花のように笑え 第2章 10

花のように笑え 第2章

目次


10


「どういうことだ?」
 東郷の冷徹な声に立ったままの男たちが竦(すく)む。

 ホテルの一室。
 豪華な部屋で一見くつろいでいたように見えた東郷がソファーから身を起こした。磨かれた靴の光る足を組み、傲然と目の前の男たちを見ている。
「近藤は始末したんだろうな」
「それはもちろん」
「どうやって」
「それは……」
 男たちがうなだれる。東郷が手にしたグラスを男たちへ投げつけた。ひとりの男の胸に当たって酒が飛び散りグラスが床へ落ちる。

 架空投資話で偽の総合商社役員と偽のAMコンサルティング社員を演じた暴力団員が警察に任意同行で引っ張られたという。
 早すぎる。
 どうしてこうも早く暴力団員の関与が割れたのか。

 森山の死体も見つかってはいなかった。どうも群馬県の山中から遺体かなにか見つかっているようだったが警察からは何の発表もない。が、それはどちらでもよかった。とにかくふたりは死んでいるのだから。 近藤が警察と接触したはずはない。なのになぜ……やはり近藤だろうか。

 いらいらと東郷は舌打ちした。
 近藤はどこかで暴力団の関与を匂わしていたのかもしれない。AMを解雇される前かもしれない。だからこんなにも早く関与した男たちが警察に引っ張られたのだろう。
 暴力団の関与が明らかになればAMの専務が森山の拉致に関わっているのが明らかになるのは時間の問題かもしれない。専務は架空投資には関わっていない。だから暴力団のほうから専務に接近させた。専務は驚いただろう。 架空投資話の本当の犯人のほうから接近されて、外資系証券会社が保険をかけていることを森山に株主総会で発表されたらこちらには都合が悪いのだと言われて。森山が社長でいてもらっては困るのだと。だから失踪させればいいのだと言われて。
 東郷が専務をそそのかしたのはあくまでも会社の業務提携に関する話だけだ。あなたがAMの指揮を取ってくれたら業務提携しよう。……あなたが社長になればいい。ゆくゆくはティー
オールカンパニーのコンサルティング会社の社長にしよう。 それには森山が社長でいる限りは業務提携はあり得ない……。
 だから森山を失踪させるという点で専務には暴力団と利害が一致したと思わせたのだ。専務に合法ではなくても力づくで森山の家も財産も押さえるように差し向けることなど訳もない。東郷の狙いがそこにあることも知らないで。

 AMコンサルティングを潰すだけなら、森山を蹴落とすだけなら、専務を引き入れる必要などなかった。 経営の悪化したAMから社長である森山を辞めさせるのはむしろ簡単だ。瀬奈を手に入れるために計画を変えたのだが、それが裏目に出ているような気がする。

 おもしろくない。
 何かの歯車が狂い始めていた。
 東郷は平静な表面を装って警察の動きを探るように言いつけた。自分のしたことに決して綻びなどないはずだ……。



 いつもは昼間に来ない東郷がふいにやって来て何の前触れもなく瀬奈のいる部屋のドアを開けた。瀬奈は昼の食事を終えたところだったが驚いて東郷を見てしまった。
「…………」
 東郷がじっと瀬奈を見ている。
 何なのだろう。瀬奈は尋ねる気もなくじっと東郷の視線に耐えていたが、東郷は別の部屋へ行ってしまった。どうも着替えをしている様子だった。
 こんなこと今までなかったのに。……どうして。
 しかし東郷は何も言わず背広を替えると出て行ってしまった。

 そんなことが何度か続くようになった。
 東郷は着替えだったり、なにか使用人へ言いつけたりとそんなことをしに来ているのかと思ったが、そうではなく何も言わず不機嫌そうに瀬奈をしばらくじっと見ているのだ。

 瀬奈にはその時間がひどくいたたまれなかった。東郷はまるで瀬奈が屋敷にいることを確認しに来ているようだった。この家から出られなくしているのは東郷なのに。そうして二、三十分して東郷が出て行くと瀬奈は心底ほっとした。

