花のように笑え 第1章 10

花のように笑え 第1章

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10


 瀬奈は家を出てしまった。よくわからない東京の電車も地下鉄も初めて乗る。
 電車の中も駅にも人があまりにも多いのに困って案内がどこなのか駅員がどこにいるのかもわからない。札幌も都会だと思ってはいたが東京はケタ違いだった。瀬奈は乗り換えの駅を間違ってしまったことにようやく気がついた。
 羽田はどのへんだろう。電車で行くには……もう北海道へ帰ろう。申し訳なくて叔父の家へは戻れないだろうが旭川の祖父のところに置いてもらえないだろうか。羽田へ行って飛行機に
乗って……。
 しかし、あっ、とこの時瀬奈は気がついた。飛行機代がない。財布だけを持ってきていたが中にはこのまえ札幌の叔父の家を出た時に持っていた数千円ほどのお小遣いしかない。これでは札幌への飛行機代はおろか何で帰るにしても足りるわけがない。 クレジットカードすら持っていない。何不自由のない聡の家での生活で必要なものはそろっていたし、足りないものはすぐにそろえてもらえた。出かけるときは川嶋さんが一緒だった……。
 情けなくてぽろっと涙が落ちた。なんにもできない世間知らずなわたし。こんなわたしなら聡さんが会社のことを何も言わなかったのも仕方がない。ぽろぽろと涙が落ちていく。ポケットのなかのハンカチを出して胸に抱きしめたがこのハンカチで涙は拭けない。 父の髪の毛を包んだ母の形見のハンカチ。写真も持ってきたはずなのに、でももう取りに戻るわけにはいかない。道を歩く人から不審に思われないようにうつむき加減で歩くことしかできなかった。どこを歩いているのかもわからず、ただ人通りのある通りの歩道を歩き続けるしかなかった。

 途中で携帯電話で連絡を取りながらやっと三田を見つけることができた。
「三田さん、瀬奈に何を言った?!」
 聡が車を降りるなり噛みつくように言ったが三田の返事は皮肉なものだった。
「おまえが言わないからだ。言ったはずだ。このままでは瀬奈さんを失うと。そんなことになったら俺が許さないからな。瀬奈さんは俺にとっても大切な恩人の孫だ。なぜ俺が瀬奈さんを連れ戻さなかったと思う? ここからは自分で追え。それがおまえの役目だ」

 道路や信号の表示を見て地名が書いてあってもそれがどこなのかもわからなかった。もう広い道からははずれてしまって細い道へ入り込んでしまっている。住宅ばかりで瀬奈は自分の歩いているところがどこなのかもわからなかった。
「どこだろう……」
 どうすればいいのだろう。もうどうすることもできなかった。
 好きだったのに。聡さん。札幌で月に1度のデートをしていた頃から。でも何もできないわたし。お荷物なだけのわたし。
 体から力の抜けるような思いで偶然見つけた歩道に据え付けられたベンチに腰をおろした。コンビニか本屋さんがあれば、観光案内でもタウンマップでもいいから何かそんなものが売られているかもしれない。羽田まで行って、でもお金が無ければ飛行機には乗ることはできない。
 羽田へ行ってどうするの……叔母さんに電話して迎えに来てもらうしかない。そんなことになれば叔父さん叔母さんに心配をかけてしまうのに……。
 座ったままうなだれている瀬奈の視線の先に革靴の男の足がふいに入ってきて瀬奈は思わず立ち上がった。

 そこにいるのは、目の前に立っているのは……。
「どこへ行くんだ?」
 汗で額に張り付いた癖のある髪をちょっとかきあげて聡が尋ねる。まるで道で知人にでも会ったというように。
「聡さん……」

 瀬奈は自分の目が信じられなかった。どうして、どうして聡さんがここにいるの。
 茫然とする瀬奈に聡は瀬奈から目を離さずに携帯電話を顔へ当て車に来るように言っている。しかしその隙を見て瀬奈はぱっと向きを変えると走り出した。
 いや。もうあなたのところにはいられない。北海道へ帰りたい……。
 ふいに瀬奈の手首がつかまれる。後ろから腕がまわされ走れなくなる。転びそうになりながらなおも振り切ろうとするが、手が、聡のその手が離してくれない。
「瀬奈!」
 聡の息遣いが間近かに聞こえて……。
「瀬奈」
 もう一度聡が瀬奈の名を呼んだ。
「うっ……」
 もがく瀬奈の頬からぱらぱらと涙の粒が飛んでいく。聡は強引とも思えるやり方でくるりと瀬奈を向き直らせると力いっぱい抱きしめた。
「瀬奈、どこへも行かないでくれ……」
 どうして、どうしてそんなことを言うの? どうしてわたしに? 役にもたたないわたしがいても聡さんには余計な負担になるだけなのに……札幌へ帰ってもいいと言ったのは聡さんなのに……。
 まだもがく瀬奈を抱きしめたまま聡は立っていた。波打つように動いていた瀬奈の背中がだんだんと静かになっていく。
「家へ戻ろう……」
 聡がそう言った時だった。

