副社長とわたし わたしの総務課長様 9
わたしの総務課長様
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月曜日からは三月の最終の週だった。水曜日が月末。
月末のその日は午前中に入社式の準備のことを確認するために佐伯と倉内のグループのデスクの集まっているところへ行った。袴田がいたので、今日で退職する彼女のこともグループ内の人たちへひと言話しておこうと思い、先に声をかけた。袴田はあれからも元気がなさそうな様子だったが、休むことなく出勤していた。
「袴田さん、仕事の引き継ぎは終わりましたか。グループのみんなは午後は入社式の準備があるので」
そこまで言ったところで急に袴田が立ち上がった。一瞬、空気が止まったかのような尋常ではない様子。
「すみません、わたし……」
立ち上がった袴田が口へ手を当てるとぐらっとよろけて倒れかかった。とっさに支えたが袴田はずるずると膝をつくように床へ座り込んだ。少し吐いている。
「袴田さん!」
そばにいた女性社員の驚いた声が上がった。
「袴田さん」
目をつぶった袴田の顔が真っ青だった。気を失っているようでがくりと顔が仰向く。吐いたものが気管へ入らないように支え直すと意識が戻ったようで目が開いた。
「椅子へ座れますか」
「う……」
返事ができない。
「医務室へ連れて行ったほうがいいですね。倉内さん、お願いします」
そばで冷静にそう言ったのは佐伯だった。倉内?
「だ、だけど」
倉内の声が後ろから聞こえたが、なぜかためらっているような声だった。が、そんな場合ではなく、体を折るようにして震え始めた袴田を抱え上げた。
「私が運ぼう。誰かドアを開けて。佐伯さん、ついてきて」
佐伯がすばやくもうひとりの男性社員へ一緒に来るように言ってからついてくるのが見えた。袴田を抱え上げたままドアを開けたりエレベーターのボタンを押すことはできない。女性をひとり抱え上げていくのもかなり大変だ。佐伯の判断はさすがだった。
医務室で袴田が手当てされるのを見ていたが、看護師が袴田の服の胸元を緩めたので部屋の外へ出た。袴田が吐いたもので胸のあたりが汚れているのに気がついてネクタイを外し廊下で待っていると佐伯も出てきた。
「袴田さんはどうですか。医者はなにか言ってましたか」
「それが」
佐伯が小さくため息をついた。
「落ち着いたらすぐに病院で診察を受けたほうが良いとのことでした。袴田さん、妊娠しているんです」
「妊娠?」
「相手は倉内さんです。だから袴田さん、精神的にも相当参っているみたいです。それでも出勤してくるから」
倉内? しかし、倉内は確か結婚しているはずだ。独身ではない。
それで……。
「倉内さんがどこまで本気なのか私にはわかりません。奥さんや子どもがいても袴田さんに本気ならしかたがないって思いますけど。倉内さんがどうするのか分かりませんが、同じ課内でこんなことになったら袴田さんはもう会社にいられない。だから辞めるしかなかったのでしょうけれど、
倉内さんはそれをどう思っているのか」
佐伯も課内の者たちも袴田と倉内のことを知っていたのか。
「袴田さんには先週休んだほうがいいって言ったんです。でも袴田さん、倉内さんがなにも言わないからって言ってました。だから袴田さんが出勤していたのは倉内さんへの言葉の代わりだったんじゃないでしょうか。袴田さん、言いたい事をポンポン言えるタイプじゃないですから」
「倉内さんは知っているんだね。袴田さんが妊娠していることを」
佐伯がうなずいた。
「倉内さん、知っていながらまだなにも言わないそうなんです。でも、すみません、こんなこと課長にお話ししてもどうしようもないですよね。最終的には個人の問題ですから。わかっているんですけど」
総務へ戻ると佐伯たちと入社式の準備の確認の続きを簡単に行った。倉内もそこにいたが普通な様子で社員たちが通常の業務へ戻ると倉内もなにごともなかったかのように仕事を続けていた。
昼休みになって総務の社員たちの多くが昼食へ出かけていた。倉内も。
倉内は袴田の妊娠を知りながらどうするかをはっきり決めていないらしい。倉内は袴田が退職してからどうにかしようと思っているのか。
倉内は仕事ができないわけではない。グループリーダーとしても仕事ぶりも悪くない。
むかつく、という言葉以上に不快だった。
倉内はどうするつもりなんだ。