 その日の昼も急に東郷が現われて食事を命じている。 あらかじめ家政婦へ昼食を用意するように言ってあったらしかった。ここへ昼食を食べに来たことなど、これまで一度もなかったのに。
 瀬奈の不審そうな眼の色に気がついたのだろうか、東郷は終始何も言わなかった。食事が運ばれて来ると瀬奈へも食べろと一言だけ命じられる。
 瀬奈を自分の向いへ座らせ時々食べている瀬奈を見ている。瀬奈にとってはあまり落ち着けることではなかった。またこの人はわたしを鑑賞しているのだろうか……?
 瀬奈には東郷がそんなことをする理由がわからなかった。昼間来る東郷の不可解な行動。 今まで東郷が屋敷へ来るのはいつも夜だった。東郷も会社社長なのだから昼間は仕事なのだろう。東郷が瀬奈を連れまわすのも大抵夜だった。この屋敷は東郷の別宅だと言っていたから東郷には別に家があるのに違いない。

 昼食を終えると東郷は1時間したら起こせと言い捨てて寝室へ入ってしまった。瀬奈がしばらくしてそっと中をうかがうと靴も脱がずにベッドで眠っている。
 ……ここへ昼寝に来たのだろうか。
 1時間後に瀬奈が言われたとおりに東郷を起こす。あからさまに不機嫌な顔をして東郷が起き上がった。
「コーヒーを持ってこさせろ」
 瀬奈が家政婦へ伝えてコーヒーが運ばれてきたが急なことなので少し時間がかかった。黙って東郷の前へコーヒーを置くと東郷はいらいらとした手つきでコーヒーを飲んでいたが瀬奈が自分を見ているのに気がついて東郷は音を立ててコーヒーカップを置いた。
「何を見ている? あっちへ行け!……」
 瀬奈が部屋を出る。言う通りにするしかないのだから。

 東郷の不機嫌は抑えきれないようだった。
 瀬奈は黙ってそんな様子を見ていた。年配の女性家政婦も東郷の前では何かしらおどおどとするようになっていた。瀬奈は彼女に東郷が来たらすぐにコーヒーや軽食を用意しておくようにと言っておいた。
「はい……」
 年配の女性家政婦は何か不可解な顔つきで返事をしていた。屋敷には使用人のほかガードマンのような男たちが何人もいたが、女性はこの家政婦ひとりだけだった。瀬奈には屋敷の中での日常生活の自由が認められているのに過ぎない。 東郷の機嫌を取りたいわけではなく、ただ目の前で不機嫌にされているのが嫌だった。

「酒を用意させろ」
 部屋にはすでに酒が用意されていた。瀬奈があらかじめ家政婦に言って用意させていたものだ。
「ふ…ん。気が利くな。もう俺が怖くはないようだな」
 瀬奈がわずかに顔をそむける。
 来るたびに果てしなく続く東郷の皮肉にそうするしかなかった。しかしそれを見た東郷が瀬奈の手をつかんで引き寄せる。瀬奈の瞳の色をのぞきこむ。

 ……なぜだ?
 もう諦めたように見えるのに、言いなりに見えるのに、瀬奈のふとした態度が東郷を苛立たせる。美しくはあったが無表情な瀬奈の顔。
 こんなにいろいろなものを与えているにもかかわらず瀬奈の目には卑しい物欲しさがない。東郷の好む贅沢さはいつでも女たちを夢中にさせていた。美しい女たちが宝石やドレスのように美しいものに同化していく。美しい「物」になっていく。
 それを見るのは東郷にとっては楽しみでもあった。自分の思う通りになる美しい「物」たち。瀬奈もそんな物のひとつのはずだった。もう手に入れてしまったのだから興味がなくなっても
よかった。
「苦労して手に入れたのだから慌てることもあるまい……」
 女など皆、同じだと思っていた。瀬奈も同じだ。

 しかし瀬奈に限ってはその無表情さが気にさわる。
 森山へ見せていたような笑顔を見せてみろ! 森山の前でしていた少女のような顔を見せてみろ!  どうして笑わない……。
 瀬奈が自分から笑うわけなどないとわかっている。そうさせているのだから。

 俺に命じられて笑えばいい。
「笑え」
 瀬奈の瞳が揺れる。その動揺さえもが気にさわる。
「笑え」
 翳った暗い泉のような瀬奈の瞳。あきらめたように少し頬を動かす。
 わずかに、ほんのわずかに瀬奈の頬がほほ笑む。

 目の前の瀬奈の顔に一瞬、見惚れた。花が冷たい風に花びらを震わせるような、かすかなほほ笑み。かすかなほほ笑みに見惚れた。

「それでいい」
 それでいいんだ。


2008.07.17

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