副社長とわたし 奥様、お手をどうぞ 10

奥様、お手をどうぞ

目次


10


 翌日は浅川さんが元気な顔を見せてくれたので、わたしはうれしくて飛び上がりたいような気持
だった。
「浅川さん、大丈夫ですか。気分は」
「瑞穂さん、心配かけてごめんね」
 浅川さんはいつもと同じシックなスーツ姿だった。まだ見た目は全然変わらない。顔色も良くて元気そうだ。
「早退した日はそんなに気分は悪くはなかったんだけど、稲葉が心配しちゃって。来週くらいに病院へ行こうと思っていたのだけど、昨日診察を受けたらやっぱりそうだったわ。予定日は来年の3月15日よ」
「3月! おめでとうございます、楽しみですね」
「ありがとう、瑞穂さん」
 にっこりと笑った浅川さんの顔が今日は一段と綺麗だ。
「あ、でも」
 ここはいつもの給湯室で、今朝はまだ賀川さんを見かけてないけど、大丈夫なんだろうか。
だって、その……。
 わたしが副社長室のほうを気にしたのが浅川さんにもわかったようだった。
「三光アメリカの賀川さんでしょ」
 うわ、浅川さん、いきなり核心にきたよ。
「大丈夫よ。賀川さんのことはわたしも知っている。結婚前に稲葉に吐かせておいたから。全然関係ない人ならともかく三光アメリカの人なら会う可能性だってあるでしょ。知っているに越したことはないものね」
 浅川さんもちらりと廊下のほうを見た。
「稲葉はわたしにまいっているから、賀川さんが今更どうかしようなんて思っても無駄だわ。賀川さんだって人のものに手を出すような人じゃない」
「うわー、浅川さん、稲葉さんがまいっているって……」
 聞いているこっちが恥ずかしくなっちゃう。
「稲葉はわたしが狙って落としたんだから、当然よ」
 そう言って浅川さんは自信ありげにほほ笑んだ。
 つ、強い。浅川さん、強いです。母は強しっていうけど、浅川さんの自信は女は強し、だわ。
「しょうもないことをしゃべるな」
 不意に背後に冷気を感じて、っていうのは嘘だけど、聞こえてきた稲葉さんのブリザード並みに冷たい声にわたしのほうが固まってしまいそうだった。
「あら、ごめんなさい。聞こえてた?」
 全然気にしてない浅川さんの声に稲葉さんが渋い顔をしながら給湯室の前を通り過ぎた。会社では浅川さんとも仕事口調で話す稲葉さんの普通の話し方は滅多に聞けない。
「それよりも瑞穂さんは大丈夫なの? 賀川さんにいろいろ言われたんですって? 稲葉が瑞穂さんはびしっと言い返したって言ってたけど」
「いえ、わたしもつい言ってしまって」
「言ってよかったのよ。賀川さんは自分がずばずば言う人だし、同性には厳しいっていう評判だけど、はっきり言わなきゃアメリカ思考の人にはわからないわよ。でも、常盤課長に対しても失礼よね。瑞穂さんにあんなこと言うなんて。課長、怒っていなかった?」
「はあ、まあ……」
 浅川さんに逆に心配されてしまった。
「今日、賀川さんと話をするって言ってました」
「そうよね。常盤課長にしてみたら当然よね」



「……あのう、もしかして怒ってる?」
 ゆうべ、夕食を済ませてからマンションへ帰って、それまではいつも通りだった孝一郎さんがずっと黙っていた。顔は怒ってないけど、でも、なんとなく。
 孝一郎さんは賀川さんとわたしがどういうことを話していたか稲葉さんから聞いていたみたいだった。
「賀川さんのこと? 怒っているよ」
 ソファーに座った孝一郎さんがやや不機嫌そうに言った。やっぱり。
「ごめんなさい……」
「どうして瑞穂が謝るの」
 孝一郎さんが立っているわたしを見上げていた。そっと両手を取られた。
「瑞穂に対して怒っているわけじゃない。賀川さんには明日、話しをさせてもらうけどね」
「え、でも」
 言いかけたら孝一郎さんは手を伸ばしてわたし唇に人差し指を当てて止めた。
「賀川さんがどういうつもりで瑞穂にあんなことを言ったのか、聞いてみる。俺がアメリカに行く気がないからって瑞穂にあれこれ言うのは筋違いだ」
 孝一郎さんの顔は平静だったけれど、やっぱり内心は怒っている顔だった。こんな顔を見るのは初めてかもしれない。
「でも、わたしも言い返したし、それに賀川さんは……」

 自分の仕事が馬鹿馬鹿しくなることって、ない?
 コマネズミみたいにあれこれ働かされているだけじゃもったいないって、思わない?

 賀川さんに言われたことが不快に感じなかったわけじゃない。でも、非難されたというよりは賀川さんはわたしのことを歯がゆく思っているような口ぶりだった
 わたしだって自分の仕事が雑用的な仕事から事務や営業の補助までぜんぶひっくるめてやっているって思うことはある。それを嫌だと思ったことはないけれど、賀川さんは黙っていられなかったのかもしれない。確かに賀川さんは無駄な仕事じゃなくてもっと違う働き方があるんだって感じさせてくれるような人だ。わたしとはいろいろと違いすぎて比べられないけど。
「瑞穂」
 孝一郎さんはじっとわたしを見上げていた。わたしの両手を取ったまま。そのまま手が引かれて自然に彼の胸に抱かれた。孝一郎さんの手がやさしくわたしの頭をなでている。わたしなら大丈夫だよと答える代わりににこっと笑いかけたら孝一郎さんも笑った。彼の笑顔がちょっと心配しているふうで、でもとっても温かくて……。



