窓に降る雪 4

窓に降る雪

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 それから1週間ほどして寮の三生のところへ父から電話がかかってきた。いつもは三生から電話をするので父からかかってくることはめずらしい。
『昨日、白広社の社長から電話があってね』
 三生の心臓がどきんと波打つ。
『おまえがパーティーの日に送ってもらった人だよ。あの記者に会った後で』
 記者のことは翌日、家で父に話していた。高宮に送ってもらったことも。
『高宮君というそうだが、彼がおまえとつきあいたいと言っていたよ』
「え……」
 三生は返事に詰まった。
 つきあいたい……わたしと? 確かに会いたいとは言われたけれど。
『三生?』
「あ、はい。どうしたら……いいと思う?」
 電話の向こうで父が笑った。
『決めるのはおまえだよ。おまえも高校生なんだから。彼はふざけているとは思わないがね。自分で決めることだよ』
 アメリカの大学を出ているせいか父はこういうところは割り切っている。
 あのあと、家について車を降りた三生を玄関まで送りながら高宮は三生を気遣ってくれていて記者に会う心配はもうなかったが、暗い家の玄関のカギを開けて中へ入るまで見守ってくれていた。
「ありがとうございました」
「おやすみ」
「おやすみなさい。あの、高宮さんもお気をつけて」
 大丈夫というふうに高宮が片手を上げた。今も憶えている。


 三生は机の引出しにしまってあった手帳から名刺を取り出した。高宮の名刺だ。

  白広社 代表取締役   高宮 雄一

 裏を返すと手書きの番号が書いてある。携帯電話の番号でこっちに電話してほしいと彼は
言っていた。
 でも、つきあうのに父親に申し込むなんてするのだろうか。お父さんじゃなくてわたしの気持ちはどうなのよ? 冗談っぽく考えながら不思議と強引とかいやな感じはしなかった。なぜだろう。
 三生は時計で時間を確かめた。夕方の5時だから仕事は終わっているだろうか。まさかそんなにヒマではないだろうけれどこの時間なら電話で話すくらいはできるだろう。
『はい』
 電話に出た声はひと言だけだったので三生は一瞬、声の主が高宮かどうかわからなかった。
「もしもし、あの、吉岡です」
『吉岡三生さん? ああ、よく電話してくれたね。学校から?』
「はい、寮から。あの、今、お忙しくないなら」
『大丈夫』
「日曜日はお休みですか? もしよかったら上野の美術館へ行きませんか?」
『……もちろんいいよ。何時? 迎えに行くよ』
「あっ、いいです。寮だから。あの、駅で待ち合わせでいいですか? じゃあ10時に……はい」
 電話を切って三生はふーっとため息をついてしまった。ちょっと後悔するような、でも楽しみでもあるような気持ちだった。

 金曜日の授業を受けると放課後、日曜日の外出届を出す。ちょうど尋香も外出届を出しに来ていた。
「みおうー、三生も出かけるの?」
「うん、上野で近代日本画展をやっているからそれに。尋香は仕事?」
「ううん、レッスン。もう土、日両方よお。打ち合わせもあるし。それがなければ私も三生と一緒に行きたかったなあ」
「また今度ね」
 答えながら三生は尋香に一緒に行くと言われなくてよかったと内心思っていた。今までも尋香が暇なときは三生が誘って時々美術展に行ったことがある。

 日曜日、三生はいつもの通りひとりで寮を出て電車を乗り継ぎ約束の駅へ向かった。混んだ電車には慣れていたが上野駅で高宮に会えるかだんだんと心配になってきた。上野駅はいつも人が多かったし、駅の外はごみごみした感じで三生はあまり好きではない。 いつもは駅を出てさっさと上野の美術館のあるほうへ歩いて行く。美術館のまわりは静かで美しい公園に囲まれていた。
 上野でどっと降りる人に流されるように改札へ向かう。高宮はもう来ているだろうか。改札をぬけて見回すとすぐに彼が見つかった。スーツにネクタイ姿だった。大勢の人がいる駅の中でも高宮のスーツ姿はかなり目立っていた。高宮さんたらスーツが決まりすぎてるよ。
 三生に気がつくと高宮は右手を挙げて合図する。ジーンズにTシャツの上にコットンのシャツ姿の三生を見てちょっと困ったような表情。
「スーツでないほうがよかったかな」
 高宮が言うのを聞いて三生は笑って首を振った。
「ううん、別に変じゃないよ。日本画展だから見に来る人の平均年齢は高いかな」
「日本画が好きなの?」
「日本画も好き。他も好きだけど」
 高宮が日本画展に来るのは初めてだったが静かな美術館の中が混んでいることに内心驚いていた。確かに観客の平均年齢は高いようで中高年の男女が行列を作っていたが、学生らしい若い男女も大勢いた。皆、ラフな服装とは裏腹に真剣に絵に見入っている。 どうやらかなり有名な画家たちの作が集められた展覧会らしい。高宮にも見覚えがある大きな花の絵や美人画がいくつもあって、そういった絵の前では来場者たちがゆっくりと鑑賞するために列の進みがとてもゆっくりになるが、皆、静かに辛抱強く自分が絵の前に進むのを待っている。
 三生と並んで列の中をゆっくりと進む。彼女も熱心に見ているが時々小声で話しかけてくる。 今日は混んでいるねとか、この絵は見たことがある? といったふうに。そのたびに高宮は
ちょっと耳を近づけてふたりは肩が触れない程度に並んで歩いていたが三生が時々高宮の顔を見上げる。
 展示会場を出たところにはパンフレットや絵ハガキなどを売るコーナーがあり、三生が足を止めてそれらをながめていると高宮が今日の日本画展の冊子を1冊買って「はい、どうぞ」と三生に手渡した。
「え? いいの?」
「今日誘ってくれたお礼だよ」
「……ありがとう」
 展示会場を出たので普通の声の大きさで話しているのが高宮には耳を近づけられなくて残念だった。

