花のように笑え 第3章 12
花のように笑え 第3章
目次
12
人気のなくなった庭には夕暮れになる直前の西日の最後の明るさが光を投げかけていた。
整然と植えられた花壇の中の薔薇の花。つぼみから咲きかけへ、そして整った形を見せて今が最高に美しく咲いている花、そして開ききってやがては色あせていく花びら。
それらとは対照的に奥の庭のつる薔薇はアーチの支えにからまり数えきれないくらいの花をつけている。
美しいその花々を瀬奈はめまいのするような思いで見つめていた。ひどく体が重い。
アーチの向こうの庭の奥の木が少し揺れている。瀬奈がアーチをくぐり通路を奥へ歩く。奥では作業服の肩からかごを斜め掛けにして手袋をした男が咲き終わった薔薇の花をひとつひとつ摘んでいた。背を屈めるようにして花を摘んでいる男の背中を見ながら瀬奈はじっと立ちつくしていた。
もしかしたらこのままずっと彼は振り向かないかもしれない。永遠に花を摘んで、永遠にこのままで……。
しかしやっと聡が振り向いてそこに瀬奈が立っているのに気がついた。
聡は手前の薔薇の茂みを避けるようにして通路側へ出てくるとかごを置いた。作業服を着ているところなど見たこともない、けれども背の高い、陽に焼けた肌。
「瀬奈」
聞いたこともないような声。でも確かに彼の声。
静まり返った庭の中、それでも耳をこらせばかすかに虫の羽音が聞こえたかもしれない。わずかな風に薔薇の葉の揺れる音が聞こえたかもしれない。けれどもふたりに聞こえるものは何もなかった。じっと立ちつくし、ただ視線だけがお互いを見つめあっている。
そんなふたりを見ているものは夕暮れの光の中で物言わぬたくさんの薔薇の花だけ。
ゆっくりと近づくと聡は瀬奈の前へ立った。瀬奈の腕に触れる。
「ごめんなさい……」
やっと瀬奈が声を振り絞る。
「なぜ謝る?」
なぜって……。
引き寄せられて聡の唇が触れてきた。
瀬奈の体が震えていた。
長い間夢見ていたのに忘れていたような気がする聡の唇。そのくらい彼の口づけは静かだった。彼とは思えないほど強引さも性急さもない静かな聡の唇に瀬奈は目を閉じた。
今だけ、今だけは……。
聡は唇を離すと顔を伏せてしまった瀬奈の様子をじっと見てとっていた。瀬奈の伏せたまつげが震えている。その頬の疲れているような表情。まるでつらいような。瀬奈自身は精一杯しっかりしようと思っているらしかったが、どう見てもあまり良い状態じゃないな……。
やがて聡は黙って瀬奈の手を引いた。
薔薇の間を抜け、奥へと歩いて行く。木の柵の扉を開けて瀬奈を中へ入れるとまた閉めた。こちら側は一般の客は入れないフィールドらしかった。少し離れた所からハウスが何棟も並び中には薔薇が植えられているのが見えた。
やがて作業場のような屋根と柱だけの建物と大きな倉庫のような建物。黙って歩く聡はそこまで来てやっと足を止めた。
「ここの社長は瀬奈のお祖父さんの田辺先生の昔の教え子なんだよ。去年から俺は週の半分はここで働いて薔薇の育種の勉強をしている。あとの半分は自分の農場、といっても田辺先生の農場だけど、そこで先生と一緒に花の栽培をしている」
話しながら聡が瀬奈の様子を見ているのに瀬奈はもうそれに気がつく余裕もないようだった。さっきからこめかみを押さえている。
瀬奈は聡が話している声をぼんやりと聞いていた。もうほとんど聡の声が聞き取れず瀬奈は目をつぶってしまった。ああ、頭が痛い…… 。
ずっと感じていた頭痛がひどくなっている。痛みを我慢するようにやっと目を開ける。目のくらむようなふらつきを感じてほんの何秒か立ちつくす。
「……大丈夫か」
彼の声が聞こえたが瀬奈は答えられなかった。頭が痛い。こめかみの脈動がずきずきと感じられる。
建物の中へ入り、座らされたところまでは覚えていた。
「とにかく横になるんだ」
住まいらしい部屋があり、瀬奈はその部屋のベッドに座らされた。
部屋の中は涼しかったが瀬奈の緊張が解けるはずもなく頭がずきずきと痛む。少し動くたびに何倍もの痛みが返ってくるようで何も考えられない。
「薬……持っているから……」
瀬奈がバッグの中から出した薬を震える手でパッケージを破くと聡がコップの水を差し出してくれる。
「ありがとう……ごめんなさい……」
それだけを言うと瀬奈は目を閉じてベッドへと崩れていった。
頭の芯に痛みとしびれの残っているような感覚に瀬奈は目を開けた。ベッドで眠っていた。ようやく記憶を手繰るようにして聡に連れてこられたことを思い出す。
ここは……聡さん……聡さんは?
