窓に降る雪 8

窓に降る雪

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 高宮は自宅の書斎のテーブルの前で携帯電話の時刻表示へ目をやった。夜の11時。三生から電話が来るとしてもせいぜい8時頃までだったからもう電話はこないだろう。寮では深夜の電話は禁止されているという。
 この前、箱根へ行ったときに高宮は自分が社長になったいきさつを三生に話してしまったことをひそかに驚いていた。三生と言葉を交わすようになってまだ数えるほどしか会っていないのにもかかわらずどうして彼女に話してしまったのだろう。 別に秘密でも何でもなかったがプライベートなことには違いない。
「本気でまいっているな、彼女に」
 中学生だった三生を見た時からいつか本気になるだろうという予感はあった。まさかそれがこんなにも早いとは。 あのS市での演劇祭へ行ったのは高宮がスポンサーになってやらせているT企画の若林が発掘して来た三枝尋香を見るためだった。
 若林はノリは軽いところがあったが若手を見つけ出す目は確かだった。大学卒業後、他のプロダクションで働いていた若林を引っ張ってT企画を作らせたのは高宮だ。白広社は伝統的に一流企業や官庁の広告や広報の仕事が多かったが、それは堅実で固いイメージで確かに 会社としてはそういう仕事が得手だったが反して映画や芸能関係といった方面にいささか弱い。芸能関係はもちろん最近ではインターネット、IT関連など先端をいく事業に乗り遅れるわけにはいかなかった。この点では若い高宮が社長として積極的に事業を進めているのはプラスだった。 インターネット部門もクリエイティブな部門も何年も前から強化している。
 しかしそれとは全く別に個人的にスポンサーをしている芸能プロダクションのT企画は高宮にとっては有望な若手タレントや俳優などを発掘して育てていく、いわば白広社の弱い芸能関係になんらかの形で役に立つだろうという見込みもあったが、若林と一緒にする仕事は高宮に
とっては息抜き的な楽しさもあった。 採算的にはまだまだだったが若林はすでに人気のタレントを育てていて、売り出し中や慎重に育てている若い子も何人かいた。そのひとりが尋香でそれまで高宮は尋香に会ったことはなかったが、彼女の車のCMは印象的だった。たった2秒ほどのショットが効いていた。 だから若林に誘われてS市の演劇祭へ行く気になったのだ。

 市内の中学や高校の演劇部の劇は面白くはなかったが、若林に言わせるとごく稀に驚くような素材がころがっているという。確かにその通りだった。尋香と一緒に劇に出ている三生を見ていて高宮は一発でダイヤモンドの鉱脈を掘り当ててしまったような気がしていた。
 演技は下手だった。高宮から見ても三生は中学、高校の演劇部レベルだった。しかしすでに強い個性を放っている三枝尋香と一緒にいるのにかすんでいないのだ。演技は未熟でも尋香と対等な感じがあって、強烈ではないが静かで存在を感じさせる個性。そんな感じだった。
 あとから若林から尋香を通じて三生自身は演劇や芸能関係にはまったく興味もやる気もないということを聞いて本人にその気がないならと高宮は思ったが、むしろその方が三生にはふさわしいような気もした。
 それからずっと、そう、T企画の前で偶然尋香と一緒に歩いていた三生を車の中から見かけた時もすぐに三生だと気がついた。若林へ何とか三生を連れて来いと言ったのも、若林は三生をスカウトするためだと思ったらしいが、そうではなかった。ただ彼女に会いたかった。その静かな存在を確かめたかった。
 実際に会ってみると三生の背の高いすらりとした姿、整った顔としっかりした態度という外見にもかかわらず彼女には柔らかな雰囲気が感じられた。それは彼女と話をするほど確かに感じられる。時期を見て本気で彼女を祖父へ会わせたいと考えていた。

 成城に行った日、祖父は頭取の娘との縁談はそれ以上雄一に無理強いはしなかった。 しかし雄一は祖父の家から帰りながら不愉快な気分になるのを抑えられなかった。J銀行の頭取のやり方は銀行マンとは思えないほど強引で、雄一が断った話を会長である祖父のところへ持っていく神経がわからなかった。
「あの頭取、何を考えているのだろう」
 次に中村頭取とは会食をする機会を作って高宮はもう一度はっきりと断りをいれたのだが。
「いやあ、私も娘も諦めきれんのですよ、高宮さん。娘もあなたのことをひどく気に入ってましてね。どうしても会長に正式に申し込みをしたかったのですよ。まあ、諦めませんから。あなたの気が変わるのをお待ちしていますよ」
 その後もことあるごとに中村は娘の事を持ち出した。まるで高宮に気に入られようとしているようだった。うっとうしく思いながらも高宮ははっきりと断ったのだからと中村頭取の思惑をそれ以上追及することはしなかった。


