庭の草陰 夏5


庭の草陰

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 もうすぐ八月が終わってしまう。
 信は八月は仕事をしないと言っていた。毎日何もしないで画室でごろごろしている。ときにはふらりと外を歩いたりしている。
 ご飯はくれるけれど、放っておいてくれる信。ううん、それは放っておいてくれるんじゃなくて、なにも見ていないだけ。昼間に眠って夕方になると起きてきて台所で立ったままご飯に冷たいお茶をかけて食べている信の目は何も見てはいない。
 でも、わたしには見えている。
 あの画商という人がまた来たことも。信にではなくわたしに会いに来たことも。



 旧盆はとっくに終わったというのに。

 昼は眠っているようになり、夕方に目覚める。それから炊く飯は翌日俺が起きるまでにはなくなって炊飯器の釜が洗ってあるからかおるが食べているんだろう。もしかしたらかおるも夜、起きているのかもしれない。夜でもときどき聞こえる小さな物音。かおるの気配。

 そんなかおるの気配とは別のもの。
 夜になると見えてくる気がする。
 暗い闇の中にかろうじて見える輪郭。

 それを写し取りたくて木炭を、墨を塗る。深い闇のように紙を塗っていく。ほんのわずかな白っぽい影を埋没させるように。

 夜になれば。

 闇に見えるあの影。決して近づいてくることはない。その影を描きたくて一晩中、紙を塗りつぶす。黒く塗られた紙が何枚も散らばっていく。
 夜の暗闇の中で描くその絵はほんのわずかな外からの光に黒々とした面をみせるばかりで俺自身にも何を描いているのか見ることができない。


 黒い髪のような。
 影のような。
 闇のような。


 腕を伸ばし紙を黒く塗り込めていく。あの影を紙の中へ塗り込めていくように。
 俺を取り込みに来たとしてもそれでいい。

 その暗闇の中に塗り込めたのは白い肌。その肌を愛撫するように。
 俺の抱いた……。





 いつのまにか眠っていたらしい。
 真っ暗な中で仰向けの体がじっとりと汗ばんでいる。引っ張られるように上半身を起こした。
 風もないのにふわりと闇が動く。
「誰だ」
 ふっと影が動いたようになにかが部屋から縁側へ動いた。

 それが振り向いた?
 そして縁側から庭へ……。

「誰だ」
 どこへ行く?

 部屋から続く縁側から庭へと裸足で降り立った。
 刈った後のまだ短い草の庭。その草の中に浮かぶように立つ影が動いて、もう一度また振り返った。
 裸足のまま草へ足を踏み入れようとした、その時。うしろから腕を触られてその感覚に飛び上がりそうになった。生温かい、だれかの手。

「……なに、してんだ」
「信こそ」
 うしろに立っていたのは、かおる。ゆっくりと前を指さす。

 黒々と翳る雑草の草地。かおるの指さす夜の闇。
 しかしもう、さっきの影は見えない。

「あそこ」
 かおるが指さしたまま。
「あそこにいたね」
 人には見えないものが見える猫のようにかおるがつぶやいた。

「なにを言っているんだ」
「その人はあなたのことを忘れられないまま死んでしまった。いまも思いは残っている」

 なにを、なにを、なにを言っているんだ。

 俺の腕をつかんだままのかおるの闇に光る目。黒いのに透明な、闇をも透かす猫のような透明な瞳。その顔が不意に近づき、頬が触れた。
 ひんやりと、夏なのにひんやりとした柔らかな頬が一瞬、触れて離れた。

「わたし、あなたに会いたかったの」
 かおるの体から立ち上る若い体の匂い。幻でも、影でもない、生きた体。
「あなたに会いたかった。でも、もう帰る」
 …………
「帰る?」
「家に。送ってあげなきゃならない人がいるから」
 
 送る……
 帰る……

 どこへ……?



 翌日、かおるはいなくなった。
 朝までは台所にいたのに、黙って朝飯を食べたのに、気がついた時には姿が見えなかった。どこかへまた買い物にでも出かけているのかと思ったが、板の間の隅に置いてあった布団が押し入れに片付けられているのに気がついた。かおるのいた跡形も残さず消えているのを見て、やはりいなくなったのだと思った。 台所の板の間にあぐらをかいて座りながら俺はぼんやりと開けた勝手口の向こうの庭を見ていた。

 生い茂る雑草の中からやって来た、かおる。
 夜の闇を見透かして見ていたような、かおる。

 かおるは……。


2009.09.29

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