花のように笑え 第1章 6
花のように笑え 第1章
目次
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「アメリカ出張とはよく言ったな」
書類に目を通しながら顔も上げないで三田が言う。
「仕方ないでしょう。そうでも言わなければ」
「そうだな」
三田が眼鏡をずりさげて聡のほうを見た。
「うまいタイミングで仕掛けられたもんだ」
会社の社長室のデスク。その前へ机やパソコンを何台も持ち込んでファイルや書類が積んである。三田の座っている机の周りが特に雑多に置かれていて三田はその中心にいた。このところ会社や近くのホテルに泊まりこみながら仕事を続けていた三田と聡は
ふたりとも頬にげっそりと影ができた表情だったが、今までほとんど余計な話をすることもなかった三田が聡とふたりきりになった時に話しかけてきた。
「これからどうするんだ」
「何とかなる目途はつきました。あなたのおかげで」
三田がまた眼鏡を下げるように聡を見た。こうして三田が話す余裕が出てきたということか。
「奥さんのことだよ」
おや、仕事のことじゃないのか、と聡は心の中で驚いた。三田が瀬奈のことを言い出すとは 思っていなかったが、三田が心配するのもわかる。
「結婚したとたんに夫の会社がつぶれてしまった、では申し訳ありませんから」
「だからといって放っておきっぱなしというのはないだろう」
いくつもの経理書類やファイルを脇へ広げ、まるで税務署の署員が調査をしているというような様子の三田がむすっとした表情で続ける。その表情とは裏腹な言葉で。
「よく気がつくし、美人で思いやりもある。いい子じゃないか」
「先生のお孫さんですから」
「そうだな……おまえの気持もわからんでもないが。だがこのままの状態を続けるわけにはいかんだろう」
「わかっています」
「あの子の身にもなってみろ。好きならさっさと抱くことだ」
聡の答えに三田はしつこく続けた。こんなしつこさはやはりいつもの三田にはないことだった。
「今、俺にそんな余裕がないことはあなたも知っているでしょう。あと少しです。瀬奈のことは必ず何とかしますから」
「そう願いたいね。じゃあさっさと片付けよう」
「お願いします」
4月の上旬に一投資家からというその問い合わせを会社が受け、会議で総務と経理のそれぞれの責任者がそのことを話したのを社長である聡が聞きとめたのは幸いだった。
IT関連のコンサルティング会社を展開する聡の会社AM(エーエム)コンサルティングは大手総合商社の子会社のIT機器専門商社と提携している事業があった。
こちらの事業も順調で問題はなかったが、問い合わせというのはIT機器専門商社の親会社である大手総合商社が行っているという投資に関するものだった。
聡の会社であるAMコンサルティングが投資家に対して大手商社と共同で新たなIT関連企業の事業を立ち上げるという。そしてこの事業が成功すれば相応の収益が得られるとして出資を募っていたというのだが、聡の会社にとってこれは寝耳に水と言ってもいいことだった。
確かに大手総合商社の子会社とは関連がある。しかし明らかに親会社である大手総合商社の名前と信用を利用したような投資話など全く架空のものだった。
聡の会社へ出資金返済の問い合わせをしてきたという投資家というのは一般の投資家だったが、1週間もたたないうちに大手総合商社のほうへ外資系証券会社からも問い合わせがありこの投資話が明らかになったが、聡はかろうじていくつかの先手を打つことができただけだった。
外資系証券会社は百億単位の出資をしているという。総合商社の名と信用が利用されたこと、つまりAMコンサルティングの社員と思われる男が総合商社の役員を名乗る男を外資系証券会社に紹介していることや総合商社の書類と思われる書類を見せていることからAMコンサルティングが
総合商社の名で信用させて投資話をでっちあげ金を集めたということになる。
総合商社は自分たちの知らないことだと完全に関与を認めていないし、当然のことながらAMコンサルティングのやったことだとの見方がされた。それを否定するために社長以下の幹部社員すべての洗い出しを行ったが疑われる者がいない。幹部ではないということか。
それらを調べるためだけでも空しい時間が過ぎて行ったが、他者によるでっち上げが証明されなければ外資系証券会社はAMの社員がやったことだとAMの使用者責任を追及してくるだろう。そうなれば何百億もの出資金をAMが支払わなければならなくなる。
さらにこの時を同じくしてAMコンサルティングの粉飾決算(多くの場合赤字を黒字と偽って決算すること)の疑惑が持ち上がったのだ。新興企業としてここ数年で急成長してきた聡の会社は右肩上がりで業績を伸ばしていたが、偽の投資話は実はAMのこれまでの成長に反動するような急な
業績悪化が起こったためにそれを隠すために金が集められたのではないかと疑われたのだ。
決算はともかく増資など会社の根幹にかかわることについては聡は慎重にやってきていた。自分でも経理と経営については学んでいたし、会社としても無謀なことはしてこなかったはずだ。
偽の投資話を持ちかけた社員と粉飾決算疑惑。経理関係の社員をすべてチェックするように言ったのは三田だった。三田はAMの嘱託社員という身分だったが実質は聡のブレーンだ。三田には会計士だったキャリア、いや過去があった。
聡と三田が知り合った時には三田は自身の事情から全く違う仕事をしていたのだが、聡が会社を興すにあたって三田を東京へと呼び寄せたのだった。