 弾けるように瀬奈の体が聡の腕の中から飛び出した。予想していなかった瀬奈の動きに追いつかず聡の腕が空を切り、上着の裾がひるがえった。
「瀬奈! 待つ……」
 まさかまだ逃げようとするとは思わなかった。しかしそんな事を考える暇もない。走り出した瀬奈を追って聡も走る。
 いったいどこへ行こうとするんだ。髪を揺らし走るその後ろ姿にすぐに追いつく。今度は無言で瀬奈の肩をつかむ。
 ぱっと振り向いた瀬奈の瞳。でもその瞳は聡の見たことのない悲しみで濡れていた。
「待つんだ!」
「いや! もうあなたのところにいられない! わたしなんて放っておいて」
 鋭い瀬奈の言葉に聡は自分がこれまでしてきたことでこんなにも瀬奈を悲しませしまっていたのだと感じずにはいられなかった。みんな自分のせいだ。
 瀬奈が手をふりほどこうともがく。こんな激しい抵抗は予想もしていなかった。瀬奈のどこにこんな激しさが隠されていたのか。ぐいと瀬奈を引き寄せるとその体をもう一度強く抱きしめた。
「出ていくなんて許さない。おまえは俺のものなんだから。瀬奈を失いたくはない。今度こそ俺の本当の妻になってもらうんだからな。出ていくな、瀬奈。愛しているんだ……」

「聡……さん……」
 聡の目を見ると聡は笑っているようだった。どうして……どうして……。自分の耳までがおかしくなってしまったのだろうか。
 やがて笹本の運転する車が来て瀬奈は聡になかば抱かれたまま車へ乗せられ、家へ向かう間もずっと聡の膝の上に抱えられている。聡はもう目をそらそうとはせずにじっと瀬奈を見つめている。
「どうして……」
「愛している」
「聡さんは……」
「愛している」
 瀬奈が何を言っても「愛している」としか言ってくれない。
「聡さん、自分で何を言っているのかわかっているの?」
「もちろん、わかりすぎるくらいわかっているよ。瀬奈、君を愛している」

 家へ着くと抱きあげられてそのまま2階へ運ばれていく。そんな聡の様子に川嶋も誰も出てこない。 居間へ入ると降ろされて立たされるが抱きしめられたまま。聡の鼓動が耳に感じられるほどに抱きしめられている。
「あ、聡さん……」
 言おうとして聡の唇が触れてくる。しかし瀬奈の唇が狼狽して小さな悲鳴を上げてしまった。瀬奈の心はまだそれを受け入れられるほどには落ち着いてはいなかった。
「待って、待って。わたしは……」
 見開かれた瀬奈の大きな瞳が揺れている。

 普段なら見とれるところだろう。
 瀬奈の感情が揺れるその瞳。澄んだその瞳が揺らめくような深さで動揺している。なんて瞳なんだ、と聡は思う。聡の心を知りたいと訴えているその瞳。
「瀬奈、済まなかった」
 聡は瀬奈の手を取って座らせながら少し乱れたその髪をなでて直してやる。
「聡さん……」
「謝って君が許してくれるかどうかわからないが……瀬奈、私は君を札幌へ帰すつもりだった。せめて君が気にせずに帰れるようにと思っていた。だけど私にはとうとうそれも出来なかった」
 聡がふっと笑った。
「おかしいだろう?こ んなにも君が好きで離したくないのに素直に君を抱くこともできなかったんだ」
「それは……」
「会社が危なかったことは三田さんから聞いているだろう?」
 瀬奈の体が一瞬緊張したのが聡にもわかった。
「近藤という男が来たのもそのせいだ。済まない」
「それはわたしが勝手に出歩いてしまったから……ごめんなさい。わたしがいなければ今日のようなことも……」
「会社のことを話さなかったのは私だ。君は知らなかったことだから君のせいじゃない」
「でも、でもわたしがいたら聡さんに余計な心配をかけてしまう……だから……わたしがいたら……」
「それで札幌に帰ろうとしたんだね?」
 瀬奈は聡を責めることもしない。
「……君はやっぱり田辺先生のお孫さんだ」


2008.05.02

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