副社長とわたし 29
副社長とわたし
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「稲葉」
「はい」
「悪いがドアを開けておいてくれ」
向かいのトーセイ飼料の部屋はドアが開けっぱなしで、瑞穂がまた部屋と給湯室とを行ったり来たりしている。今、持って行った大きな白い板はまな板か?
やがて瑞穂と三上が手押しの台車に乗せて大きな白い発泡スチロールの箱を運んできた。
あれって、なんだ?
金田所長が箱のひとつを持ち上げている。
「さすが石上水産のオヤジだな! ワサビやツマも一緒に入れてある」と、大きな声で言うとその箱を給湯室へ運んで行った。
営業所の部屋では瑞穂が丸い大きな皿を何枚も出している。そんなもの、あったのか。その皿を持って出て行く。
…………?
「所長、お皿、置いておきます」
「ありがとう。じゃあ手伝い頼むね」
「はい」
わたしが金田さんを手伝い始めた時だった。
「瑞穂ちゃん」
「はい」
金田さんが手を動かしながら言った。
「さっき常盤副社長が見ていたね」
「……はい」
「常盤さんとはあれから何か話したの?」
「……いいえ、まだ」
「どういう返事をするかは瑞穂ちゃん次第だけど、私は瑞穂ちゃんがちゃんと考えて返事をすると思っているからね。瑞穂ちゃんがいいと思う返事をするんだよ」
金田さん。
今度は手を止めてわたしを見ている。
「あの人もきっと返事を待っていると思うよ」
「はい……」
しばらくして。
金田所長がさっきの皿を掲げ持って戻って来た。ドアのところでそれを迎えた瑞穂と三上が拍手をしてわあっと歓声を上げている。
「所長、俺のとっておきの刺身醤油です! この日のためにネットで取り寄せておきました」
「きゃー、三上さん、さすがー」
うれしそうに笑う瑞穂。そんな顔って……。い、いや、なにを考えているんだ、俺は。
すると瑞穂が皿の一枚を持ってこちらへやってきた。大きな皿を持ったまま開けてあるドアから顔を出した。
「失礼します。副社長、今、お時間少しよろしいでしょうか」
「あ、ああ、いいけど?」
「さきほどはどうもありがとうございました。これ、さっき受け取ったものです。うちの取引先から送られてきたものですけど」
どんと置かれた皿の上には刺身。それも料亭や料理屋で見るようにきれいに盛り付けされたものだった。
「うちのエサを使って養殖された鯛(タイ)です。養殖物では日本一と言っていいですよ。味は天然物に負けません。通年を通して安定している品質からいえば天然物以上です。よろしかったら召しあがってみてください」
そう言って瑞穂がさっと小皿と醤油差しと割り箸を置いた。
「お味はどうですか?」
一切れ、刺身を口へ運んだ。瑞穂は真剣に俺の顔をのぞき込むようにしている。
「美味しい……」
「わ、よかった。そう言っていただけると金田所長も喜びます。金田所長は調理師免許も持っていて定年退職後は自分のお店を持ちたいって言っているほど腕は本格的なんですよ」
「へえ、金田所長が。本当に美味しいよ。あとで私からも所長にそう言っておこう」
「ありがとうございます」
ぺこりと頭を下げた瑞穂の、それがかわいい。
「あの……」
「うん、なに?」
少し困ったような顔の瑞穂だったが、いや、困っているのではなくて。
「わたし、仕事を辞めたくないです。少なくとも金田所長が定年になるまでは一緒に仕事がしたいんです。それでもいいですか」
「もちろん、瑞穂がそうしたいのなら。僕も瑞穂のためには出来るだけのことをするよ」
「ありがとうございます」
生真面目に頭を下げたが、それも瑞穂らしい。
「じゃあ、OKと思っていいのかな」
「はい」
「ありがとう、瑞穂。プロポーズ受けてくれて」
「えっ!」
驚いたのはそばにいた稲葉だった。
「副社長、それは」
「そういうことだ、稲葉」
「は……あ」
稲葉に顔を見られて瑞穂が恥ずかしそうに頬を染めている。
「あの、それじゃ、どうぞ稲葉さんも召し上がってください。浅川さんにもお持ちしますので」
「あ、いや、私は」
稲葉が言いかけたが。
「稲葉さん、魚、嫌いですか? 嫌いじゃない、じゃあ、ぜひ食べてみてください。美味しいですよ。養殖物だからって馬鹿にしちゃいけません。なんてったってうちのエサを使っていますからね」
「いや、でも」
「あ、今、お茶をお持ちしますから。それからお持ち帰り用も用意してありますので、帰りに給湯室の冷蔵庫から持っていってくださいね。全部、所長がさばきましたので」
「あの……」
そう言った瑞穂がまたぺこりとお辞儀をして部屋から出ていった。
「まあ、稲葉。そこへ座って食べたらどうだ。うまいぞ」
「……はい。では」
部屋の中の応接用セットのほうを示してやると稲葉はそちらへ座って食べ始めた。なにを考えているのかわからないような不可解な顔つきだったが。
「どうだ?」
「確かに美味しいですね」
「だったらもっとうまそうな顔をしろ。せっかくのトーセイ飼料さんの心遣いだ」
「はあ」
あとはこのシンクを拭くだけ。給湯室の流しにウロコ一枚残っていないようにわたしは念入りに洗って流した。汚れが残っていないかどうか、シンクを斜めに見ていた時だった。
「瑞穂」
「え、あ、常盤さん!」
「瑞穂、手伝うよ。僕にも手伝わせて」
「えっ、そんな、いいです、もう終わりまし……」
言い終わらないうちに後ろから抱きしめられていた。わたしは濡れた手でスポンジを持ったまま孝一郎さんに腕を回されていた。ふわりと孝一郎さんの香りに包まれる。
「ちょっ……、濡れてしまいます」
スポンジが孝一郎さんの手で取り上げられて置かれた。同時に耳にささやかれる孝一郎さんの声。
「冷たい。手が冷え切っている」
向き直った彼に抱き直されてそのまま唇が降ってくる。彼の、孝一郎さんの唇が。
「あ……」
あたたかい唇。
ずっと待っていたかのように孝一郎さんの唇がわたしの唇を開いた。水で濡れたままのわたしの手を握って孝一郎さんは自分の胸に押しつけている。
「ここが終わったら帰れる? 一緒に帰ろう。今夜はもう帰さないからね」
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