副社長とわたし わたしの総務課長様 4

わたしの総務課長様

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「袴田さんが休み?」
「はい。風邪で体調が悪いので今日は休むと連絡があったそうです」
 袴田のいるグループリーダーの佐伯瑶子が朝、そう言ってきた。今日は入社式の運営を行う総務の社員たちを集めて打ち合わせをする予定だった。
「袴田さんは事務的な準備をしてくれていますよね」
「はい。グループでやっている仕事なので、ひとり抜けてもなんとかなると思うのですが」
 佐伯が素っ気なく言う。
 入社式はこのビルの会議場で行われることになっている。本社採用の新入社員は営業職、研究職を中心として約百名ほど。総務では今日の打ち合わせ、それから前日の会場セッティングもある。

「まだ抜けると決まったわけではないですよ。明日は来るかもしれないし」
 そう言うと佐伯がちらっと困ったような顔をした。
「袴田さん、このごろ体調が悪いらしくて。でもそれだけじゃなくて、もう月末まであまり出社しないんじゃないでしょうか」
「体調が悪いだけではなくて?」
「わたしも詳しくは。でも退社するつもりなら」

 グループリーダーの佐伯は三十一歳でベテランと言っていいだろう。グループリーダーになるまでも人事関連の仕事をしていた。特に目立ってバリバリやるタイプではないようだったが、実務に関しては俺よりはるかに詳しい。その佐伯が言っているのだから袴田はもう出社しないのかもしれない。袴田はもう会社へ来る気がないということだろうか。昨日急に退職したいと言ってきたばかりで……。
「袴田さんは体調が悪いのならそう言ってくれればよかったのですが。いきなり退職でなくとも」
「そうですね」
 佐伯の口調は同意はしていてもどこか冷めているようだった。
「袴田さんが抜けても大丈夫なように調整してみましょう。佐伯さん、話してくれてありがとう」
「いいえ」
 佐伯の口調はやはり素っ気なかった。


 会場となる会議場で打ち合わせを終えると社員たちと総務へ戻る。エレベーターから降り、廊下を歩いていた時だった。むこうから瑞穂が歩いてくる。なにか分厚い書類を抱えて、同じように書類を持っている男と並んで。
 一緒にいたのはカフェテリアで見たあの男だった。瑞穂の持っていた重そうな書類を横から
ひょいっと取り上げて持ってやっている。瑞穂がすみませんとでも言っているのか、男を見て
ちょっと頭をさげている。

 足が止まりそうになった。が、ゆっくりとふたりに近づく。先に目があったのは男のほうとだった。外回りの営業をしているらしい陽に焼けた肌が精悍に見える男。その男が俺を見ている。俺が見ているからか。

 ……この男、やはりトーセイ飼料の社員か?

 そして瑞穂も顔をあげてすぐに俺に気がついた。すれ違う前に目が合い、瑞穂が会釈をする。こちらもうなずいて目で応えると、となりの男がそれに気がついたようだった。が、それだけでふたりは通り過ぎていく。


 金田所長でもなく、三上でもなく。
 あの男と瑞穂は仕事をしているのか。

 仕事とはいえ、あまり面白くない……。





 谷崎さんが営業所へ来て二日目、今日は本社から送られてきたデータを打ち込むことになっていた。その日の午後、出張へ出かける金田所長と三上さんを送り出すと谷崎課長と一緒に仕事に取りかかった。わたしがパソコンへデータを打ち込み、それを谷崎課長が時間差でチェックする。 細かい数字の並んだデータを続けて入力するのはとても気を使って疲れる。途中で電話がかかってきたりすると集中力がそがれてしまい打ち直しが多くなる。それでも三時過ぎまでふたりで黙々と仕事を続けていた。
「あー、俺は目がチカチカしてきたよ。ちょっと休もう」
 そう言って谷崎さんが首を回した。
「はい、コーヒー飲みますか? 課長はお砂糖、ふたつですよね」
「今日はみっつにしようかなあ」
「じゃあ、山盛りで入れますね」
 はは、と谷崎さんが笑う。

 インスタントコーヒーを淹れながら考えた。
 このペースだと今日は残業だろう。データの入力はしんどいわ。今週はずっと残業になってしまうかも。金曜日は仕事が終わったら実家へ帰るつもりなんだけど……。

「そういえば」
 谷崎さん、コーヒーを飲みながら聞いてきた。わたしも自分の席で座ってコーヒーを飲んでいた。
「さっきすれ違った人、三光製薬の人だよね。驚いたなあ。まだ若いみたいだったけれど、東京にはあんな人がいるんだね」
 あんな人。
 それは孝一郎さんのことに違いない。そりゃ、あの人は人も振り返るほどの美形で男の谷崎さんから見てもそうなのだと思うけど。
「俳優かモデルかってくらいの。なんだか世界が違うって感じだったよね。あの人は総務の人?もてるだろうねえ」
 谷崎さん、わたしにいろいろ聞いてくるけど、なんて答えていいのか困るんですけど。
「三光製薬の総務の常盤課長です。いつもお世話になっているんですよ」
 お世話? あー、自分でもなんだか変な言い方に思える。お世話になっているんじゃなくて、お世話しているんでもなくて、いえ、その……。
「あれ? 瑞穂ちゃん、なに赤い顔してんの?」
 谷崎さんがちょっと身を乗り出すようにして聞いてきた。
「え、なんでもないですよ」
「その言い方、微妙だなあ。さては瑞穂ちゃんもあの課長のファンなの?」
「あっ、まあ、そうですねー。それよりも課長、仕事始めましょう」
「なんだ、なんだ、怪しいぞ」

 そうは言ったが谷崎さんも真顔に戻って、また仕事を続けた。パソコンの画面と手元のデータに集中していたわたしは向かいの副社長室で秘書の浅川さんと真鍋副社長がこちらを見ながら話をしていたのにも気がつかなかった。


「おや、トーセイ飼料さんは残業ですか」
「そのようですね」
「今日はお向かいのお嬢さんはずっとあの新顔さんとふたりで仕事をしていましたね。差し入れでもしてあげたら良かったかな」
「副社長」
「浅川さんはあの新顔さんのことをなにか聞いていますか」
「いいえ。人数が増えるようなことは聞いておりませんので異動ではないと思いますが」
 真鍋副社長がそうですか、と答える。

「これは孝一郎君もうかうかしていられませんね」


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