花のように笑え 第3章 13

花のように笑え 第3章

目次


13


 瀬奈が目覚めたとき隣に聡の姿はなく、もうすっかり朝になっていた。熱は引いていて頭も痛くない。瀬奈はベッドから出て自分の服を見下ろしていた。上着は脱がされていたがインナーもスカートもしわになって汗臭い。髪も乱れて顔もひどいことになっているに違いない。 手で髪を直しているとノックをして聡が入ってきた。
「起きたか。熱は下がったみたいだな。今、朝食を用意するから」
 そう言って聡はどんどん準備をしだした。部屋のテーブルにパンやチーズや牛乳を置く。湯を入れたポットを置くとインスタントコーヒーを取り出す。 黙って瀬奈は少しずつ食べた。何か話さなくてはと思っていたが義務のように瀬奈は食べた。そんな瀬奈を聡も黙って見ていた。
 朝食が済むと聡は仕事をすると言って支度を始めた。瀬奈には別にどうするのかも聞かずにすぐに支度を終えると出て行ってしまったので、瀬奈は顔を洗い化粧をし直すと服をできるだけ整えて外へ出た。

 屋根だけの建物の作業場で聡は作業していた。作業台の上に奥の納屋らしい建物からポットや箱をいくつも運び出すと、小さな葉の苗をプランターから植え替える作業を始めた。小さな
ポットに土を入れてプランターの苗を移していく。 そんな聡を瀬奈は柱に寄りかかるようにして見ていた。
 背の高い体をかがめるようにして作業をしている聡。それは瀬奈が知っている聡のどんな姿とも似ても似つかないものだった。スーツとロングコートを着て高校生だった瀬奈の前へ現れた聡。AMコンサルティングの社長としての聡もいつもスーツ姿だった。 まっすぐに背を伸ばして背の高い聡の姿。肩を張った堂々としたその立ち姿が瀬奈は好きだった。思い出すのはいつもそんな聡の姿だった。

 聡さん、聡さん、どこにいるの……?
 心の中で何度も、何度も繰り返した言葉。

 聡は黙々と作業を続けている。手を土で汚して作業をする聡は驚くほど変わっていた。もはや若くして社長だったころの面影はない。そして聡の作業を見ているうちに瀬奈は聡の左腕の動きがぎごちないのに気がついた。 聡が苗のポットを並べた箱を移動させるときに左手は箱に添えるようにして右手だけで持っている感じだ。
「聡さんの左腕、まだ……」
「もう治らないよ」

 瀬奈の長い髪を風がかすかに通り過ぎてゆく。手入れのされた自然なブラウンの髪。ふわりと広がり肩をおおう。
 聡がこちら側へ戻ってきた。瀬奈の顔の表情がわかるところまで来ると立ち止まる。瀬奈の顔のまわりをおおう長い髪。陽に焼けていない白い肌に化粧をしてはいるが疲れた表情。その顔だけが日陰の白い花のように浮き上がって見える。

「瀬奈」
 瀬奈は黙ったままだ。
「ここへ帰ってこないか」
 …………
「俺のところへ帰ってこないか」
 ……帰りたい。だけど。
 …………
「どうして何も言わない」
 かすかに聡の声が苛立つ。何も答えない瀬奈に聡はゆっくりと近づいた。
「瀬奈、答えてくれ」

 瀬奈。
 心の動揺のせいで熱が出るほど体が悲鳴を上げているというのに、それでもまだその苦しみを手放そうとしない。まるで諦めているようにさえ見えるやつれた顔。
 聡は手に持っていたバケツを投げ捨てた。

