| 庭の草陰 夏3 
 庭の草陰
    目次
    
 3
   無造作に伸びぎみな髪と色あせたシャツ。綿のズボン。そんな服。
 そんな信の姿はわたしの思っていた通りだった。だからすぐにわかった。彼が信なのだと。
 絵を描いていなくても、スケッチブックを持っていなくても、ただ道ですれ違っただけでもわたしはきっと信がわかったに違いない。
 たとえ夜の闇の中でも……。
 
 
 
 昼と夜の時間がだんだんとずれてきている。
 昼間は眠くて仕方がない。もうスケッチへ行く気もない。ぼんやり縁側へ寝そべってばかりいる。見えるのは草の伸びた庭。
 
 そんな庭へかおるが入る。
 茂った草をよけながら。手を広げて。なにかへ踏み込むように。
 「ここ、草を刈らないの?」
 「冬になれば枯れるよ」
 人家の庭だからまだそれほど頑丈な雑草は生えていない。細い葉や穂をつけた草がかすむように生えている。そんな草むらをうろついて遊んでいるかおるをぼうっと眺める。そのうちに眠気が差してきてうとうとしたのか、また庭を見たときにはかおるの姿が見えなかった。
 
 どこかへ行ったのか……。
 どこへ行っても、このまま消えてしまってもかまわないのに。
 
 家のまわりには葛のつるが伸びる。ヤブガラシが伸びる。すべてを覆い尽くすようにつる草は伸びる。恐ろしいほどの勢い。固く頑丈なつるを張り、葉は茂り伸びている。その勢いはとどまることを知らない。
 
 この夏はまだ終わりそうにない。
 八月はなにもしないと、休みを取ると城崎へ連絡してある。どうせ暑くて何も描けない。外は容赦ない夏の日差し。やかましい蝉の鳴き声。すべてに圧倒されそうだ。強すぎる生命力にじわじわと侵食されていくように。
 
 また一日の日が暮れる。
 だれもいないはずのこの部屋で暗い天井を見上げたままあの影を見つめている。そうしていればいつかは顔が見えるだろうか。忘れることのなかったあの顔が……。
 
 草がこの家を覆うまで。
 つる草に絡め取られるまで。
 こうしていれば。
 
 
 
 
 「信」
 声に目が覚めて眠りから引き戻された。真っ暗な部屋の中でかおるが俺の顔をじっと見ている。暗闇の中でかおるは四つん這いに手をついて俺の顔をのぞきこんでいた。かすかに光るかおるの瞳。
 「なんだ」
 「なんでもない」
 腹でも減ったのか。あのままいなくなってしまってもよかったのに。
 
 俺の横たわる脇にかおるが座っている。ぺたりと座りこんでいる。かすかな気配が、かおるの気配が目を閉じている俺にも静かに感じられる。
 
 若い女なのに、どうしてここにいるのかな。居心地がいいとは思えない。男とふたりだけで怖くないのか。知らない男なのに。
 
 いつのまにかうつぶせに丸まって眠っているかおる。ラグの上で丸まりながら夜の猫のようにかすかな吐息を吐くように眠っていた。
 
 夜が明けて部屋が明るくなるころにはかおるはいつのまにかいなくなっていた。眠っていた跡も残さず、体温も残さず。きっと台所の板敷の部屋へ戻ったのだろう。
 
 
 
 一日で最も涼しい時間。
 夜が明けて朝が来るその時間に起きだして家の周りを歩く。伸びた葛のつるの先が絡まるものを求めるように何本も何本も伸びている。たった一日でつるは驚くほど伸びる。
 
 やがてはつる草は野辺から庭へと侵入してくるだろう。庭から屋根へ。そして部屋の中へ。なにもしなければつる草はすべてを覆い尽くそうとする。
 
 魂の帰ってくる野辺にも。
 川の土手にも、道にも。
 
 だから。
 だから人は草を刈るのだ。草の勢いに負けぬように。田畑が、家が、道が、草に覆い尽くされぬように。草を刈るのは人の住んでいる証だ。こちらとあちらの境をつけるように人は草を刈っていく。
 
 家へ戻ると米を研ぎ、味噌汁を作った。もう暑くなっている日射し。
 「かおる、朝飯にしよう」
 かおるが立ち上がる。庭のむこうのほうで。
 生い茂る雑草の中を歩く、かおる。
 草の葉陰からひょっこりと顔を出した猫のような、かおる。
 
 何もしなくとも。
 ただやりすごすだけの夏でも。
 せめて庭の草を刈ろうか。雑草に取り込まれぬよう。
 
 初盆の魂は俺のところには帰ってくるはずなどないとわかっていても。
 俺自身が雑草に覆い尽くされないように。強すぎる雑草の生命に取り込まれないように。
 
 でなければ俺が草で覆われてしまいそうだ。
 
 
 2009.09.22             「ヤブガラシ(藪枯らし)」も雑草です。これが生えると藪も枯れるという…。(実成)
 
 
     目次        前頁 / 次頁
       
   Copyright(c) 2009 Minari all rights reserved.
 |