花のように笑え 第2章 2

花のように笑え 第2章

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 聡から電話が入ったのはすでに夜になってからのことだった。
『瀬奈? 悪いね、どうしても今夜は帰れそうにない。会社に泊まるから』
「あの、聡さん大丈夫? このところずっと忙しかったし」
『大丈夫、ちょっとたてこんでいるだけだよ。明日は早く帰るようにするから』
「はい……気をつけてね」
 聡が会社に泊まるのはこのところなかったことだ。どんなに遅くなっても帰って来ていたのに。しかし聡の声はいつも通りで変わった感じもなかった。
「しかたないか……仕事だものね」
 ひとり瀬奈はつぶやいて明日はお弁当を作って届けようかと考えながら寂しさを紛らわせていた。

 聡さんの好きなものをと思い、朝食の後で瀬奈は重箱を出してもらってあれこれ考えていた。わたしがお弁当を会社へ届けてもいいのかな? あ、もしお昼を誰かと約束していたら? 会社の人やお客様とお昼を食べることもあると言ってたし……。 電話でお弁当を届けることを言っておいた方がいいのかもしれない。仕事中に電話するのは初めてだけど……。
 聡の携帯へ電話をしてみたが出なかった。もう仕事が始まっているのかもしれない。もう少し後でまたかけてみよう。それまでに……。
 しかし二度目に瀬奈が聡の携帯へ電話しても聡はまた出なかった。
 忙しいのかなあ。お弁当どうしよう……。

「お、奥様!」
 運転手の笹本が慌てたように台所へ入ってきた。
「おはようございます、笹本さん」
「奥様、会社から連絡はありましたか?」
「はい?」
「社長が、社長がいなくなったと。さっきわたしが会社へ行ったら……」

 昨日は聡から会社に泊ると言われて笹本は夕方には自宅へ帰り今朝また会社へ行ったのだが、聡は会社におらず笹本は逆に社長は家かと聞かれたという。 秘書が以前に利用したことのある会社近くのホテルへ聞いてみたが夕べは宿泊していないという。
「でも、聡さんは会社に泊まるって……どういうこと?」
 笹本が不安そうに瀬奈を見ている。
「三田さん、三田さんに聞いてみましょう」
 このところ三田も帰りが遅かったが、しかし聡と一緒に帰ってくることはなく瀬奈は別行動の三田と顔を合わすことも少なかった。 三田の部屋へ向かったが三田はいなかった。小林に聞くと昨夜は三田も帰ってきていないという。
 いったい……?

「奥様」
 笹本と小林とこんどはふたりが瀬奈を見ている。
「何か……何か行き違いかもしれないわ。もう一度会社へ聞いてみます。秘書のかたに聞いたほうが、あ、小林さん、電話がかかってきたらわたしがとりますから」
 聡の携帯へ電話してもやはり出ない。

 AMコンサルティングへ電話をして家にも電話をしてくれるようにと言ったのにいっこうに電話が来ない。なんだかおかしい。 瀬奈はわけのわからない不安とともに焦りを感じ始めていた。
 どうして聡さんに連絡が取れないの? どうして聡さんは何も言ってこないの?
「奥様、会社のかたが」
 小林に言われて瀬奈が応接間へ急いで行くとAMコンサルティングの専務と名乗る50代くらいの男性と数人の社員と思われる人たちが待っていた。
「社長がこの家にいないのは本当のようだ」
 いきなりその専務が言う。
「どういう意味ですか? 聡さんはゆうべから戻って来ていないのに。聡さんはいったいどこなんですか?」
 初めて会ったというのにその専務にじろじろと見られて声が震えそうになるのを我慢して瀬奈は言った。
「それを聞きたいのは私たちのほうですよ。こんな日にいなくなるなんて。逃げ出したと思われても仕方ありませんな」
「……逃げ出した?」
 不穏な言葉に瀬奈の顔に不安が浮かぶ。
「ご存じありませんか。まあそうでしょうな。あなたみたいな若いお嬢さんへ言うほど森山社長も落ちぶれていないと知って私も安心しました」
 意味はわからなくとも皮肉なその言い方に瀬奈はますます不安になる。
「いったい……」
「まあ、おかけなさい」
 逆に専務に言われて自分の家なのに、瀬奈はそのことに気がついて座らなかった。
「どういうことですか? 説明してもらえませんか?」
 専務はいっこうにかまわずにソファーへ腰を下ろす。
「あなたに言っても無駄だと思いますがね。今日はこれから臨時の株主総会が行われる予定なんですよ。そんな日に社長がいなくなった。病気とでも言い訳しますか。だがそんなことをしてもすぐにばれる」
 株主総会?
 瀬奈にはその言葉を聞いたことはあってもどんなものか知らなかった。
「粉飾決算を疑われて株主たちにどう説明するつもりだったのか。偽の投資話の件も釈明と説明が必要だったのに。それらを放棄していなくなったとあれば会社としては社長を疑わざるわけにはいきません」
 偽の投資話のことは聞いたことがあったが、「粉飾決算」という言葉の意味さえが瀬奈にはわからない。
 わからなかった。すべてのことが。



