副社長とわたし わたしの総務課長様 5

わたしの総務課長様

目次



 瑞穂からメールが入っていたのに気がついたのは夕方だった。明日の金曜日に仕事が終
わったら実家へ帰ると書いてあった。
「もしもし、瑞穂?」
 定時を少し過ぎたところで休憩を取ると言い置いて総務を出て瑞穂へ電話をかけた。
『あ、孝一郎さん、急にごめんなさい。わたしもまだ仕事です。明日も残業になりそうだったんだけど、それはなくなったから家に帰ろうかと思って』
「家へ? なにかあったの? 」
『ううん、たまには帰って来いって言われただけ。友達とも久しぶりに会いたいなと思って』
 そういえば瑞穂は正月に帰ったきりでそれ以後は家へ帰っていなかったな。瑞穂の家は電車で二時間くらいのところだから帰ろうと思えば休日だって帰れるのに。
「僕も一緒に行こうか。土、日は休めるから」
『え、でも、せっかくのお休みなのに。あの……駄目ですか?』

 瑞穂が家へ帰るのに俺の許可を得る必要なんてない。
「いや、そんなことはないよ。じゃあ気をつけてね」
『大丈夫、自分の家へ帰るだけだから。孝一郎さんも土、日はお休みならゆっくり休んでくださいね。電話はしますけど』
 電話の向こうで瑞穂が小さく笑った。ああ、それだけで……。
「うん、そうするよ。お父さんとお母さんによろしく」

 瑞穂に会えないのか。
 そう思うと携帯電話をパチンと音を立てて閉じた。明日は一緒に帰りたいと考えていたのに物わかり良く言った自分にあきれる。俺が帰るなと言ったら瑞穂はきっとそうしてくれるだろう。だが、それがわかっているから帰るなとは言えない。




 金曜日、わたしは引き続き谷崎さんと仕事。出張中の金田さんと三上さんは今日の夕方に
帰ってくることになっている。ときどき本社から谷崎さんへ電話がかかってきて谷崎さんもこっちにいながら本社での仕事の話をしていて忙しそう。昼休みになって谷崎さんが食事に出かけてわたしもやっと一息入れてお弁当を済ませた時だった。
「瑞穂さん、邪魔するよ」
「常盤社長!」

「そうか、金田所長は出張かね」
「申し訳ありません、夕方には戻るのですが」
「瑞穂さんが謝ることはない。勝手に来ているのは私だからな。それよりもその箱を開けて私に出してもらえないかね」
 常盤社長が持って来て下さったのは大きな栗が丸ごと入ったお菓子。ひとつひとつが和紙で包まれて重箱のような木の箱に入った、いかにも老舗のお店のものらしいそのお菓子は出張のお土産だと言って下さったもの。わたしが遠慮しなくてもいいようにひとつを自分に出させて残りは食べなさいと言ってくれる。
「瑞穂さんも一緒に食べんかね?」
「はい、いただきます。ありがとうございます」

 谷崎さんが戻ってきたのはわたしが常盤社長の前にお茶とお菓子を置いているときだった。
「ただいま。お客様ですか」
「あ、課長、お帰りなさい」
 わたしはいつものようにそう言ったのだけど。 

「なんだね、君は」
 座ったままぎろっと谷崎さんを見上げた常盤社長。こういところ、ワンマンって言われているお父さんだけに半端ない。
「なにって……ここの社員ですが。大阪本社の営業の谷崎と申します」
 谷崎さん、常盤さんがただならぬ人だと気がついたみたい。すぐに口調が改まる。そりゃ見ればわかるよね。姿、態度、座ってお茶を飲んでいるだけでもこの人がただの人じゃないって。わたしは言わないわけにもいかず谷崎さんに説明した。
「谷崎課長、こちらはこの三光製薬の常盤社長さんです」
 声には出さなかったけれど谷崎さんが驚いた表情になった。
「同じフロアなので、ときどきお見えになるんです。金田所長とお話しされに」
 常盤社長が谷崎さんにむかって来なさい、とでもいうように手招いた。
「そう、金田所長には世話になっているよ。ところで君は釣りはするのかね」
「いいえ、私は釣りは」
「しないのかね。つまらんなあ」
「も、申し訳ありません」
 すでに谷崎さん、常盤社長に圧倒されているみたいだ。なんだかお父さん、わざとそうしているみたい。平然とお茶を飲み、お菓子を食べる常盤社長にはここがトーセイ飼料であっても社長室であるかのような貫禄。確かにここは三光製薬の自社ビルですけど。

 しばらくして常盤社長は戻って行ったが、営業所にいるあいだ社長は谷崎さんへ座れとも言わなかった。谷崎さんは立ったままだった。

「どうして三光製薬の社長がここに……」
 常盤社長が出ていってしまった後で見送った谷崎さんがつぶやいた言葉にわたしはなにも答えられなかった。




 やはり袴田真奈美は佐伯の予想通り今日も休みだった。袴田のやっている仕事の割り振りをそのグループへ指示しておく。それから入社式の準備を行っているもうひとつの人事関係のグループのリーダーの倉内へもフォローを指示した。
「袴田さん、辞めたそうですね」
 倉内はすでに袴田が辞めてしまったように言った。事実上はそうかもしれないが。
「月末で辞めることになっています。できれば引き継ぎのために来週は出てきてもらうように佐伯さんから電話してもらおうと思っていますが」
「袴田さん、もう出てこないんじゃないでしょうか」
 倉内は佐伯と同じようなことを言った。
「入社式の前日の準備は僕のグループもやることになっていますので人数的には大丈夫ではないでしょうか。急に辞めるような人に言っても無駄だと思いますよ」
 ……意外にみんなドライだな。こんなものだと割り切っているのか。
 自分が中間管理職というものを経験したことがなかったからそう感じるだけなのかもしれないが、それとも倉内や佐伯にしても辞める人間を気にするよりは目の前の仕事を滞らせたくないという気持ちなのだろうか。それは俺も同じだった。仕事は、予定は、待ってくれない。 

