白い花 前篇

白い花

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前篇


「ねえ、どうしたの?」
 服を着ながら由利子が聞いてくる。
「何でもねえよ」
 半田は携帯電話を切った。由利子の部屋のベッドから起き上がる。
「編集長、何て?」
「客が来てるそうだ。ちょっと行ってくる」

「高宮っていう男が来ているぞ」
「たかみや……」
「白広社の社長だと言っている。ほんとかね」
「……ああ」
 その男なら知っている。三十そこそこ、まだ若い男だ。自分と比べたら。

 編集部へ来ると編集長が待っていた。
 テーブルやソファーの並べてあるほうへあごをしゃくる。テーブルとソファーは応接コーナーとは名ばかりで、打ち合わせをしたり飯を食ったり、仮眠をしたりするために使われるほうが多い。 申し訳のように手前に置いたついたてには古いポスターが貼られ、テーブルの上はいつも新聞やティッシュの箱などが置かれている。そして煙草の匂いのしみついたそのソファーにひとりの男が座って待っていた。
 一緒にくっついてきた由利子がちらっと客の男を見て流しのほうへ入っていく。きっと茶でも出すんだろう。由利子はこの雑誌編集部の編集助手兼事務員だ。 そして半田は記者、芸能人や財界人、スポーツ選手など、とにかく有名人なら誰でもいいスキャンダルやスクープ写真を載せるこの雑誌の記者だった。

 黙って客の男の前へ立つとその高宮という男は立ち上がってじっと半田を見てきた。挨拶もなしだ。あたりまえだろう。 今、半田が追いかけているのはアメリカの人気女優がかつて日本人の夫との間に産んだ娘の存在だった。そしてまだ高校生のその娘の恋人が目の前にいる若い会社社長だった。
 若いといってもそれは半田から見てで、高校生から見たら当然おっさんだろう。しかし金は
持っている。なにしろ業界では三本の指に入る広告代理店の社長なのだから。すっきりとした長身に上等なスーツ。 ブランドロゴの目立つようなものは身につけてはいなかったが、ネクタイもシャツも腕時計もさりげなくいいものばかりだった。半田のような男にもそれがはっきりとわかる。
 さっき編集長から白広社の社長が来ていると言われて、どうせ大会社の社長だ、弁護士か代理人が来るんだろうと思っていたが本人が来るとは驚きだ。

「半田さんですね。高宮です」
「ああ、存じ上げていますよ。どうぞ」
 半田が腰をおろしたので高宮も座った。
「何のご用でしょう?」
 しらっと言った。
「あなたが取材している件です。手を引いてもらえませんか」
「どうしてでしょう」
「彼女は私の恋人だからですよ」
 単刀直入な答えに半田は笑った。
「こちらも仕事ですから。アメリカの人気女優に日本人との間に生まれた娘がいる。それだけですごい記事になる。でしょう?」
「彼女は芸能人でもなんでもない。まだ高校生です」
「彼女はそうでも彼女の母親が女優なんだ。しかたがないでしょう」
「彼女の生活、彼女の将来のためにやめて欲しいとお願いしてもですか」
「彼女の将来というならあんたこそどうなんです? 高校生である彼女と遊んでいるじゃないですか」
 半田は決めつけた。
「遊びではありません。いずれ結婚します」
「へえ、結婚? そうせざるをえなくなったということですか? このあいだ彼女がおたくの会社へ行ったでしょう。青い顔して気分が悪そうだった。つきあっている女が高校生でもなんでも青い顔して会社まで押しかけてくるっていうのはただ事じゃあない。 誰だって妊娠したって考える。まあ結婚されるのはあなたの自由です。結婚しなくても金で堕ろさせて解決するか。それとも愛人にでもしますか。そうなったらなったでまた取材させてもらいますがね」

 半田には取材をやめるつもりはさらさらなかった。
 これまでも取材をやめて欲しいと言われたことが何度もあった。愛人にインサイダー取引をさせた会社社長、セクハラを金で握りつぶそうとした高級官僚、詐欺の商売をして訴えられたのを逆ギレした俳優……。いずれも本人から言われたことはなかった。 代理人がものも言わずに札束を置く。逆に脅されたこともある。しかし半田はやめなかった。 黙って金を受け取ればその方がはるかにいいと思えるような事件でも容赦なく記事にしてきていた。この目の前の男もどうせ金で解決したいというのだろう。それともなにか圧力でもかけてくるのか。まったく金を持っている連中ときたら。

 怒るかと思ったが高宮という男は平静だった。
「彼女がおとなになったら結婚するということです。それまでは、いえ、それからも彼女は私が守る」
「守る? 高校生を妊娠させといて……」
「妊娠などしていませんよ」

 半田は黙った。
 てっきり妊娠しているのかと思っていた。最近では中学生だって妊娠なんて珍しくもない。少し前なら援助交際、今なら出会い系サイト。要するに売春、買春だ。ミッション系の、しかも全寮制の堅い女子高の生徒のくせによくやるよと半田はあの女子高生のことを思っていた。母親の女優とは違った印象の女子高生。 外見からはとてもそんなふうには見えなかったが今時の高校生なんて誰でも同じだ。 半田はそう決めつけてあの日、帰り道の彼女をつかまえて言ってやった。

 高校生のくせに会社社長とつきあうなんて……
 あれくらいの会社の社長ならパトロンとしても……

 ひどい言い方だった。だが、自分の言葉と同じくらいこいつらもひどいやつらだと思っていた。好き勝手なことをしている。カネがあれば許されることだと思っているのか。この目の前の男のカネのかかった服装ときたら!

