花のように笑え 第2章 13

花のように笑え 第2章

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13


 夜になって戻ってきた東郷は部屋へ入るなりつかつかと近づいて瀬奈の腕をつかんだ。
「気に入らないことをしてくれたじゃないか」
 東郷の声が凄む。何も答えず目の前にいる瀬奈に対して。
 創立記念パーティーの途中で瀬奈が飛び出したことを耳打ちされた東郷は瀬奈を別宅へ帰すように指示して全く何事もなかったように振舞ったが、心の中は苛立っていた。

 このところの東郷を取り巻く動き。
 ティーオールカンパニーの重役達さえもちらちらと東郷を窺うように見る。誰もが疑心暗鬼になっているように。なにをガタガタしている! たかが警察の揺さぶりに対して。
 皮肉なものだなと東郷は考えた。俺がこんなにも苛つかされるとは。おまえのお陰だな。おまえを手に入れるために森山だけを蹴落とす計画を変えたからだ。誰のせいだと思っているんだ!
 瀬奈がこんなにも自分を苛立たせる。瀬奈のうわべだけの従順さなど欲しくはない。本当は
従ってなどいないくせに!
「森山は死んだんだ! 聞かせてやる。どうして俺が森山を消してしまおうと思ったか!」

 東郷につかまれた瀬奈の腕がぎりぎりと痛い。
「俺は昔から森山が気にいらなかった。あいつのことはあいつが生意気なガキの頃から知っている。ガキのくせに、ただの子どものくせに……俺に頭を下げない。俺に頭を下げなかったんだ! だからAMを潰してやったんだ。途中で森山がお前と結婚したと知った。 だから森山から何もかもを、そう、おまえを奪ってやったんだ。森山が手の中で守っているおまえをな。偽の投資話を仕掛けた甲斐があったよ。森山がいなくなってさぞ困っただろう? それなのに会社を救うためだって? 森山だって少なくともおまえにAMを救って欲しいなんて思ってはいなかっただろう。 世間もビジネスも知らない小娘のおまえにそんな事ができるはずがないからな。だがおまえは森山やAMを見捨ててさっさと逃げ出す代わりに俺のところへ来たんだ。自分と引き換えに俺にAMの社員を救って欲しいとな!」

「森山のため、AMコンサルティングのため、AMの社員たちのため、そう思ったのだろう?
おまえはいつでも人のためだ。いつでも」
「……そうよ」
 返された瀬奈の答えはあまりにも静かなものだった。
 瀬奈がゆっくりと東郷の手をどかすように腕を下げた。かすれたような声で瀬奈が言う。
「でも、あなたのためじゃない」

 瀬奈の大切な人たち。
 三田や川嶋、瀬奈の心の中の遠慮をわかってくれた人たち。
 そして愛する人、聡。
 彼を愛するという心の居場所を与えてくれた人。
 聡さんはわたしに笑えなんて言わなかった。彼こそがわたしに笑顔を見せてくれた。
 彼こそが……。

 東郷の策略も自分の愚かさも、もうすべてわかっていた。
 聡のことが信じられなくなってその心の隙を東郷に突かれた。AMコンサルティングを救う引き換えに自分を投げ出してしまった。なんて愚かで、なんて馬鹿なわたし……。

 カッとして振り上げた手のむこうで瀬奈が東郷を見ていた。東郷に対して初めて見せた深い瞳の色。投げやりでも、逃避でもないその表情はただ東郷を見つめている。

 何だ、この目は……?
 比べようもないほどの静けさで東郷を見ている瀬奈の瞳。今までその瞳が石を投げ込まれた水面のように揺らぐのを見てきた。どんなに逃避しているようでも東郷の皮肉にその瞳が動揺で揺れるのを見てきた。馬鹿な女だと心の中で嘲笑いながら。
 それでも瀬奈に苛ついていた。瀬奈は瀬奈自身のためにいい子を演じているのだと思っていたから。もう偽の投資話も森山の失踪も俺のせいだとわからせたのに、この静けさは何だ。
 なぜ思う通りにならない? なぜ俺に従わない? なぜだ……。

 しかし、なぜだ、と問えばそれは東郷の負けになる。森山聡に負けるのではない。瀬奈に負けるのだ。森山が瀬奈を愛しているから負けるのではない。瀬奈の静かな、もうゆるぎはしない瞳。 瀬奈は森山のためにここにいる。森山を奪った東郷の元に、森山のために。他の誰かのために。
 俺のためじゃない。

 振り上げていた手を下ろすと東郷は体温が急激に低下していくような感覚に捉われたがそれに反するようにじりっと瀬奈との間合いを詰めた。
「誰もおまえの偽善などあてにしていない」

「もうあなたの思う通りになったはずです」
「そうだな」
 いや、違うだろう。
 なぜ思う通りにならない? なぜ……。

 世間話のように気楽と言っていいほどに答える東郷をこれほど怖いと思ったことは今まで
なかった。目の表情が強烈に彼の怒りを感じさせる。肌に痛く感じるほどに。
 その目の怒りに瀬奈は足が震えていた。今までの東郷の支配など、もしかしたら本気ではなかったのかもしれないとすら思えてくる。今までの事など東郷にとってはほんの遊びだったのかもしれない。
 でも。

 もうわたしにはこうすることしか残されてはいない。
 わたしは二度とこの人の思いのままにはならない。
 どんなことをされても、もう二度と……。

 さっきから部屋のドアが激しく叩かれている。しかし東郷は黙って瀬奈を見続けている。
「社長!」
 ドアの外から声がかかった。この別宅へは会社の人間は入ることすら許してはいないというのに。しかし東郷はそのことに怒る前に叩かれるドアの音を警告と受け取った。瀬奈を前にしながら切迫した音が東郷を怒らせるよりもドアへ向かわせた。
 開かれたドアの向こうの男が東郷の耳元へ顔を寄せる。背を向けた東郷の表情はわからなかったが何事かをささやかれた東郷はそのまま振り返りもせずに出て行ってしまった。
 瀬奈だけがまた部屋に取り残されていた。



 慌ただしく連絡が駆け巡る。
 AMコンサルティングの専務が森山の拉致の容疑者で逮捕された。まるでティーオールカンパニーの創立記念パーティーのあった日に合わせるかのような展開。明日の週明けにはテレビに新聞にニュースが躍るだろう。AMコンサルティングの社長は自殺ではなかった、拉致されたのだと。
 たった2日前に発表された森山の死は死因までは発表されていなかったと、改めて人々は気がつく。AMコンサルティングの社長は架空投資による巨額の詐欺事件の犯人ではなかったのか? では本当の犯人は?
 わからない金の行方。警察は暴力団をすでに捜査している……。

 拉致の実行犯が特定されても警察がそこから自分まで辿り着くはずはない。森山の拉致は暴力団から専務へ持ちかけさせてやらせたことだからそれは暴力団止まりのはずだ。偽の投資話がAMコンサルティングのせいで片付けられなかった腹いせにやったと言わせればいい。 東郷はあくまでも偽の投資話にも森山の拉致にもかかわってはいない。
 しかし、もし警察が何かの証拠をつかんでいたら……?

 じわり、と砂へ水が浸み込むように崩れる。
 小さなほころびが確実に崩れていく。そんな目に見えない動き。
 初めて脅威と感じた。警察ではない何かを……。
 …………


2008.08.15

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