庭の草陰 夏4


庭の草陰

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「信さんが仕事をしないのは君のせいかな」
 車から降りてきた画商というその人は台所の出入り口の上がり端へ座っていたわたしにそう言った。わたしを見下ろすように立つ背広姿。やさしげな表情で。
「彼とはどういう関係?」



 草刈りをして多少は見やすくなった庭は暑さに乾き始めた。台風でも来て雨が降ればまた雑草が伸びてくるだろうが、しばらくは風が通る。
 やはり城島は八月が終わらないうちにもう一度やってきた。

「信さん、今度はぜひ人物をお願いしますよ」
「八月は仕事をしないと言ってあるでしょう」
「急ぎませんよ。信さんが人物を描いてくれるなら。なんならモデルを手配しましょうか」

 黙って城島を見ると城島は何げなく笑っている。
「俺は猫の世話をしなきゃならないんでね。当分は描きませんよ」
「猫ですか」
 おまえが飼い猫と言ったんだろう。
「あの子、まだいるんですか」
 城島はぐるっと家の中を見回す素振りをした。
「今日はいないようですね」
「さあ、その辺にいるだろう」

 かおるがどこへ出歩こうと俺は関知していない。家の中でも好きにしているんだ。飯を与えるだけ。
「信さんが描こうとしないのはあの子がいるからかな」
 何を言いたいんだ。
「関係ない」
「でも今まで女っ気のなかった信さんだから。三十六で枯れるのにはまだ早いでしょう。ゲイかと思いましたよ」
 
「いいじゃないですか、あの子。野良にしては毛並みがいい」
 何を言いたいんだ。
「彼女を描けば?」
 それが言いたいのか。
「あれこれ言うんなら、描きませんよ」
「まあまあ」

 城崎が帰った後で台所へ行くとやはりかおるはいなかった。隅にたたまれた布団。
夕方になってもかおるは帰ってこなかった。

 野良だ。
 猫だから気の向くままに出ていくのだろう。飯をもらった恩など忘れて。



 ……人物か。
 大学では涼子は人物ばかり描いていたな……。

 デッサンでも課題でも人物を描くことからは逃れられない。人物の得意な涼子は同級生のなかでもダントツだった。器用な涼子はデザインの会社に就職が決まっていた。 彼女なら会社でもうまくやっていけるだろう。偏屈な俺と違って。

「信はそれでいいのよ」
 長く美しい黒髪をきりっとまとめた涼子が言う。会社訪問用のスーツを着ていて、それがよく似合っていた涼子。
「自己中心的なだけだよ」
「それって何よりも強いことだわ」
 
「ああ、これって窮屈。スーツもパンプスも。四月からは毎日こんな服を着て働かなきゃならないなんて」
「そういうのがやりたいんだろ?」
「そうよ」
 そう言いながら涼子はスーツを脱いでいた。手に触れる涼子の白い肌。

 大学を卒業しても就職を決めていなかった俺は自称画家になった。それでいいと思っていた。人付き合いが苦手で、絵を描くことしか好きじゃなくて、そんな俺に会社勤めができるわけがない。 大学で知り合った、きらめくような才能を持ったやつら。涼子もそのひとりだった。社会から見ればそんな涼子たちでも青臭い若い才能に過ぎないのかもしれなかったが……。
 卒業後は東京を離れ、三年ほどして偶然、大学の後輩に会ったときに聞かされた。涼子が結婚したと。知らなかった。お互いに連絡も取っていなかった。なにひとつ。

 画室は灯りをつけぬまま暮れていく。

 いつも思っていた。
 描けるなら涼子が描きたいと。デッサンで涼子にモデルになってもらったこともある。それでもその頃の俺には人物画はなぜか苦手だった。 もう涼子にモデルになってもらうこともできなかったが、それでも俺の描く女はいつでも涼子だ。黒い長い髪を乱して横たわる女。若く、美しい肉体を持った女。それがもう本物の涼子からかけ離れてしまっているものとわかっていた。

 それでも手は動く。
 記憶の中にある涼子。俺がこうして涼子を描いていることなど涼子は知らないだろう。白い肌を光らせて体を揺らす涼子が少しずつ浮いてくる。
 絵の中で俺と交わる涼子。もはやそれは涼子ともわからない、体だけ、線だけの。

 そんな絵を城島が見た時、やつはにこやかにその絵を見ていた。
 ご多分にもれず食うに困ってのかつかつの生活。浮浪者同然の俺を拾い上げたのは城島だった。
 芸術というにはおおっぴらに飾るのがはばかられる絵。それまでは決して人目には触れさせなかったのに、人間は食べるためには簡単に落ちるものだ。そしてそれを売りさばくのは城島の腕。
 だから俺も城島の飼い猫なのだ。でなきゃこんな田舎でも暮らしてはいけない……。



 それでも……生きているのだと思っていた。

 梅雨の明ける前にそれを知らせてくれたのは、涼子の同郷の友人という人だった。涼子が病気で亡くなったと。
 どこで暮らしていたのか、どんなふうに暮らしていたのかお互いに知りもしなかったのに、訃報というだけで涼子の死の知らせは俺のところにも届く。もう十何年も会っていなかったのに。手紙はおろか、電話ひとつしなかった。それなのに。

 毎日、同じことを考えていた。
 
 いつもと同じ夏。暑い夏。
 涼子の死んだ後の夏。
 
 八月は魂が帰ってくる季節。

 圧倒的な夏の、草の、虫の、うごめくような生命に取り囲まれている。
 それはいつもの夏なのに。



 台所でかたと小さな音がしていつのまにか、かおるがいた。
 帰ってきたのか……。
「どこかへ行ってたのか」
「うん、買い物」
「そうか」
 もう夕飯を済ませてしまった俺は炊飯器を指差して「好きに食え」と言った。

 いるんなら飯をあげなきゃな。
 台所で眠る猫に。


2009.09.25

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