花のように笑え 第3章 14

花のように笑え 第3章

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14


 瀬奈がK&Kを辞めることにして残務整理と引き継ぎを終えたのはそれから2週間後だった。 同僚の足立真由美は瀬奈がイメージキャラクターを断ったことを知ってそれが理由かと聞いてきたが瀬奈はそうではないと答えた。
「わたし北海道へ帰るの。帰りたいと思っている」
「帰りたいわけがあるんだ。北海道に」
「うん」
 そう答える瀬奈の何かが抜け落ちてしまったような表情。

 空港まで瀬奈を送ってくれた聡が言った言葉。
「待っているよ」
 そう言う聡の顔を見上げながら瀬奈は何の返事もできなかった。
 自分の中では答えが出ていたのに。
 結局は予約していた飛行機で帰ったので桂木と一緒になってしまったが、聡は桂木の姿を見ても何も言わずただ瀬奈を見送ってくれた。桂木のほうが少し離れたところに立つ聡の姿にとまどったほどだったが聡が桂木にむかって頭を下げると桂木も会釈を返すしかなかった。 まるで桂木のことを信頼して瀬奈を預けるような聡の態度だった。
 損な役回りだな……。
 心の中でつぶやきながら桂木は疲れた表情の瀬奈を見ていた。

「彼と話をしてきました」
 飛行機が飛び立ち落ち着くとやっと瀬奈のほうから言い出した。
「彼はわたしを待っていてくれると、わたしに戻ってきてほしいと言っていました」
「瀬奈さんはどうなのですか?」
「わたしは戻りたいです」
 はっきりと言ったのにどこかうつろな瀬奈の表情。
「専務、おかしいですよね。わたしは戻りたいと思っているのに、彼が好きなのに……」
 それでも、もう今の瀬奈は桂木にすまないと思っても桂木の気持ちに応えることはない。
「できればずっとK&Kで働いていたかったです」
 仕事を、働くことを教えてくれた桂木に感謝していたがそれは瀬奈自身が決めたことだった。
「そう、そうですね。瀬奈さんにはイメージキャラクターのような仕事は向かない。私もそれがわかっていたのに。あなたに新しい仕事をしてもらうことで私の気持ちにも応えてもらいたかった。だがそれも立花さんには向かない仕事だったのですね」
 桂木はわざと仕事と言った。瀬奈の仕事、瀬奈の人生の仕事……。
「ありがとうございました」
 精一杯頭を下げた。そうすることしか瀬奈にはできない。

 K&Kを辞めたあと、丸1日眠りたいだけ眠ると瀬奈はずっと部屋の中でぼんやりしていた。無理に考えることもせずにぼうっとしてまた眠る。それから借りていた部屋を引き払うと瀬奈の足はいつしか懐かしい町へ戻っていた。足は見覚えのある道を歩く。

 この町にいたときよりもわたしは何もないわたしになってしまった。
 何も持っていないわたしに……。
 瀬奈の中の抜け落ちてしまった何か。そのぽっかりと空いたものを埋めるものは……。

「いらっしゃーい。あ、ああー? 瀬奈ちゃん?」
「おかみさん……」
「どうしたの、どうしたの。そんなところに突っ立ってないで。食べに来てくれたんでしょ?
さあ座って」
 手を引っ張るように瀬奈を招じ入れてくれておかみさんは笑いかけてくれたが瀬奈は泣きそうな顔しかできなかった。
「おかみさん、わたし……」
 ぽんぽんとおかみさんが瀬奈の肩をたたいてカウンター席へ座らせる。
「日替わり定食がいい? お父さん、瀬奈ちゃんに日替わりひとつね」
「あいよ」
 奥から響く主人の元気のいい声。主人の目もやさしく瀬奈を見ている。

 あたたかいご飯。焼き魚。野菜いため。主人の得意なイワシの削り節の出汁の効いた熱々の味噌汁。
 瀬奈は食べた。あたたかい味。時々は涙の味も混じる。おかみさんも主人も黙って瀬奈が食べるのを見ていてくれた。あたたかい、あたたかい味……。

 やがて店が混んでくると瀬奈は立ち上がった。やっぱりわたしは座ってなんていられない。おかみさんからエプロンと三角巾を借りて盆を持つ。おかみさんはいつもと変わらない様子でうなずいてくれた。いいよ、というように。
 最初は小さい声だったが、すぐに声に張りが戻る。いらっしゃいませ、ご注文は? ありがとうございました、いらっしゃいませ。……客がどんどん入ってくる。