「どうしてだ」
 なぜおまえは……。

「それともあの男が好きなのか?」
「あの男?」
 わけがわからず瀬奈が聞き返す。
「桂木という男だ。恋人みたいに見えたがな」
 聡が右手で自分の左肩を指さした。
「いっそ俺が死んでいたほうがよかったか? そしたら俺に遠慮することもなくて済む。逃げ出してやっと会えたと思ったら今度はあの男か。あの桂木という男はいったい何だ?」
「聡さ……」
「恋人か? 好きなのか?」
「違う!」
「じゃあなぜ俺から逃げた? それなら聞くが東郷のところへ行ったのはなぜだ? なぜ東郷のところへ行った!?」

「なぜ東郷の元へ行った? なぜだ!」
 厳しさを増す聡の声。
 何も、ひと言も言えず瀬奈はただ聡の顔を見るばかりだ。
「俺がいなくなって東郷に乗り替えたのか! あいつの前にその体を投げ出したのか!」
 違う……。
「それは……」
 あなたの会社の社員を助けるためだと、しかし瀬奈は飛び出しそうなその言葉を言えなかった。
「それは何だ? どうして簡単に東郷のところへなんか行った? そんなことをするくらいならなぜ札幌へ帰らなかった?」
 違う……。
「俺がおまえを取り戻すまでにどんな気持ちでいたか! それなのにおまえは、やっと取り戻したと思ったのにおまえはさっさと出て行った」
 違う……違う! 違う! 違う!
「そうして男を渡り歩く、それがおまえの言い訳か。よくもそんなことが言えたものだな!」
 違う……。

「あなたがいなくなって……何も知らなくて、どうしようもなくて。だから、それでもあなたが生きていたから、あなたが生きていると……だから……だから……」

 何を言っているのか聡さんにはわからないのかもしれない。
 かつての聡と瀬奈とのわずか三カ月ほどの生活。それだけがふたりを、いや、瀬奈を聡へ結びつけるものだった。だが瀬奈は東郷のところへ行ってしまった。自分から聡を裏切ってしまったのと同じだ。
 でも、それが「男を渡り歩く」 …… 聡の言葉に立ち尽くす瀬奈はもう一歩も動けなかった。
 そんなふうに言われるなんて。
 やっと東郷から取り戻した瀬奈が逃げ出してしまってそれを聡がどう思っただろう。それを考えないでもなかった。だから心臓をつかまれるような思いでここまで来たのに。
 目の前の聡は怒っていた。瀬奈の理解できない怒りで怒っていた。

 ……帰ろう。
 ここにわたしの居る場所はない。かつてのふたりには永遠に戻れない。
「東京へ帰ります」
 背を向けて歩き出す。

「そうしてまた逃げるのか」


 ……なぜ。

「どうしてそんなことを言われなきゃならないの……」
 ふりむいて手を握り締めたまま聡を睨む。今まで見せたことのない瀬奈の目。
「聡さんにそんなことを言われるなんて……聡さんに……わたしがひとりで放り出されてどんな思いでいたか聡さんは知らないくせに。聡さんがいなくなって何もわからなくて不安でどうしようもなくて。AMコンサルティングが潰れるのだと言われて。 あなたがいなくなったのが無責任だと、あなたのせいだと言われて。会社がつぶれるのも社員が失業するのもわたしがこんなに苦しいのも、みんな、みんなあなたのせいよ」

「わたしが東郷に喜んで抱かれたとでも……そう言いたいのね? わたしが自分の意志で東郷の元へ行ったと、そうよ、自分で行ったわ。AMコンサルティングを救えると思ったからよ。AMの社員を救いたかったからよ。 ……でもそれはみんなあなたがいなくなったせいよ。あなたがいなくなったから……」
 聡がいなくなったのは聡自身のせいじゃないのに。
「どうしていなくなったの。どうしてわたしのところにいてくれなかったの」
 それができなかったことなどわかっているのに。
「どうして籍を入れてなかったの? 結婚しているとわたしに思わせたままで……なぜ……」