「はいはい、瑞穂さん、ごちそうさま。やっぱり新婚はいいわねえー。それじゃゆうべはラブラブだったのかな?」
 わたしが昨夜のことを話したら浅川さんが盛大な笑顔で笑いながらそう言った。
「そんなことありません。ゆうべは早く寝て……って、なんてこと言わせるんですか。そういう浅川さんだってラブラブじゃないですか」
「そうよー、悪い?」
 わたしに合わせてくれるように浅川さんがテンション高く答えてくれた。
「わたしもがんばるから、瑞穂さんもがんばって」
 そう言って浅川さんがガッツポーズをして見せた。わたしも小さくガッツポーズを返した。浅川さんこそいろいろ不安もある時期なのにちっともそれを感じさせない。

 わたしが営業所でいつものように仕事を始めてしばらくすると賀川さんと真鍋副社長が来ていた。賀川さんは真鍋さんと話をしたりしていたけど、もちろんなにを話しているのかはわからない。わたしは月末の仕事を金田さんたちが出張から帰ってきたらすぐに片付けられるように準備しておかなければならないし、金田さんから電話が入って今日の訪問先や帰社時間などの予定を確認して仕事の指示ももらった。 来週月曜日に退職の当日を迎える金田さんにとって実質的な勤務は今日までで、しかも月末が重なってしまっている。金田さんたちが戻ってくるまでにいろいろとやることがあって、漏れがないようにやるべきことの一覧を作ってチェックしながら孝一郎さんが副社長室に現れるまでわたしは仕事に集中していた。
 孝一郎さんが副社長室に入る前にわたしを見て、それがいつもと変わらない様子なのに少し安心してわたしも目で答えた。今日はわたしが忙しいのを知っている孝一郎さんは同席しろとは言わなかったけど、でもやっぱり気になる。こんなときは目の前が副社長室だっていうことが恨めしく思える。それでもやはりわたしは仕事を続けるしかなかった。不意に大きな音でノックの音がするまでは。

「なんだ、孝一郎は副社長室で話をしているのか」
「あ、お義父とうさん」
 言いながら入ってきたのは孝一郎さんのお父さん、常盤社長だった。稲葉さんに聞いたところによるとお義父さんはヨーロッパの医療研究機関を訪問していて昨日帰ってきたそうだ。会社でも私のことは『おとうさん』と呼んで欲しいというのは常盤社長の申し付けだ。もちろん差し支えのない場面でだけだけど、『社長』でも『おとうさま』でもなく『おとうさん』と呼んで欲しいというのだ。
「ご出張、お疲れさまでした」
「なに、疲れてなんかおらんよ」
 言葉通り顔色の良いお義父さんが張りのある声で答えた。
「金田所長はまだ戻らないのかね」
「はい、申し訳ありません。予定では午後一時までに戻ることになっているのですが」
 まだ昼前だった。
「いや、いいんだよ。私が勝手に来ただけだ。今日は三光アメリカの人間と話をすることになっていたんだが、孝一郎に先に話をさせてくれって割り込まれたんだ。あいつは総務課長になったくせにそういうところは遠慮がないな、まったく。ああ、いいよ、岡崎。ここで孝一郎の話しが終わるのを待たせてもらう」
 お義父さんはそう言って社長秘書の岡崎さんを戻らせた。三光アメリカの人、それは賀川さんにほかならない。岡崎さんがお義父さんの前にある小さな打ち合わせ用のテーブルに箱を置いて営業所を出ていくとお義父さんは悠然とその箱をわたしに渡してくださった。
「これは瑞穂さんへの土産だ。スペインの菓子だよ。あとで食べなさい。私には茶をもらえるかね」
「はい、ありがとうございます。いただきます」
 お義父さんへお茶をお出しするために給湯室へ行って、すぐに戻ってくると副社長室のドアが開いた。お義父さんに気を取られていて副社長室のほうは見ていなかったけれど、もう話しが終わったのだろうか。そう思ったら出てきたのは賀川さんだった。
「あら、瑞穂さん、ちょうどいいわ」
「賀川さん、待ってくださいと言っているでしょう」
 すぐに孝一郎さんが追いつくように出てきた。え、なに?
「勝手にそんなことをしないでください」
「あら、孝一郎が話を止めるの。横暴ね」
 賀川さんに言われて孝一郎さんが思いきり嫌な顔をした。ここまで彼がすることって珍しい。でも賀川さんは全然ひるんでいない。それどころか。
「瑞穂さん、ちょっといいかしら。ここじゃなくてそちらの部屋で。ちょうど社長もお見えのようだし」
 そう言って賀川さんはトーセイ飼料の営業所へ向かって歩き出した。
「え、でも」
「瑞穂、入れるな」
 孝一郎さんが叫んだ。え、え、え、そう言われても営業所は目の前だ。賀川さんはお茶をお盆に載せて持っているわたしの背を押すように営業所へ向かわせている。中ではお義父さんがなにごとかとこっちを見ている。
「賀川さん、やめてください。社長に聞かせるとあの人はなにを言うかわからない。話しをややこしくしないでください」
 孝一郎さんは賀川さんの腕をつかまんばかりの勢いで割って入った。賀川さんが男だったらきっと腕をつかんでいただろう。こんな孝一郎さんを見るのは初めてだ。いったいどうしたの?
「まあまあ、孝一郎君、落ち着いて」
 副社長の真鍋さんも出てきたが、真鍋さんは場違いと思えるほどにこやかだ。
「あら、そう。じゃあここで言うわ」
「賀川さん!」
 孝一郎さんの声に賀川さんはまったく動じていない。
「瑞穂さん」
 賀川さんがわたしに向き直った。
「あなたを三光アメリカにスカウトします。三光アメリカで働きなさい」
 ……は、はい?


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