 夕方から夜のにぎわいが少しずつ引いて客がすいて行く。このくらいの時間になると店もほっと一息といった雰囲気に包まれる。それでも店の主人もおかみさんも瀬奈に何も聞こうとはしなかった。いつもと同じような夜。店に満ちたあたたかな匂い。やがて最後の客も店を出て行く。
「さ、疲れたでしょう? 瀬奈ちゃんも座んなさい」
 客のいなくなった店でおかみさんが瀬奈を座らせて甘いカフェオレを出してくれた。
「理奈がね、いつも瀬奈ちゃんのことを話していたんだよ。今、こんな仕事をしているってね。大変だっただろう? でも来てくれた」
 そしておかみさんはふふっと笑った。
「瀬奈ちゃん、きれいになったねえ。でもその格好が一番いいわ」

 ……これ。
 なんでもない無地のエプロンと三角巾。
 わたし、これを着ていつも働いていた……働いていたんだ……。

 生きるために働いていた。余裕もなく何も考えることをしなかった日々。それでも生きるために働いていたんだ。
 生きていたかったから……彼が生きていたから……。

 瀬奈と聡に必要だった長い、長い時間。
 巻き戻されはしなかったが、時は今も過ぎてゆく。

 …………
 帰りたい。
 不意に思いがこみ上げる。胸の奥から波のように押し寄せる思い。

 帰りたい。
 あなたの元へ帰りたい。聡さんの元へ帰りたい……。
 聡さん……聡さん……。

「おかみさん、わたし北海道へ帰ります。わたしを……わたしを待っていてくれる人がいるから。帰ります」
 帰ろう。北海道へ。聡のところへ。帰ろう。
「そうなの。そうだね、それがいいよ」
 瀬奈がうなずくとおかみさんは瀬奈の前から立ち上がった。
「すみません、もう閉店なんです……」
 のれんをしまおうと店の前へ出たおかみさんがそこにいた男へ言いかけてやめた。

「瀬奈ちゃん」
「はい?」
 店の中へ戻ってきたおかみさんが店の戸口を指さす。
 背の高い男が店へ入ってくる。
 スーツを着て、そして聡の手には薔薇の花。透明なセロファンと柔らかな紙に包まれたその花は白い花びらにうっすらとふちどるようなピンク色の薔薇。 聡が見つけた薔薇の花。瀬奈が子どものころに祖父の庭の片隅にまいた、あの……。
「聡さん……」
 およそこの店に似つかわしくない光景だった。薔薇の花を手にした聡の昔と同じ際立った立ち姿。そしてそれを見ているエプロン姿の瀬奈。
 ふたりの見つめあう姿に店の主人もおかみさんも黙ってじっと見ている。

「瀬奈、迎えに来た」
 瀬奈はそっとエプロンをはずした。聡の顔はまるで瀬奈が戻ってくるのが遅いと不平を言いだしそうな顔だった。目が笑っている。
「遅すぎる」
 ほら、やっぱり……。
 手を伸ばし聡の左腕に触れた。不自由になってしまった左腕に。しかし血の通っている生気の感じられるその感覚に瀬奈は身震いして目を閉じると聡が瀬奈を右腕で抱きしめた。
「瀬奈、帰ろう。俺と一緒に帰ろう」

 店のカウンターに残された薔薇の花。今は静かに花びらをほころばす。



 夏の日差しを受けて輝く畑。流れていく雲にはどこかしら秋の気配がする。やがては暗くなり始めた空と道路。畑。木々。
 初めて見るような夕昏の雲の色。その赤みがついに消えて空が藍色に落ち始める。

 瀬奈のふるさと。聡のふるさと。
 ここに根を下ろした人間ではないけれど、ふたりが帰っていく故郷の土地。夕日が沈み、夜が来ても変わらぬ大地があると信じさせてくれる土地。
 今、やっとこの地にふたりは寄り添う。

 聡の髪に瀬奈の手が伸ばされた。その髪は伸びてゆるい癖が目立っていて首筋も陽に焼けている。
「瀬奈」
 聡の首へ抱きつきながら瀬奈は何も答えなかった。何も言えなかった。
「瀬奈」
 風の音がする。ざわめくような森の木立の中にいるような音。夜空を吹く風は瀬奈の体の中をも吹き過ぎていく。

「瀬奈」
 何を言えるだろう。
 横たわるふたりに聞こえる風の音に、夜の暗闇に何を言ってもかき消されてしまうだろう。しかし聡の瀬奈を呼ぶ声はちゃんと聞こえていた。聡の体を通じて聞こえていた。

 胸の奥から響いてくるようなその声。
 なつかしい、けれども初めて聞くような聡の声。肌が触れ合うそのたびに彼の体を通じて言葉が響いてくる。
「瀬奈……」

 瀬奈は目を開けた。
 わたしを呼んでくれている聡さんの声。わたしの名を繰り返し呼ぶ。
「聡……さん」
 聡が笑ったようだった。
 繰り返し瀬奈を呼ぶ聡の声にやっと、やっと答えた瀬奈。
 聡の笑う気配に瀬奈は聡の腕の中でゆっくりとまた目を閉じた。

 花のように……眠る花のように……。
 また聡の腕の中で目を開けるために。今度こそほほ笑むことができるように……。

終わり


2008.11.14
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