起き上がって薄暗い小さな灯りがついているだけの部屋を見回す。 もう夜……?
瀬奈の体へは掛け布団が掛けられていたが服は着たままだった。そのまま寝かせておいてくれたらしい。
強張ったような体を動かして瀬奈はベッドの端に座りなおした。すると瀬奈が気がついていなかった隣の部屋と通じるドアが開いて聡が入ってきた。
「具合はどう」
「……大丈夫です。ごめんなさい。迷惑かけて」
「大丈夫じゃないだろう。熱があるんだよ」
聡に言われなくても気がついていた。今は体が熱っぽくてだるい。
「いつもこんななのか?」
尋ねられて瀬奈は黙って首を振った。そんな瀬奈を聡はじっと見ていたが聡の手が瀬奈の額に当てられると瀬奈はびくっとして体を引いた。
うるんだような瀬奈の瞳。それもさっとそらされた。熱のある額、疲れと緊張の表情。精神力だけで保っているに違いない。
「怖がることはない。俺はただ」
肩のすくんだような瀬奈の体がそっと聡に抱き寄せられた。
「瀬奈を楽にしてあげたいだけだよ」
聡に抱かれた瀬奈の体が熱い。
「瀬奈、もう忘れるんだ」
「忘れる……?」
何を忘れろと言うのか。忘れてしまいたいと思っていても忘れることなどできないからこんなにも苦しい。精一杯の勇気でここへ来た。なのにこんなにも苦しい。
「どうして……」
小さな、悲鳴にも似た瀬奈の声。
どうして、どうして、どうして……。
聡から逃れようともがくが唇がふさがれてしまう。聡の唇が柔らかく瀬奈の言葉を封じ込め、つっと一筋の涙が瀬奈の頬を伝う。
「おねがい……」
聡の唇が離れると瀬奈は両手で顔を覆ってしまった。
「瀬奈」
聡が後ろから瀬奈を抱きしめた。瀬奈の体ががたがたと震えている。
「瀬奈」
聡が呼んでも顔を上げない。
「は……なして……」
だが離せるわけがない。瀬奈の心を映すように瀬奈の体は悲鳴を上げているというのに。
俺はおまえの苦しみをやわらげてやることはできないのか……。
また瀬奈がもがいても聡は瀬奈を抱きしめ続けていた。瀬奈の体の震えが収まってきたが瀬奈の背中と聡の胸が触れているところが服越しでも熱く感じられる。
抱かれている瀬奈も頬が熱い。聡の体がぴったりと触れているところが息苦しいほどに熱い。
何度瀬奈がもがいても聡は離そうとしない。熱い体温の瀬奈の体からはかすかに花のような香りがしたが今の瀬奈はじっとりと汗ばんでいるのが聡にも感じられた。
熱と疲労で瀬奈はとうとう力尽きるように目を閉じてしまった。瀬奈の髪に唇を寄せてささやく聡の声を聞きながら暗い眠りに引き込まれていく。繰り返される聡の呟き。
俺によこせ……
瀬奈の熱を俺によこせ……
おまえを苦しめるすべてのものを俺によこせ……
2008.11.10
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