 瀬奈の頬が涙で濡れていく。眼は聡を睨んだまま。
「どうして籍を……どうして」
 聡がいなくなったことも会社のことも、そんなことよりもっと許せない事、瀬奈が心の底で許せないのは結婚しているのだと瀬奈に思わせていたことだ。聡はひと言だってそんなことを言ってくれなかった。 あんなに愛し合ったのに! 何度も抱き合って体を結びあって、それなのに。
「愛していると言ってどうしてそんな事ができたの! なぜわたしを抱けたの!」

 許せなかった。
 聡への不信を東郷につけこまれた自分が。
 そして聡が許せなかった。心の奥底で聡への理不尽な思いがわめいている。ずっとずっと見ないふりをして、考えないで目をそらしていたものが。
 声がかすれ、涙で目の前がにじむ。また叫ぼうとして聡の右手で顔をつかまれた。
 殴られる……?

「やっと言ったな」
 な……。
「俺のせいだと。俺が悪いのだと」

 カッと目のくらむような怒りで瀬奈の目の前が白くなった。手を払い聡の頬へ力いっぱい平手打ちをする。
「わかったようなことを言わないで! あなたになにが……」

 じんと手のひらが痛む。
 叩いてしまった。聡を、聡さんを……今までに人を叩いたことなんてない。
 ましてや聡さんを……。

 その瀬奈の手がつかまれた。ぐいと間近に迫った聡の顔。その顔が笑っていた。聡が笑っている。
「そうだ、言うんだよ、瀬奈。俺のせいだと。俺は力及ばなかった。瀬奈と結婚していながら婚姻届を出さなかった。おまえにそれを言わなかった。おまえをひとりで放り出してしまった。なのにどうして俺を責めなかった?」
「あき……ら……」
「俺を責めてくれ。瀬奈を苦しめた俺を責めてくれ。瀬奈……」
 茫然と目を見張り涙で濡れた顔で何も言えず聡の顔を見ていた。やがて瀬奈の体がゆっくりと引き付けられて聡の腕に抱きしめられた。

 ずっとずっと誰かの癒しになっていた瀬奈。誰にも恨みを言わずに生きてきた。子どものころからずっと今まで。
「離して……」
 それでも聡は瀬奈を離さない。
「あなたなんて嫌い。あなたなんて……どうしてすぐに助けに来てくれなかったの……」
「瀬奈」
「どうしていなくなってしまったの……ひとりで怖くて、どうしようも……なくて……わたしは……わたしは……東郷に」
「瀬奈」
 聡のあたたかい唇が触れてくる。瀬奈の唇に。
「……いや……」
 逃れようと顔をそむける。しかし瀬奈が何度顔をそむけても聡は何も言わずやさしく笑ったまま瀬奈の頬に口づけを繰り返す。
「あなたなんて嫌い……」
 なつかしい聡の唇。
「……いや……」
 また瀬奈の唇へ戻ってくる。
「…………」

 聡は瀬奈が嫌いだと言うたびにそれでも瀬奈の頬へキスを繰り返すのをやめない。
 やがては泣くだけになってしまった瀬奈。瀬奈の震えた泣き声がくぐもって聡の胸を振動させる。自分の胸の中で泣く瀬奈を聡はしっかりと抱きしめていた。

 ……ああ、こんな風に泣いたことがある。
 聡へすがって泣いたことがある。ずっと忘れていた……。

 泣いて泣いて疲れ果てて、ついには瀬奈の涙は涸れてしまったようだった。とても喉が痛い。そしてやっと瀬奈が泣きやむと聡はしばらくして瀬奈の顔を上げさせた。
「俺を許さなくてもいいんだ、瀬奈。でも俺は瀬奈を愛している。今までも、これからも」

 ……知っているくせに。
 わたしがたとえ聡さんを憎んだとしても憎み切れないことを。
 わたしが聡さんを愛していることを、聡さんはそれを知っているくせに。
 力なく瀬奈がつぶやく。
「ひどいわ……」
「そうだな。でも待っているよ。瀬奈が帰ってくるのを待っている」


2008.11.14

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