは瑞穂のことで何か知っていることがあるのだろうか。ここにいればトーセイ飼料の様子はいつでも見ることができる。音はドアを開けていない限り聞こえないが。
 しかし真鍋さんはなにも答えてくれなかった。体よくあしらわれたという感じか。

 最近、真鍋さんと話すのは疲れる。
「課長、パソコンがどうかしましたか?」
「いや、なんでも」
 自分のデスクでパソコンも立ちあげないまま肘をついてじっと画面を見ていたら近くの社員が声をかけてきた。画面を見ていたのではなく、ちょっと休んでいただけだが。姿勢を戻しながら総務を見渡す。今日は特に変わりなく皆、仕事をしている。来週は三月の月末で年度末、そしてその翌日は入社式だ。無事に運んでくれればいいが。



「え? また家へ帰る?」
『うん、この前は急に戻ってきちゃったから』
「この前、家でなにかあったの?」
『そういうわけじゃ』

 その日の夜に瑞穂からかかってきた電話にちょっと驚いた。
「瑞穂」
『……はい』
「どうしたの? 僕になにか言ってないことはない? 家でなにかあったのならちゃんと言って。瑞穂のことだけじゃない、ご両親のことも」
『あ、えっと、そういうのじゃないですけど、母と温泉に行くって約束しちゃったから。あ、おみやげ買ってきますね』
「お母さんとか……」
 瑞穂の言うことは別段、おかしくはなかったが。
「そう。じゃあ、ゆっくりしておいで。その代わり月曜日は僕の部屋から出勤だよ」
『覚悟しています』
 瑞穂が声をあげて笑った。こっちは本気で言っているんだからな。

 そしてそれは翌日の金曜日のことだった。
「課長、新人研修のことで人事から連絡があったのですが」
 部下のひとりがそう言ってきた。
「新入社員研修の初日に研修所のほうで社長が話をされるという連絡が来ているが、これは確定かと」
「社長が話? それは私も聞いていないが」
 平静を装ったが、そんなことは昨年まではなかったことだ。あの親父がまたなにか言い出したのに違いない。入社式の翌日に研修所まで行って話がしたいのか。

 椅子を蹴るように立ち上がった。電話で言っても埒(らち)があかない。もう終業の定時間際
だったが、社長室のある最上階へ向かった。
「社長は?」
「本日は業界団体の会合へお出でになって、終了後は会食会です。その後はそのままご自宅へお帰りなる予定ですが」
 秘書室では社長秘書の新庄さんに事もなげにそう言われる。

「孝一郎君、どうしました」
 真鍋副社長が帰るのか、秘書室へ入ってきた。
「いえ、社長に聞きたいことがあったのですが」
「今日は戻らないでしょう? ああ、研修での話の件ですか」
「そうです」
 真鍋副社長がそのことを知っていたことにも腹が立った。入社式での社長の訓示を延ばせないと言った時にこの人だってその場にいたはずだ。
 秘書に「私は帰りますから」と言って秘書室から出る真鍋副社長の後に続きながらかまわず話を続けた。
「社長に直接話すことにします。今さらこんなことを言われても」

 その時、エレベーターホールのほうから人の話す声が聞こえてきた。良く通る男の声。
「瑞穂ちゃん」
 思わず足が止まる。
 廊下沿いの壁でここからエレベーターホールは見えなかったが。

「瑞穂ちゃん、家に帰るんでしょ? 東京駅まで一緒に行こうか。俺も大阪まで新幹線で帰るから」
 なに?
「あ、そうなんですか。じゃあご一緒しましょう」
 じゃあ、って。なんでそうなるんだ!



「おやおや」
 となりの真鍋副社長がさも驚いたような顔で言ったが、それを受け流す余裕さえなかった。

 どうして俺とでなくて、あの男と一緒に帰るんだ!?


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