三田も心配してくれているのだ、瀬奈のことを。
三田の心配する理由もわかっている。しかし、と聡は思いながら立ちあがった。隣室に行って服装を整える。三田と違って社長として外部との折衝の中心にいる聡は常に姿を整えておく必要がある。
あのとき……鏡を見ながらネクタイを直すほんの少しの時間に瀬奈のことを思う。
瀬奈が家に来てくれてキスをした時の抱き締めた瀬奈の体の感触、柔らかな頬、花のようなすがすがしい香り。……そして唇。あの唇から自分を引きはがせたのが不思議なくらいだった。
そして夕べ、ふいに書斎に現れた瀬奈の姿。毛布を抱えてはいたが、夜目にもわかる白いドレスのような寝巻を着てまるで天使が舞い降りたのかと思ったくらいだ。驚いて彼女の手をつかんでやっと本物の瀬奈だと気がついた。
しかしそれは瀬奈が自分が書斎で眠っていることに気がついているということだった。今朝の朝食の時の瀬奈の何か問いたげな表情。揺れるような瞳の色……。それでも瀬奈は何事もなく聡を見送ってくれていた。普通なら何か言うだろう。
何か尋ねるだろう。しかし瀬奈から尋ねられても今の聡にはそれに応える確かな答えと自信を持っていなかった。
だからまるで瀬奈を寄せ付けない、話す隙を与えないような雰囲気を作るしかなかった。祈るような気持ちで瀬奈がなにも言い出さないことを願っているのだ。
会社を興して以来前進だけを続けてきた聡にとって今度のことは致命的と言っていいほどの危機だった。
しかもよりによって瀬奈を迎えたこの時期に……。
すべてを失ってしまうかもしれない恐怖は瀬奈を失ってしまうかもしれないという恐怖だった。やっと瀬奈を腕の中へ入れたと思ったのに。それでも瀬奈を抱いてしまわずにいたのは瀬奈が自分の失敗に巻き込まれないよう、
最悪の場合は北海道へ帰すことになってもせめて瀬奈に傷をつけずに帰したいという思いからだった。AMコンサルティングとも森山聡とも何の関係もなかったと言えるように。事実そうしている。まだ婚姻届は出さないでいるのだから……。
この2週間ほど、会社は混乱を極めていた。
聡は会社の危機から脱するために文字通り寝食を忘れて出来る限りの手を模索していた。過去に遡って経理書類を徹底的にチェックする。経理部長や他の社員にも手伝わせたがほとんどは聡と三田のふたりが中心で行った。
もし粉飾決算がされていたら専門家が入念に調べれば見抜けるものだ。
本当にされていたとすれば。粉飾決算というものは故意にすることだから、もしそれをやるとしたらそれは会社のトップが知らないでは到底出来ることではない。しかし今回はそれが疑われている。聡の会社が調べられるように仕向けられている。
もし国税庁などに調べられてあるはずのないと思っていたものが出てきたら。粉飾決算よりももっと最悪なものが隠されていたら。そんなことにならないように三田は徹底的に調べるという。これ以上足元をすくわれるわけにはいかない。
瀬奈は聡のいない昼間に寝室の掛け布団を書斎に置いておいてやろうとドアを開けようとしたがドアには鍵がかかっていた。今まで聡のいない時に書斎へ入ろうとしたことはない。では聡さんはここへは勝手に入ってもらいたくはないのだろう。
夕べ瀬奈が入ったことをどう思っているのだろう……聡さんはわたしをどう思っているのだろう……。
また1日が過ぎてゆく。
何の変化もない1日に瀬奈はじっと耐えるように待っていた。その夜も遅くなっても帰ってこない聡を待つのも諦めて眠ってしまったが、眠りに落ちる時にかつて札幌で初めて会った時の聡の様子が夢のように思い出された。夢だったのかもしれない。
初めて会ったあの時のちょっと驚いたような聡の表情。背の高い黒いコート姿で……。
どうしてあの時聡さんは驚いたような顔をしたのだろう……。
それからどのくらい時間がたったのか、何かに気がついて反射的に目が覚めた。聡が横に 眠っている。
驚いて上半身を起こす。が、聡は寝息を立てて眠りこんでいる。暗いフットライトの明かりに陰影のついたその彼の表情はやはりひどく疲れているようだった。
「…………」
聡はパジャマを着ていた。では、ちゃんと帰って来たのだ。何時に聡が帰って来たのかわからなかったが瀬奈を起こしもしないでいつのまにかベッドで眠っている。こうして瀬奈に見つめられているのに気がつきもしないで。
どうして今夜は書斎でなくてここに寝ているのだろう。どうしてだろう……。
瀬奈は聡を起こしてしまわないように気をつけながら起き上がってベッドへ座りなおすと聡の顔を眺めながら考える。
……何も起こらない毎日。
聡さんはわたしをどう思っているのだろう。どうして……どうして……。何度考えてもわかるはずもなかったが、瀬奈にはそれを聡に聞くことが出来ない。
もしかしたら私たちの結婚は聡さんの望まないものだったのかもしれない。わたしが知らな かっただけで取り引きかなにかで結婚したのかもしれない。本当はわたしのことは何とも思っていないのかもしれない……。
結婚前にわたしへ言ってくれたこともわたしへの思いやりみたいなものだったのかも。 あの車の中で言ってキスしてくれたことも……。
けれどもそれを聡に聞くのが怖かった。聡がそうだと言ったらもう札幌へ帰されるのだろうか。もしそうなったらどうなるだろう? 瀬奈にはそんな現実が来そうで怖かった。この結婚がうまくいかなかったらどうなるのだろう。
叔父の会社は……そしてなによりわたし自身は……?
