副社長とわたし 5

副社長とわたし

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 新しいオフィスでの二日目の朝、わたしは最上階まで上がる勇気がなくて金田さんが出社してくるのを待って一緒にエレベーターへ乗った。金田さんが最上階のボタンを押しただけで乗り合わせた人たちから視線が集まった。今日は金田さんがいるからいいけど、明日からどうなるの?
 すでに心の中で泣きが入っていたが、最上階はしんと静かだった。あの美形副社長はまだ来ていないのだろうか。もしかして重役出勤ってやつ?
 ちょっとほっとしたところで三上さんもすぐに出社してきて、わたしたちは三人で今日からの仕事の確認をした。
「私と三上は今日から三日間は得意先回り。訪問先と泊るところは予定表に書いてあるから。定期連絡は入れるけれど携帯が通じない時はいつもどおりにね。みーちゃん、今月は月末報告が大変だろうけどがんばって」
「はい、いってらっしゃい」
 お茶も飲まずにすぐに出かけて行く金田さんと三上さんだったが、ふたりが出かけてしまった後はわたしはひとりでこのオフィスで仕事をしなければならない。

 わたしは同じフロアの秘書室へ行き、改めて挨拶をした。秘書室は予想に反して昨日の綺麗な秘書のお姉さんがいるだけだった。もっと人がいるかと思ったのに、このフロアは社長室があるのになんだか人が少なくて、一流企業の重役室ってこんなに静かなの? って思った。それは社長やあの副社長がまだ来ていないからだろうか。
「給湯室はこちらです。トーセイ飼料さんはなにか置くものがあるかしら?」
「いいえ、ポットや湯飲みなどは私たちの部屋に置きますので。あ、毎日のお掃除はわたしがやります」
「あら、そんなに気をつかってくれなくても大丈夫ですよ。ここはお掃除の人が毎日来てくれるから」
 そう言ってにっこりとほほ笑んだ秘書の浅川さんは黒いスーツに白いブラウス、自然な色のマニキュアをした手の指はほっそりととてもきれいで、左手の薬指には結婚指輪らしい指輪がはまっている。同じスーツでも就活スーツみたいな服を着ているわたしとはずいぶん違う。そして浅川さんはアクセサリーはイヤリングだけをつけている。そうか、こういう上品なイヤリングをつけていると、とても『きちんと感』があるのね。わたしも真似させてもらおう。

「おはよう」
 不意に給湯室の出入り口から声が聞こえて、わっ! その声は、あの……。

 常盤副社長。
 
「おはようございます」
 あれ? 答えたのはわたしだけ。浅川さんは? わたしが挨拶したのに合わせて会釈しただけ。
「浅川さん、さっきの予定のことだけど」
「はい、すぐにお部屋へうかがいます」
「うん、頼むね」
 打ち合わせの続きを話すかのように浅川さんにそう言うと常盤副社長がこちらを向いてにこっとした。目線はわたしに。……わたし?!

 わ、笑ったほうがいいのかな? この場合。
 そんなわたしの中途半端な笑いは、にへらっとした笑いになってしまったのに常盤副社長はほほ笑みのまま廊下へ戻って行った。ほほ笑みの貴公子ってのがここにもいたんだ……。
 それに、さっきの「おはよう」もわたしへ言ってくれたんだ。まだ来ていないかと思っていたら、もう来ていたのね。

 給湯室から営業所の部屋へ戻ると向かいの副社長室には浅川さん、それからあの稲葉さんもいた。稲葉さんも副社長付きの秘書だそうで。さっきはブラインドが閉じられていて気がつかなかった。
 それにしても美形っていうのはいつ見ても美形なのね。今日もスーツが決まっていて、さっきの後ろ姿なんて襟にかかっている髪はさらっとツヤがあって……いやーん、男のくせに髪がきれいだなんて、許せなーい。
 なんて萌えしている場合じゃなくて。

 やっぱりあの人は違う世界の人なのであって、わたしたちがこのフロアの一室を使わせてもらうようになったのは成り行きでこうなっただけ。どこにいてもわたしはしっかり仕事をしなきゃ。引越ししたからいつもの仕事ができませんでしたなんて言い訳け、通じないよね。

 その後はひとりで仕事をしながら、お昼は会社へ来る途中で買ってきたお弁当を食べた。もちろん自分のデスクで。この会社に社員食堂があったとしても、外へランチに出かけるとしても、そんなことはまだわたしには怖くてできない。知り合いはひとりもいないし、ビルの周りがどんな様子なのかもよくわからない。 それに、ひとりでこの部屋で仕事をするぶんには外の部屋のことは関係ないって感じだとわかったし。
 むこうはきっと副社長ともなれば忙しいんだよね、いろいろな意味で。何人かの人が出入りしている様子だったけど、こっちへはなにも言ってこないし。ああ、よかった。


 最初のうちは慣れない環境にびくついていたけれど仕事は待ってくれないし、二、三日もすると仕事も落ち着いてきた。
 ただ、わたしは引っ越し後のあれこれや備品のことで三光製薬の総務や業務部のビル管理部門に何度も行く必要があり、それが結構、嫌。
 ビルの中にはざっと見ただけでも三光製薬の営業の一課から五課までそれぞれのフロアがあり、トータルヘルスライフ事業部という部署や開発研究統括事業部というのもある。それから人事部や総務部といった部署もあり、それらとは別に子会社もいくつも入っている。ビルのフロアごとの表示はそれらの会社の名前でびっしりと埋められていて、覚えるだけでも大変そうだ。慣れてくると女性社員でも営業職らしい人は私服、というかスーツなのだとわかった。 秘書の浅川さんも制服ではなくてスーツだし、わたしも及ばずながらスーツだ。だってうちの会社には本社の女性社員には制服があるけれど関東営業所にはない。わたしひとりだけだったから私服勤務で良いということで今までは適当な服を着て仕事していたけど、東京のこのビルではさすがにそれはまずいでしょうということで、わたしは上京前にあわててオフィス用のスーツを買い足した。浅川さんのようなブランド物らしいスーツではないけれど、でも、わたしってスーツがいまいち似合わない? それとも就活スーツみたいで浮いているのだろうか。朝、出社してエレベーターへ乗って最上階のボタンを押すたびに違和感を感じる。

 ……この人、営業? まさか秘書の新しい人? どう見てもそうは見えないけど?
 ……おねーちゃん、最上階がどんなところかわかっているのかねえ?

 そんな言葉が聞こえてきそうな、乗り合わせた人たちの視線を感じる。途中の階で次々にエレベーターから降りていく人たちに対して、最後まで乗っているのはわたしだけだ。
 ああ、嫌だ。階段マラソンで上がりたいくらいだわ……。

 最初の一週間はとにかくエレベーターが嫌だった。でも一週間もするころには、わたしはやっと平気なふりをして乗れるようになっていた。
 やっと慣れてきたエレベーター。もう平気、なんて思っていた。あの常盤副社長に手を差し出されるまでは。


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