庭の草陰 夏1


庭の草陰

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 ぼうぼうと伸びた雑草をかまで刈っていく。暑さにむせるような草の匂い、土の匂い。小さな虫がいくつも飛び出して散っていく。
「おい、手袋くらいしろ」
 素手で草をつかんでいるわたしに信(しん)が向こうから言った。彼はタオルを帽子代わりに頭へ巻き、腰をかがめて草刈り用の鎌でざくざくと雑草を刈っている。Tシャツの襟元を濡らす汗。
「あ、こおろぎ」
 茶色の虫がしゃがんでいるわたしの足元へぴょんと跳び出た。
「虫、嫌じゃないのか」
「べつに」
 そう言ったら信は「珍しいな」と言ってまた草刈りを続けた。



 庭の草刈りが終わると屋根のある外流しで手を洗い、俺はTシャツを脱いで濡らしたタオルで体を拭き始めた。かおるは外流しの横の台所へ入って行った。
 暑くはあったが、かおるが台所の戸を開けるとすうっと風が通ったのがわかった。木造の古い平屋の家の開け放たれた窓。
 庭は家の建物と同じほどの広さで、俺がここに住む以前はこちらにも小さな家が建っていたが、しかし今は何もなく雑草の生い茂るままになっている。ここに住んでいる以上、あまり荒らしておくわけにもいかず夏の間は何度か草刈りをしなければならない。草払い機もなかったので鎌で適当に刈っていくだけだ。 この家の敷地は低い木の板塀で囲まれていて、今、草を刈った庭の隅には低木が二、三本植わっている。草刈りのついでにこれらの低木も刈り込んで伸び過ぎた枝を落としてやった。
 かおるは俺が低木を刈り込んでいると外へ出てきて俺のしていることを眺めていた。それから雑草を刈り始めると近寄って来た。
「鎌、ある?」
 自分も手伝うというのだろうか。俺は外流しの脇にある家の外側に造りつけになっている物置棚のほうをあごで示した。
「そこの棚にある」
 かおるは鎌を持ってくると素手で草を刈り始めた。
「おい、手袋くらいしろ」
 そう言ってやったが、かおるはしゃがみこんで地面を眺めている。麦わら帽子をかぶっただけの黒いタンクトップのシャツとゆるいハーフパンツ姿。
「あ、こおろぎ」
 そういったかおるの声は別段驚いているふうでもなく。
 女ってやつは虫というだけで騒ぐと思っていたが。
「手袋、物置棚になかったか?」
「なかった」
「これをしろよ」
 俺が自分のしていた手袋をはずそうとした。
「いいよ。信、手を怪我したらよくないから」


「かおる、鍋を……」
 もう昼だと思いながら外流しから台所の戸口へ入りかけた。
 外の強い日差しに暗く翳って見える家の中。その暗さの中で浮き上がるように見えた白い背中。台所の床にぺたりと座り込んで白い背中を見せて首筋や脇をタオルで拭いてるかおる。振り向きもせず、するりとさっきの黒いタンクトップを着た。
「かおる、鍋をかけておいてくれ。そうめんをゆでるから」
「うん」

 そのまま台所の外で鎌やなにかを片付けていると門の戸を開けながら男が入ってきた。この暑いのに背広を着てネクタイを締めている。
「おや、草刈りですか」
「城島さん」
 
 城島じょうしまは俺の唯一つきあいのある画商だ。俺の描く絵を売ってもらっている。世間ではこういうのを世話になっているというのだろうが。
「暑いですね」
 その割に城島は涼しげな顔で言う。
 いつでも丁寧な態度を崩さない城島。歳は俺と同じくらいだが。

「信」
 かおるの声にふりむいた。台所の戸口のところへかおるが立っていた。
「お湯、沸いたけど」
「あっちへ行ってろ」
 俺に言われてかおるは黙って奥へ入って行った。

 城島はかおるの入っていった奥を見ていたが、やがて振り返ってにこやかな笑みを浮かべながら言った。
「飼い猫?」
 猫?
「あの子」

「……今日はなにか?」
「いえ、信さんが夏休みだって知っていましたから仕事の話じゃありませんよ。様子を見に来ただけです」
 様子見か。
 用もないのに来るな。とも言えない俺のほうがこいつの飼い猫だ。

 しばらく城島は取りとめのない話をしていたが、俺は城島を家へあげなかった。次に来るときは仕事の話をしに来ますよ、と言って城島が帰って行った。本当は今日も仕事の話をしに来たんじゃないのかと俺は勘ぐったが城島は何も言わず帰って行った。

 昼飯を終えると仕事部屋にごろんと横になって昼寝をした。夏の間は仕事を入れていない。
 畳の上に敷かれた厚いインド綿のラグ。この部屋は八畳間と縁側で俺が画室に使っている。続きの六畳間が俺の寝部屋。このふたつの部屋に面した廊下をはさんで風呂場、トイレ。かおるは台所続きの板の間でごろごろしている。それがこの家のすべてだ。あとはほとんど何もない庭。外流し。
 庭の雑草を刈ったせいでもないだろうが、縁側から風が入ってくる。暑いが乾いた空気。まるで子供の夏休みのような何もする気の起こらない八月。ただもう昼寝をするしかない…。


「かお、夕飯」
 声をかけると黙って起き上がるかおる。座卓へ並べられた皿。味噌汁の鍋。朝、作った残りを鍋ごと冷蔵庫へ突っ込んで冷やしていたものだ。
「茗荷、ない?」
「みょうが?」
「薬味の」
「ああ、あれか。ない。ネギしかないよ」
「冷たいお味噌汁には茗荷だよ」
「そうか」
 かおるは飯に冷やした味噌汁をかけて食べ始めた。

「変なものが好きなんだな」
「そお? お味噌汁、普通ご飯にかけて食べるでしょ」
「いや、茗荷」

 網戸のむこう、暗くなってきた庭を見ながら言うともなくつぶやく。
「何か植えるか……」
 茗荷は植えられるだろうか。俺は知らなかった。


2009.09.15

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