花のように笑え 第2章 7

花のように笑え 第2章

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 ゆらゆらと目がまわる。
 足が床についていないような不安定さ。瀬奈はもう座っていることもできずによろめきながら
ベッドへと崩れるように横になった。体を丸めくらくらするめまいを押さえるように閉じた目に手の甲を当てるだけでもう動けなくなった。吐き気がするのに吐けない。 世界がぐらぐらと回っている。
 助け……て……

 高い熱に瀬奈はうなされていた。
 聡のいなくなってからの日々。そして東郷。それまでどうにか保っていた体も心ももう限界だった。心と体の疲れが瀬奈の思考の何もかもを上回っていた。 瀬奈は朦朧としたまま誰かに何かを言われたが答えることもできなかった。

 医者が呼ばれ、看護師らしい人が付けられて点滴がされ薬が与えられた。 瀬奈の意識が元に戻り始め、やっと熱が引いていく。その間どのくらいだったのだろうか……。しかし瀬奈はなかなか起き上がれなかった。起き上がる気力も体力も残ってはいなかった。
 ……泣く涙さえも。
 何日も横になって過ごし、顔色は青ざめたままだった。手足がひとまわり細くなっていたが病気のピークは過ぎていたようだった。ひと月ほどが過ぎたのだろうか、それでも体がだんだんと回復しているのがわかった。

 あのまま……死んでしまいたかったな……。
 瀬奈はベッドで身を縮めて考えていた。
 東郷との記憶。体に感じた記憶。絶えず湧き上がってくる。
 ああ……わたしは……
 …………

 この家からは出られない。
 目立たぬようにだったが瀬奈には監視が付けられていた。瀬奈の様子は使用人たちによって東郷へ知らされているらしかった。持っていたバッグも携帯電話もすでに瀬奈の手の届くところにはなかった。なにか家の中でしようとしたとしても使用人がじっと瀬奈を 見ているだろう。何をする気もなかった。

 ずっと東郷は来ていなかった。……一度抱いてしまえばそれでいいと? それとも病気の女に興味はなくなったのだろうか。それならわたしをここに置いておく必要もないのに。どうして医者や薬なんて……。
 あれから三田さんは……AMコンサルティングはどうなってしまったのだろう。
 考えても瀬奈にはそれを知るすべはなかった。

 夏の遅い夕暮れの様子を瀬奈は窓ガラスに顔を近づけてぼんやりと見ていた。
 ここへ来てからどのくらい経つのだろうか……。
 病気をしたせいで瀬奈は日にちの感覚が狂ってしまっていた。 窓の外のまだ暑い夏の空気が窓ガラスから感じられる。指でそっと窓ガラスをなぞる。いつのまにはずされてしまったのか指からは結婚指輪はなくなっていた。 部屋は暗くなってきていたがドアの開く音がしても瀬奈は振向くこともしない。声をかけられなかったが気配でわかった。部屋の中へ入ってきた、そこへ立つ男。
 東郷。

「体は治ったようだな」
 どうしてそんなことを言うの……。
 やっと瀬奈は振り返った。東郷は腕を組み立ったまま壁へ寄りかかるように瀬奈を見ている。
 怖い。東郷という男が……。
 何も言わず瀬奈を見ている男が。何の感情も見せずに瀬奈の体を思うままにする男が。無言のまま瀬奈を従わせる男が……。
「着替えをするんだ」
 東郷はそう言って部屋を出ていった。

 なぜ、と瀬奈が思う間もなく車に乗せられてエステティックサロンのようなところへ連れて行かれる。
「こちらへどうぞ」
 従業員が案内はしてくれても理由を言ってくれるはずもなく、次々と体と肌の手入れがされていく。髪をアップにセットされ、化粧をされて瀬奈の姿が作り上げられていく。前よりもはかなげな印象になってしまった瀬奈。それらが化粧によって洗練された美しさに変えられていく。 服も新しいものが用意されていた。パウダーピンクのエレガントなスーツ。
「とてもお美しいですよ」
 黙ったまま着付けをしてくれる女性の言うことを聞いていた。服を着せられてもう一度最後の仕上げに念入りに髪や化粧が整えられていると東郷が部屋へ入ってきた。鏡を前に突っ立ったままの瀬奈をじっくりと眺めている。
「来い」
 それは命令だった。

 目の前に何枚もの洋服が広げられていく。
 豪華なブランド店のサロンで東郷によって次々と瀬奈の服が選ばれていく。服だけではない、化粧品、靴やバッグ、アクセサリーの数々。それらを無造作とも思える選び方で東郷が次々と選ぶ。瀬奈に好みを聞くこともなく。
 華やかで美しい品々……。