次の日はやはり聡のほうが瀬奈よりも早く起きていた。聡は意識的に早起きしているらしい。あんなに遅く帰ってきているのに。それでも瀬奈は朝食の時間に黙って食べている聡にやっと東郷という客が来たことを話すことができた。
「東郷? 東郷が来たのか?」
さっと聡の顔色が変わったが、瀬奈は気がつかなかった。
「はい、言うのが遅くなってごめんなさい。あの」
「いつだ? 東郷はいつ来た?」
「あの、4月30日に……聡さんがアメリカへ出張中に。ご挨拶だと言われて……」
「何を言った? 東郷は君に何を言ったんだ!」
ものすごい顔つきで聡に見られているのに気がついて瀬奈はびくりとする。聡の剣幕に瀬奈の言葉が出てこない。
「東郷は何を言ったんだ!」
あっけにとられて聡の顔を見る。怒っている聡の顔。わたし……わたしに……。
「瀬奈!」
「あの……別に……何も。ご挨拶だと。聡さんが忙しいのをご存じだと」
「ご存じ? 東郷が知っているだって?!」
聡が吐き捨てるように言った。
それは東郷へ向けられた言葉だったが、瀬奈には自分が非難されているように感じられた。いつにない荒っぽい聡の言い方。顔つき。どうして、どうして……。
「瀬奈、あいつがまた来てももう会う必要はない。会うな」
「…………」
「瀬奈、聞こえたか?」
「……はい」
「ならいい」
途中の朝食を残してくるりと背を向けて聡は出て行ってしまった。
どうして……勝手にあの東郷という人と会ったのがいけなかったんだろうか。聡さんに言うのも遅くなってしまったのがよくなかったんだろうけど……だけど……だけど……。
自分の部屋へ入ってうっと口をおさえた。泣き声が外に聞こえてしまいそうで。 だけど……だけど……。
瀬奈にはわからなかった。聡がどうして怒っているのか。理由を言って怒ってくれるのならまだいい。でも頭ごなしにああいうふうに言われて。
わたしには理由も言ってくれないの……わたしはいったい何なの……?
ひとりで昼食の席へついても全く食べる気がしない。じっと座ったまま並べられた皿を見ていた瀬奈へ川嶋が遠慮がちに近づく。朝からの瀬奈の様子に川嶋はもう心配そうな様子を隠しもしない。
「あの、奥様、旦那様はお仕事のことは私たちにはお話しにならないのですが、今、旦那様はとてもお忙しいらしいのです。ちょっと三田に聞いたのですが、ですから……あの」
「はい、わかっています。川嶋さん」
「奥様」
「ほんとうに聡さんはお仕事が大変そうですもの……わたしみたいなお荷物が家にいても何もできないけれど……」
「お荷物だなんて」
川嶋があわてたように声を大きくした。
「奥様がそんなふうに考えてはいけません。奥様をここへ迎える準備を旦那様がどんなに熱心にしていたか。とても楽しそうでした。少しでも奥様が気に入ってくれるようにとおっしゃって。だから今は時期が悪いのです。
もう少ししたらきっと旦那様のお仕事も落ち着いてきますよ。今度の日曜日はお休みらしいそうですから」
「……お休み?」
「はい、さっき運転手の笹本が寄ってそう言ってましたから。旦那様から奥様へお伝えになる前に私が申し上げてしまったことは内緒ですよ、奥様」
「ありがとう、川嶋さん」
川嶋がにっこりと笑って食事を勧めてくれた。
「奥様に暗い顔は似合いませんよ。せっかくの美しいお顔なのに。さあ、どうぞお昼を召し 上がってください」
そうは言ってもこの人たちは知らないのだ。まだ聡さんとわたしが本当の夫婦ではないことを。聡さんはわたしを避けている。
2008.04.10
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