 夏休みになり三生は家でのんびりする間を惜しんで家事をしていた。 たまっていた父の洗濯物やシーツや布団カバーを洗い、布団を陽にあてる。汗をかきながら家じゅうを掃除して買い物や食事の用意に忙しい。
「お父さん、お昼、なにがいい?」
「あ? なんでもいいよ」
 一応父に聞くが、書いている時の父は生返事なので仕事をしながらでも食べやすいものを用意して書斎へ持って行き、三生はひとりで食べることにしている。父は文学賞を受賞して以来忙しくて、インタビューや対談といった取材関係はほとんど断っていても 執筆依頼がたくさん来ているにもかかわらず時間がとれない。夜に仕事をして昼間は寝ていることも多い。
 父のことは置いておいて自分のペースで家事を片づけると三生は一息ついた。まだ夏休みは始まったばかりだ。大学へ進学希望だったからもちろん遊んでいられないことはわかっていたが、あることに気がついて三生はぱっと立ちあがると電話の子機を持って自分の部屋で電話をかけた。
「もしもし、三生です」
『あれ三生、こんな時間にかけてくるなんて珍しいね』
 高宮の声。
「昨日から夏休みで家に帰って来ているんです」
『あ、そうか。夏休みか。忘れていたよ、ごめん。でも君が家にいるあいだは私から電話をしてもかまわないってことかな』
「うん、父は電話が鳴ってもなかなか出ないから、わたしがいるときは特に。前にわたしがいないときに出版社の人が困って電報を打ってきたくらいだもの」
『そうなの。ところで夜は出られるの?』
「あまり遅くならなければ」
『大丈夫、明日は土曜日だから午後は早く終わって迎えに行くよ』

 しかし父に明日の夕方は出かけることを告げると意外にも返事を渋った。
「ついこの間、雑誌の記者から取材の申し込みがあった。どうやらおまえが受賞パーティーの時にホテルで会ったあの記者のようだ。断ったがね。またおまえにも近づいてくるかもしれない」
 父には図書館でもそれらしい男を見かけたことを話していなかったことに気がついたが三生は正直に言った。
「高宮さんと約束したんです」
「え? 高宮? ああ、白広社の。そうか、おまえつきあっていたのか。まあそれなら心配ないか。いいよ、行っておいで。ただし記者に気をつけて」
 父は高校生の娘がはるかに年上の男とつきあっているのにそのことは何も言わなかった。もともと父はそういう人なのだと三生にはわかっていたが、気をつけるのは記者だけじゃなくて高宮さんにもって本当は言いたいんじゃないかなあと思うと複雑だった。
 記者のことは引っかかったが、しかし高宮と会えるうれしさに三生は彼と会うことを優先してしまった。父も彼と一緒なら心配ないと言っていたし大丈夫だろう。

 高宮はいつものシルバーのセダンで迎えに来てくれたがスーツのままだった。グレーぽい
ベージュの夏のスーツ。三生の視線に気がついて高宮が言う。
「着替える時間がもったいなくて。悪いね」
「ううん、スーツってかっこいいからかまわないよ。わたしは好き」
「それは背広が好きってこと?」
「そうです」
「なあんだ、がっかりだなあ」
 高宮は笑った。三生の言葉に高宮が笑ってくれるのがうれしい。
「中身がすてきだからスーツが似合うんだよ」
「それを先に言って欲しいな」
 食事をしてまた車に乗る。
「ちょっといいですか?」
 三生が行き先を言う。車が山の上に向かう道路を走りはじめた。
「何かあるの?」
「何にもないんだけど、前に父に一度だけ連れてきてもらったことがあるんです。あ、その先の左側に駐車場があります」
 山の中腹に数台が停められる駐車スペースがあり、ちょっとした展望台のようになっている。
「もう始まっているはずだけど」
 そう三生が言ってフロントガラスを指さした。やがてフロントガラスの向こうからは打ち上げ花火が見え始めた。離れているせいか車の中では花火の音は聞こえない。
「花火か。よく見えるね」
 高宮が上着を脱いで車を降りるのを三生は見とれてしまった。ワイシャツからうかがえる張りのある上半身とベルトを締めた引き締まった腰が三生から見てもどきっとするほど魅力があった。 車はライトもエンジンも切ったので遠くで鳴るドーンという花火の音が聞こえてきた。蒸し暑かったが少し風がある。三生も車の前に立った。
「ちょっと離れているけど」
「いや、よく見えるね。いいポイントだ」
「でしょう? 打ち上げ会場はすごく混んでいるんだけど、ここなら」
 高宮が花火を見ているその横顔を三生は見た。無駄のないすっきりとした横顔。
「あなたが好き」
 三生は心の中で言ったのだがそれに気がついたように高宮が三生の顔を見た。暗い中で時々弱い花火の光に照らされる。 三生が高宮の手の中に手を入れると高宮もしっかりと握り返してくれた。
「あなたが好き」
 心を決めて今度は声に出して言ってみた。三生の心臓がばくばくいっている。
「私もだ。君からのその言葉を待っていたよ」
 高宮がやさしく三生の顔に手をかけた。
 三生はもう花火どころではなかった。高宮の顔が近付いてきて目をとじてしまう。彼の唇が触れる感覚がした。初めてのキス。唇が離れると肩へ腕がまわされて抱き寄せられた。夏の夜の空気の中で高宮の体温が感じられる。
 いつのまにこんなに彼のことが好きになっていたのだろう。三生が暗く翳った彼の顔を見ても影になった彼の表情は読み取れなかったが、きっとほほ笑んでいるのに違いない。 そっとまた高宮の唇が重なってきてさっきよりも落ち着いて高宮の唇のあたたかく柔らかい感じがわかる。
 しかし遠くで道路を走ってくる車の気配がして三生はあわてて高宮から離れた。ふたりは車の中へ戻ると座った三生の手に自然に高宮の手が重なる。
「君が夏休みの間はもっと会おう。会えない日は電話をするよ。毎日だ」
 三生はうなずいた。


2007.09.17

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