袴田と倉内のことは個人のモラルの問題で、男女がいれば恋愛事は起きることだろうが、表立って会社に迷惑をかけるようなことにならない限り恋愛は個人の問題だ。だが、仕事とは関係のない事としてしまっていいのか。個人の問題だとはいえ袴田は退職を選んでしまった。
総務の社員たちの多くは倉内と袴田の関係を知っていたらしい。そんな表面には現れない、水面下での不協和音のような空気があったのか。
女性社員の仕事に対する意識の向上には男性社員の意識も変えなければならないと思い、いろいろやってきたつもりだったのに、女性の多い総務ではこれでは仕事に対する意識どころか……。
……………………
「常盤課長」
気がつくと副社長秘書の浅川がデスクの前に立っていた。
「あ、はい。なんでしょうか」
「昼休み中に申し訳ありませんが、副社長が急用でお呼びです」
「急用?」
まだ昼食を食べていなかったが自分の席から立ち上がった。浅川と一緒にエレベーターへ乗ると浅川が最上階のボタンを押す。
「すみません、お呼びになっているのは副社長ではなくて瑞穂さんです。瑞穂さんから頼まれたんです。常盤課長をお連れするように」
「瑞穂さんが?」
思わず怪訝な表情になってしまった。瑞穂が呼ぶなど、これまでにないことだった。
「副社長もご承知ですから大丈夫です。瑞穂さんがちゃんとお話しされましたから」
浅川の言う通り、副社長室の前まで行くと中にいた真鍋さんがトーセイ飼料のほうへどうぞというように手で示した。瑞穂が営業所の中で立って待っている。
「瑞穂、なに? どうかした?」
「すみません、浅川さんに頼んだりして。あの、これを」
瑞穂が差し出したのは新しいワイシャツとネクタイだった。
「これは……」
「午前中に島本さんが教えてくれたんです。孝一郎さんのシャツが汚れているようだからって」
「島本さんか」
それで瑞穂はこれを買いに行ってくれたのだろうか。昼休みに? それとも仕事中に?
「所長たちは昼前に出張へ出かけましたから。ブラインドを閉めますので着替えてください」
上着を置いてシャツを脱ぎ、新しいシャツに袖を通した。サイズも合っている。
「ありがとう。瑞穂に手間をかけさせてしまって」
「そんなことありません。島本さんが教えてくれたからですよ。具合の悪くなった人を医務室まで運んだって聞きました。大変でしたね」
瑞穂が脱いだシャツを受け取り、紙袋へしまう。持って帰ってくれるのだろう。ネクタイを締めていると瑞穂が襟を直してくれた。
「孝一郎さんは総務課長なのだからちゃんとした服装でいないと」
「孝一郎さん?」
瑞穂の腕を引く。近づいた瑞穂の顔が驚いたように見上げている。
「ごめん、瑞穂」
抱きしめた瑞穂の肩に顔をつけてしまった。
「ごめんて、どうしたの? 孝一郎さんが謝ることじゃないのに……」
違う。違うんだ。
俺は……。
あたたかく、しっかりとした瑞穂の体。瑞穂が動こうとしたのを押さえるように抱く腕に力を込めた。
こんなにも大切な存在。そう思っているのに。
会うことすらままならない事があるのに、それでも仕事だからと思っていた。
なんのための仕事だ……。
また瑞穂がかすかに動いてやっと腕を緩めた。昼休みでなければきっと瑞穂を抱きしめたままでいただろう。
「あの、孝一郎さん?」
「なんでもない。悪かったね。もう戻るよ。まだ昼飯を食べていないんだ」
「あ、それならここで食べていってください。わたしもまだなんです」
瑞穂が包みを取り出した。弁当箱のようなものと、サンドウィッチの箱。
「サンドウィッチは浅川さんからの差し入れなんです。孝一郎さん、きっとお昼まだだろうからって。そういうことがわかるなんて、さすがは秘書ですね」
「そっちは?」
布に包んである弁当箱を見た。
「これはわたしのお昼です。最近、お弁当を作っているんです。今日はおにぎりですけど」
「そっちをもらってもいいかな。浅川さんには悪いけど、瑞穂の作ったおにぎりが食べたい」
瑞穂の弁当はなんの変哲もない海苔で包んだおにぎりが二個。会社で瑞穂と一緒に昼食を食べるのは初めてだった。
「おいしい」
「えー、普通のおにぎりですよ」
そう言って瑞穂は照れていた。
「瑞穂、ありがとう。助かったよ」
「いいえ。無理しないでね」
ドアを開ける前に瑞穂がそう言って小さく手を振った。
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