庭の草陰 夏2


庭の草陰

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「モデルはいらない?」
 わたしがそう言ったらその男の人はやっとまともにこちらを向いた。といってもその目は胡散臭そうにわたしを見ている。
「いらん。俺は人物は描かない」
「そうなの」
 そう言うと思ったけど。
 そしてその人はスケッチブックをたたむと帽子をかぶりなおすようにしながら黙って歩き出した。



 耕作を放棄された山あいの畑を覆い尽くすくずのツル。頑強なツルは貪欲に斜面を、他の木々を這い登る。他の草を圧倒しながら。農道のアスファルトにまでツルを伸ばしている、葛という風情のある名にそぐわない暑さにも強い草。赤紫の小さな集まった花をいくつかつけている。

「何してんの?」
 ちらっと目線を上げると若い女が横にいる。麦わら帽子をかぶっている。
「絵を描いている」
「ふうん、見てていい?」
 俺はそのまま描き続けて、彼女は横でじっと絵を見ているようだった。
「葛だね」
「よく知っているな」
 赤紫の小さな花をつけたつる草。
「画家なの」
「そうだ」
「上手だもん」
「そりゃ、どうも」

「わたし、モデルになってやろうか」
 やっと手を止めてその子を見た。いきなりそんなことを言う女って……。
「モデルはいらない?」
「いらん。俺は人物は描かない」
「そうなの」
 変な子だ。そう思ってスケッチブックをたたむと黙ってその場を離れた。家まではさほど遠くない。畑の中の道がだんだんと住宅の並ぶところへ続いている。さっきの子が家の前で追いついてきた。

「家、ここ?」
 俺は黙ってその女の子を見た。麦わら帽子をかぶって肩くらいのストレートの髪。その髪の毛が汗で額や首筋に貼り着いてる。黒いタンクトップの上にチェックの半袖シャツをはおり、ジーンズのハーフパンツという若い子によくあるような服装。よく見るとそのチェックのシャツも汗で濡れている。
 どこから来たのか。この辺の子なのか。しかし相手をする気もなく、木戸をあけて庭へ入った。その子は低い板塀越しにこちらを見ていた。夏の雑草が生い茂った何もない庭の向こうから。
 放っておけばそのうち帰るだろう……。


 うとうとして目が覚めると部屋の中が暗かった。今日も暮れたか……。
 部屋の中よりも外の空はまだ明るさが残っている。それでも暗くなっていく庭の雑草は照らす灯りもなく黒々と翳っていた。その影の続きのように、庭の向こう、誰かいる。暗くなっていく庭のむこうに立っている人影。
 黒い影。女だろう細い影。そこに立っているのは誰だ?

 ふらっと庭へ下りた。闇に、暗い闇が満ち始めている庭へ……。

「そこ」
 と、不意にその人影が声を出してこちらを指差した。
 その人影がチェックのシャツを着ていることに気がついて昼間の子だとやっとわかった。
「帰らなかったのか」
 庭の雑草をまわり込むようにして近寄ったが、その子はじっと庭の草むらを見つめたままだった。
「なにかいる」

 低い塀を挟んで庭の中に立っていた俺は振り向いて草むらを見たがそこには何もいなかった。虫の鳴く声が聞こえている。
「何かって?」
「草が揺れた」
「虫だろう。バッタとか」
「ううん、動物みたいだった」
「じゃ、猫だ」
 この庭は猫の通り道になっているらしく前は時々猫を見かけていたが、そういえばこの頃は猫を見なくなっていた。

 暗くなっていたので早く帰れよと声をかけたが、俺が家の中へ入るとその子は一緒についてきて「ちょっと休ませて」と言って台所の上がり端へくたっと座り込んだ。
「わたし、かおる」
 そうしてかおるは居着いてしまった。板敷きの台所と居間を兼ねた六畳ほどの部屋の隅に。生い茂る草の中からやってきた野良の猫のように。


 飯をやらなければ帰るだろうと最初は飯をあげなかったが、かおるはいなくなることはなかった。黙って座ってテレビを見ていたりする。でもこいつの前でひとりだけ飯を食べるのも意地が悪いようで、てきとうに与えたらうれしそうに食べている。若い子の好きな食べ物なんぞ作れない。 味噌汁、魚の干物を焼いたもの、野菜の油炒め。暑ければそうめん。そんなものばかりだが別に文句も言わない。おとなしい猫だ。
 
 いくつくらいだろう。若い女の子の年齢がわからない。若い女なんて話したことも、見かけることもほとんどない。十八くらいだろうか。やっかいなことにならないかなとちらっと思ったが、かおるが勝手に居着いたんだ。俺は早く帰れと言ったんだし。
 かおるは俺といてもほとんどしゃべらなかった。俺は夏の間は仕事をしないと決めていて風通しのいい画室で昼寝ばかりしていたが、そっちの部屋へ入ってくることもない。台所で俺と同じように昼寝ばかりしている。

 俺の家に居着いた猫。
 眠り、なにをするでもなく飯だと言えば黙って食べる。何もする気の起こらない俺と同じ。暑い夏を何もしないでやり過ごそうとしている俺は庭を眺めて一日が終わる。
 いや、眺めているのではない。ただそちらを向いているだけ。


 夜中、蒸し暑さに目が覚めた。
 いったん目が覚めると昼寝ばかりしているせいで今度は眠れなくなる。暑苦しく重い夜気の中でじっとりと汗ばんでいる体を持て余しながら、起き上がるのも億劫でそのまま天井を見上げていた。

 暗いな。

 死んだらこんなふうに真っ暗だろうか。
 真っ暗なのにあそこに見えているのは何なんだろうな……。

 ふっと動いて、かすかに揺れたような空気。



 ……八月は魂が帰ってくる季節。

 俺のところに帰ってくる魂はいないのに。
 それなのになぜ空気が動く。
 わけのわからない闇が俺を取り込みに来ているのか……。


 水を飲もうと思って台所へ行く。灯りをつけないまま、流しで水を飲む。板の間のむこうの隅には古い布団を敷いて寝ているかおる。かすかな彼女の気配が、寝息が聞こえる。暗い中で目を凝らすと、布団の上で丸まるように寝ている。黒いタンクトップにジーンズのハーフパンツのままで、腕や肩が夜の部屋の中でわずかに白っぽく見えるだけ。

 おまえは静かに眠るんだな……。


2009.09.18

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