「君、昼食はどうするの? 予定ある?」
 予定? どこで何を食べるかってこと? いや、誰と食べるかということかな。ビジネスランチってやつ? この人にとっては昼食って予定に組み込まれるものなんだろうか……。三生は考えながら答えた。
「いつもはサンドウィッチやおにぎりを買って公園で食べたり。どこかお店で食べることもあるけど、予定なんてないよ」
「よかったらごちそうさせてもらえないかな。悪いけど2時から仕事なんだ。断れなくてね。そのおわびに」
「えっ、いいよ。いいです。さっき本をもらっちゃったばかりだし」
 三生はあわてて言った。
「ごめんね。仕事だったんだ。そうじゃないかと思ったんだけど、もしかして無理して来たの?」
 高宮のスーツ姿を見ながら言う。ブランドものらしいスーツだった。典型的なビジネスタイプのデザインのスーツだったが細身で背の高い高宮にはよく似合っていて近くで見ると余計にスーツの高級さがわかったが高宮自身も服に着負けしていない。
「あそこの売店でなにか買わない? わたしはそれでいいから。あ、あそこのベンチが空いているから高宮さん、座っていて、早く。売店へはわたしが行ってくるから」
 三生はそう言って振り向きながらベンチを指さして売店へ向かって走って行く。
 言われたとおりに高宮がベンチへ腰をおろして待っていると三生が売店から走って戻ってきた。律儀に高宮が立ち上がって迎えると三生は彼と並んでベンチへ座った。
「はい、お待たせ」
 袋にはパックのおにぎりとペットボトルの飲み物が入っている。
「私が払うのに」
「ううん、いいの。日曜日も仕事なんて大変だね。わたしが急に誘っちゃったから」
「いや、君から電話をもらえてうれしかったよ。今度は私から誘ってもいいかな」
 ペットボトルを手にした三生の顔がかすかに赤くなった。
「寮に電話されると困るけど……携帯は持ってないし。禁止なんだ」
「それは困ったね。どうしようか」
 ふたりは顔を見合わせた。
「またわたしから電話する。それじゃあだめ?」
「いいよ、もちろん。待っている」
 高宮が笑った。今日初めて見る彼の笑顔だった。
 高宮は上着を脱ぐとワイシャツ姿でおにぎりを食べはじめた。ぴしっとプレスの効いたシャツの袖口から彼のはめている腕時計がちらりと輝く。
 三生はじっと高宮の様子を見た。おにぎりなんていやがるかと思ったら案外気取ってないんだ。

「高宮さん」
「ん?」
「学生のころは何かやっていた? スポーツ」
「バスケをやっていたよ。中学、高校、大学とね。T企画の若林は大学のときの同級生で同じクラブ」
「え! 若林さんと同級生?」
「何だ、その言い方は気になるね」
 高宮がわざと咎めるように言う。
「えっと、あの、高宮さんのほうが年上に見えたので」
「はは……年上か、まあそう見えてもしかたないか」
「あ、ごめんなさい、気にしないで。若林さんはいつもカジュアルな服装だから」
 こんな会話をしていると高宮には三生は地味な普通の高校生に見えた。化粧もしていないしラフな服装はシンプルすぎて甘い女の子っぽさもないからかえって年上に見えた。今どきの高校生ならもっと遊びのあるおしゃれをするだろうが三生には似合わないだろう。 だが高宮はそんな三生の素っ気ない姿が嫌ではなかった。
「今日は美術館なんて興味がなかったですか?」
「日本画展は初めて見た。いいものだね。それに公園のベンチに座るのも学生のとき以来だよ」
 三生が目を見張った表情。
「売っているおにぎりも? 初めて食べた?」
「まさか。コンビニのおにぎりくらい食べたことあるよ」
「社長さんならいつもレストランで食事するとか」
「そんなことあるわけないだろう。男のひとり暮らしだからね、食事なんて適当さ」
 三生がふわっとした笑顔を浮かべた。整った顔が笑うと年相応に見える。

 この子……。
 しっかりしていて人を寄せ付けないような雰囲気もあるのに笑顔がとても自然だ。外見から受ける硬質な印象とはまた違って柔らかく気取りがない。たぶんこれが彼女の素なのだろう。 高宮のまわりにいるようなビジネストークに染まった大人たちとも違う。なんだか三生がはるかに年下の気がしなくなってきていた。
 こんな子、初めてだ……。

 高宮は大学を卒業して以来、夢中でやってきた。卒業後は2年ほど叔父の会社で働き、その後専務として白広社に入り祖父から引き継いで社長になったものの若い高宮にとっては一時も気を抜けなかったし、祖父の後ろ盾がなかったらやってこれなかっただろう。 自分の仕事だと感じられるようになったのはここ2年ほどのことで、それまでは季節を感じる暇さえなかったほどだ。大きな波に押されるように仕事をこなしてきた。もうそろそろ自分のペースで歩いてもいいだろう。
「また会える? 会いたいんだ」
 口に出してそう言ってみると三生がちょっと驚いた顔をした。
「高宮さん、さっき待ってるって言ったばかりなのに」
「そうだった」
 高宮は自分から電話できないのがつらい状況に感じられてきた。


2007.09.11

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