 家へ戻って部屋に置かれたそれらの品を瀬奈は黙って見ていた。 どんな物を与えられてもこの東郷の元を逃れることはできない。病気になった瀬奈を東郷が放り出してしまわなかったのが瀬奈には不可解だったが、それすらももうどうでもいいことのように思えた。
 東郷の手が瀬奈の体を引き寄せ瀬奈は投げやりに考える。わたしがどんな服を着ていても関係ないだろうに……この人にとってわたしはお人形なのだろう……。

 その後も瀬奈には次々と贅沢で美しいものが与えられる。体も髪も美しく手入れがされ東郷の好みに仕立て上げられていく。
 東郷はたびたびではなかったが瀬奈の意志にはかまわず瀬奈を連れ歩くようになった。大勢の人の集まるような場所には行かなかったが、もとより東郷は人目を気にしてはいない。瀬奈を連れて東郷は行きつけの店へ行く。 身につける物も持ち物も東郷の持っているものは一流の物ばかりだったが、単に外国の有名ブランドというだけではなく国内の老舗ブランドのものが多かった。瀬奈は店の名も知らないような隠れた名店といったところへ連れて行かれ、東郷の誂える背広や身の周りの物を東郷が選ぶのを眺めさせられた。 背広にしても老舗の熟練した仕立て職人が何度も仮縫いを繰り返し、その仮縫いに東郷は瀬奈を伴った。イギリス風のサロンのような部屋で瀬奈はソファーへ座りじっと東郷と職人とのやり取りを見ていた。東郷は瀬奈を伴ってはいても瀬奈に何かを言うでもなく、 言うとしても瀬奈がいつでも誰が見ても美しくあるようにあの服を着ろとか髪型はどうしろということだけだった。まるで美しい持ち物のように瀬奈を連れているのだった。
 そんな店で瀬奈が案内されて腰を下ろすと店員は男でも女でも、若くても年配でも感心したように、時には慇懃な笑みでちらりと瀬奈を見る。瀬奈は黙ったままこれらの人たちと話をすることもなかった。

 東郷が誂える革製の小物でも着る物でも、それらには必ず東郷の名が記されているのだった。ブランド名など入れさせない。東郷の名のみを記された、別注文の高級品。 瀬奈が聡と暮らしていた時にさえ想像もしなかったような贅沢さだった。しかしブランド店の豪華なサロンでも東郷の行きつけの店でもまわりの人間や店の従業員たちは皆、この女は東郷のものだと知っている目で瀬奈を見ている。 東郷のすることを座って眺めている時でも、瀬奈の前へ次々にぜいたくな洋服が並べられても、瀬奈の首へ高価な宝石のネックレスがかけられても同じだった。名を記された美しい持ち物。

 東郷が仕立てた高級な女。美しく整えた髪型と化粧。ドレスやアクセサリー。 そしてそれらを喜ぶでもなく身にまとっている瀬奈へすれ違う人間さえ男も女も感嘆とともにため息のような賛美の目と時には羨望の目が向けられる。
「おまえはいつでも誰が見ても美しくなければならないんだ」
 瀬奈が美しくあればいいと言うその言葉通り、東郷は瀬奈に向けられる賛美と羨望を楽しんでいるようでもあった。
「俺がもっと美しくしてやる。もっとな」
 それを聞く瀬奈のどこか投げやりな視線に東郷は気がついていても気にもしない。
「無関心に逃げ込むか? それもいいだろう。だがおまえは美しくなければ価値がないからな」
 瀬奈の逃避を見透かすように東郷が言う。東郷が新聞を瀬奈へ投げ出す。そこにはティー
オールカンパニーのコンサルティング会社とAMコンサルティングの正式な業務提携の記事が小さく載っていた。

 それでも東郷はAMの社員たちを救うという約束を守ってくれた……。
「満足かな? 自分が犠牲になって。そう思っているんだろう?」
 瀬奈の目が逸らされる。自分を組み敷く東郷の目から……。
 東郷は約束を守ってくれた……。

 そのためにわたしは……
 わたしは……

 瀬奈の細い腕が投げ出されている。力なく何もつかむものさえない。
 東郷の息を遠いもののように聞く。体に感じる感覚にも心をそむけた。

 ああ、すべてが……
 すべてが違う世界のことであればいいのに……
 …………


2008.07.03

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