「常盤課長、お話し中すみません。いま、これが秘書室のほうから回ってきたのですが」
 他の社員が持ってきた書類を差し出した。それはあらかじめ役員へ渡してあった入社式の予定表だったが、そこに書き込まれていた内容に思わず声が出てしまった。
「……な」
「な?」
 目の前の社員が聞き返した。
「いや、なんでもありません。この件を確認しに役員秘書室へ行ってきます」
 エレベーターへ乗って最上階へ着くと秘書室ではなく社長室のドアをノックした。勝手知ったる最上階だ。

「来たな。孝一郎」
 父である社長はまるで待ち構えていたように言った。確信犯だな、これは。
 社長室には真鍋副社長もいて、俺が「失礼します」と言うと「どうぞ」と言ってそのまま見ている。

「来たなではありませんよ。今になってこんなことをおっしゃられても困ります。式での話の時間を延ばせなどと」
「十五分では短すぎる」
「訓示は手短にお願いしたいと申し上げたはずです。昨年のように一時間もしゃべられては困ります。予定の時間がありますのでその通りにお願いします」
「おまえ、去年は黙って座っていただけのくせに。入社式に社長が話をしてなにが悪い。今年も
一時間だ」

 ……この親父。
「出来かねます」
「おまえは総務課長のくせに社長の言うことが聞けないのか」
「社長なら総務課長ごときにそんなわがままを言わないでください」

「四十分」
「だめです」
「それなら三十分だ。これ以下にはできん」
「最初に一時間と言っておいてから歩み寄ると見せてこちらの譲歩を引き出そうとするような古典的な手を使わないで下さい。あなたの息子はそれほど馬鹿じゃありませんよ」
「そういうときだけ息子になって、嫌なやつだな!」
 父である社長が大きな声を上げた。元からこの人の声は大きいが。

「まあまあ、社長。孝一郎君を困らせても仕方ないじゃないですか。孝一郎君もそうむきにならずに、ちょっとわたしの部屋へ来なさい」
 社長のデスクの前に立ったままの俺に真鍋副社長が声をかけた。それで父は黙ったが俺はかまわず付け加えた。
「とにかく時間は変えられません。秘書にもこのままでと言っておきますので」
「おい、孝一郎!」



「社長は相変わらずですねえ。孝一郎君も大変だ。どうぞ、座って下さい」
 真鍋副社長が副社長室の自分の前のソファーを示した。
「いいえ、申し訳ありませんがこのままで伺います。なにかおっしゃりたいのでしょう」
「そうですよ。孝一郎君、座ったらどうですか」
「……はい」
 この人は物静かだが、さすがにそこは三光製薬の重役だけあって一筋縄ではいかないところがある。説教でもされるのか。
 しかし真鍋副社長はなにか楽しそうな様子で、ここは素直に従うことにしてソファーへ座った。座ると斜め前にガラス越しにトーセイ飼料の部屋が見える。瑞穂が部屋の中にいることはさっき副社長室へ入る前にもう確認済みだ。

「むかいのお嬢さんですよね」
「は?」
「孝一郎君の婚約者ですよ」
「はい。そうですが」
「最近、忙しそうですねえ」
 真鍋副社長は相変わらずにこやかだ。瑞穂が忙しいことくらい知っている。瑞穂がそう話してくれている。
「人が増えたようですね」
 あの男のことを言っているのだろうか。それがなにか、と言おうとしたら真鍋副社長がふふっと笑った。
「なんでしょうか」
「いや、孝一郎君の婚約者のお嬢さんはなかなかしっかりした人らしい。社長も彼女を気に入っているしね。私にも挨拶してくれる。それだけでも良い人だとわかります。彼女は年上の男に
もてるでしょう」
「……は?」

 この人はなにを言いたいんだ?
「しっかりしているけれど声をかけやすい雰囲気がある。同年代よりは私みたいな五十代や
四十代に気に入られるタイプだ。癒し系っていうのかな」
「おっしゃる意味が測りかねます。それは私では彼女に不足だということですか」
 なんだかむかついたが、真鍋副社長はまた笑った。
「まあまあ、孝一郎君、そう怒らずに。わたしが言っているのはお向かいのあの男性社員のことですよ」

 思わず振り向いた。
 トーセイ飼料では今日も瑞穂と一緒に仕事をしているあの男の姿が見えた。
 あの男のことを言っているのか?

「あの人がなにか」
「ほう、さすがは孝一郎君だ。知っていたのですか」
 知っていたというほどではないが、それをこの人に言うのは癪(しゃく)にさわる。

「女性は仕事のできる男に惚れますが、仕事ばかりでも離れていく。そういうものですよ」

 …………
「ほかにお話は」
「ああ、それだけですよ。それが言いたかっただけです」
「失礼してもいいですか」
「ご苦労様」





 わたしが気がついたのは視線を感じたからだった。ガラス越しの視線。
 孝一郎さんがガラスの向こうからこっちを見ている。廊下に立ったままこちらをじっと見ている。

 ……なんだかいつもと違う?
 いつも穏やかな顔つきの孝一郎さんにしては表情が固かった。今まで、廊下からこんなふうに立ったまま見られたことはない。なんだかその顔って……。

 ふい、と孝一郎さんは視線をそらすと行ってしまった。

 あ、あのー。
 これって……?


  目次      前頁 / 次頁

Copyright(c) 2010 Minari all rights reserved.