 瀬奈はたったひとりで待ち続けた。聡から連絡があるのを。
 三田も見つからない。
 せめて三田さんがいれば専務の言ったことを説明してもらえるのにと思ったが、三田さんは聡さんと一緒なのだろうか。それもわからない。 服を着たまま少し横になって眠っただけだった。わけのわからない不安で胸が締め付けられそうだ。 震える指でもう何十回となく聡の携帯へかけているが何の連絡もない。時間が経てば経つほど焦りが募る。
 聡さん、聡さん、どこにいるの?
 聡さん、聡さん……なぜ、どこに、なぜ……?

 翌日になってまた専務がやって来たが今度は十数人の男たちを連れていた。
「…………」
 無言で立ち尽くす瀬奈に専務は家の中を見回している。
「なにがあったのですか? 教えてください」
 じろりと専務に見降ろされる。
「あなたには説明するわけにいかない。なんの関係もない」
 関係もない? でも、でもわたしは……。
「まあ、かわいそうだから少し話してあげましょう。森山社長は見つからない。社長がいなくなってあなたもお困りでしょうが、会社としてもこのままではいられない。さしあたってこの家は会社に管理させてもらいます。 あなたにも出て行ってもらわなければならないということです」
「え?」
「若い女と一緒に暮らしていたなんてあきれる。会社を危なくしておいて」
「待って下さい。どうしてわたしがこの家を出ていかなければならないんですか? この家は聡さんの」
「会社はいずれ森山社長に損害賠償を請求するつもりですよ。つまり差し押さえられるということです。その前に勝手に処分されないようにする必要がある」
 専務の言葉は意味がわかるようでわからなかった。瀬奈の乏しい知識では。
「でも、でも、そんなことは……そんなことができるわけがないです」
 自分の言っていることに何の根拠も自信もなかったが瀬奈はもがくような思いで言った。
「それにわたしは森山の妻です。この家は聡さんのものでわたしのものではないけれど、だからって……」
「妻ではありませんよ」
 今度は何の感情も見せずに専務が言う。
「籍が入っていません。森山があなたになんと言ったのか知りませんが」

 籍が……? 籍が入っていない?
 まさか、まさかそんなことが。
「そんなことって。そんなのなにかの間違い……」
「調べればすぐにわかりますよ。戸籍謄本でも、抄本でも。見たところあなたはお若いがそれくらいご存じでしょう」

 瀬奈の思考が真っ白になっていく。
 籍が入っていない……結婚していない……わたしと聡さんは……。
「あなたもいい思いをしたのでしょう? この家で贅沢して。森山もたいしたものだ。会社があぶないっていうのに若い女の子を家に引き入れて。結婚するからとでも言われたんでしょう? あきれてしまう」
 聡のことをひどく言われているのに瀬奈は茫然と聞くばかりで言い返すこともできない。
「そんな男だったのですよ、森山は。とにかくAMコンサルティングとあなたは関係ない。そういうことにしてあげますからあなたはこの家を出て行って下さい。手荷物を持つ時間くらい待ってあげますから」
「で、出て行く?」
「あたりまえでしょう」
 専務は憤然と言う。まるで瀬奈がものわかりが悪いとでも言うように。
「ただし、あなたは何も持ち出せませんよ。あなた個人の物以外は。おわかりですね」
 そう言うと専務は小林を呼んですぐに荷物をまとめて出て行くように言いつけた。
「奥様……」
 おろおろとして瀬奈を見るが瀬奈も小林へ言う言葉もない。男たちにせかされて小林は自分の部屋に消えた。
 瀬奈はのろのろと立ち上がると二階の居間へ向かう。数人の男たちがついてくる。男のひとりにバッグを出して荷物をまとめなさいと言われたが何をしたらいいのかすらわからない。男が着替えを入れなさい、 と言って寝室のドアへ向かって行ったのを見て瀬奈は恐慌のように叫んだ。
「やめて! 入らないで! そこは……そこはわたしの部屋なんです。服を、服を入れます。
ちょっと待って下さい……」
 瀬奈は本能でまわりの物をかき集めバッグへ入れた。父と母の形見、祖父たちと写っている写真を写真立てごとそのままで。瀬奈の携帯電話、財布。目についた衣類。
「聡さんのものは……」
 男たちは答えなかった。


2008.06.01

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