「あなたは交渉には応じないということですね」
「そうです、社長さん」
 半田はわざとらしく言う。が、高宮は静かに続けた。
「私は彼女を愛している。男として彼女を守りたい。だからお願いしているのです。私は金を出すことも圧力をかけることもできます。でも彼女のためにそれはしたくない」

 かちゃ、と小さな音がして茶が高宮の前へ置かれた。続いて半田の前へも。 由利子は半田がいつも使っている湯呑へ茶を淹れてくれてある。由利子が何か言いたげに半田を見ている。珍しく批判的な目つきだった。由利子だって同じ編集部にいて半田ともう二年も男女の関係ならばいまさら半田の仕事をどうこう言っても無駄なことくらいわかっているのになぜそんなふうに俺を見る?
 それにこの男、彼女のためにそれはしたくないだと? 何を寝ぼけたことを言っているんだ。そう言われてはい、そうですかと引き下がれるのならこっちは苦労はしないよ。
 半田は嫌みついでにさらに言った。
「彼女が妊娠していないと言いましたね。じゃあラッキーでしたね」
 ここで殴ってくるほど骨のあるやつならばまだマシだが。

「私はまだ彼女を抱いていませんよ」
 高宮は穏やかに言った。

 デスクの向こうで由利子が目を見張ったのがわかった。由利子よりも若い男が挑発にも乗らずこんなことを言ってのけたのだ。この男、おとなしそうな顔をして言ってくれる。ぼんぼん育ちの若造のくせに。もしかしたらとんでもない食わせ者か?
 由利子の隣りでは編集長が何か変な物でも口にいれたような顔をしている。半田が見ているのに気がつきながら編集長はなかなか腰を上げなかった。
「高宮さん」
 半田が沈黙しているのでやっと編集長が近寄った。
「われわれとしても損得だけでこの仕事をやっているわけじゃない。しかしあなたの気持はよくわかりました。恋人のためにここへ乗り込んで来たのはあなたが初めてだ」
 その通りだったが。
「社長さん、話は終わりだ」
 半田が一方的に告げると高宮は静かに立ち上がって出口へと向かった。ドアまで送りに出た由利子に軽く会釈をして出て行ったのを半田は苦い視線で見ていた。
「編集長、あいつ、あんたに何か言っていたかい?」
「うん? まあ、聞いといたよ」
「だから何て」
 編集長は答えず、
「なあ、半田。こんなことをお前に言うのは初めてじゃないよな。今回の件は諦めてくれ」
 あの高宮という男、やっぱり買収かなんかを持ちかけていたのか。俺に言わずに編集長へ言うあたりよくわかっているみたいだな。
「たかが高校生の女の子になぜこだわる? 今までのお前のターゲットとは毛色が違うだろ」
「さあね」
 半田は面倒臭くなってきてそう言うと編集部を出た。

 たしかにアメリカの女優の娘の存在なんて半田が追いかけるようなことではない。隠し子なんていうならともかく、正式に結婚してできた子どもだ。ただその後うまくいかなくなって別れているだけ。
 半田はその女子高生の姿を見に行ったことがある。友達らしい何人かと歩いていた。学校の灰色の制服。襟なしの上着からは白いブラウスの丸い襟が出ていて襟元には水色のリボンタイが結ばれていた。スカートは上着と同色でセーラー服のスカートのようなひだのあるやつ。 なるほどミッション系の女子高らしい清楚な制服だったが、この学校の生徒たちは他の女子高生たちがやるようにブラウスの胸元をあけてタイをゆるめたり、スカートを太ももが見えるほど短くしたりするような着崩しをしていなかった。
 楽しそうに話しながら歩いていたきちんと制服を着こなした生徒たちはまるで風にさざめく白い花のようだった。アメリカの女優の娘というその娘も。

「編集長、何だって」
 車で煙草を吸っていると由利子が乗ってきた。
「今回はだいぶ厳しいみたいよ」
 編集長は俺には愚痴らないが由利子には言う。
「これ以上借金を増やしたくないって」
「それで高宮は何と言った?」
「それがね、取引めいたことは何にも言わなかったって。ただ以前にS興業の記事を書いたのはあなたかって聞いたんですって。編集長がそうだと答えると、半田さんは男気のある人です
ねって言ったそうよ」
「あいつに褒められても、うれしくともなんともねえよ」

 S興業。
 その会社の買収問題の記事を書いたおかげでこっちは嫌がらせやら脅しやら、さんざんいただいてしまっている。会社なんていっても絡んでいるのはヤクザマネーだ。
 この記事の時も確か編集長は記事にするのはあきらめてくれって言ってたな。半年も前の記事だがあれ以来S興業のさまざまな妨害のせいでもう、うちの社は危なくなっている。どこからも資金援助など受けられないのだ。 売れる芸能ゴシップでも取材すりゃいいだろうと思って俺はなぜかあのアメリカ女優の娘の件にはまりこんでしまった。
「案外、俺の記事と引き換えに編集長のほうから高宮に泣きつきたいところ、か」
 まあ、あの編集長ならそれはすまいが。
「まあね。つぶれちゃったらおしまいでしょ」
 半田は黙って煙草を吸っていた。資金繰りが厳しいのは毎度のことだし編集長だってどんな買収にも脅しも相手にしないでこれまでやってきたのだ。しかし今回はもうだめだろう。

「ね、その女子高生の父親って大学の助教授だったんでしょ?」
「ああ、今は作家に専念しているらしい」
「ミッション系の全寮制の女子高校かぁ。……お嬢様なのね」
 由利子の死んだ父親も大学の教授だった。由利子も大学を出て一流の出版社に勤めていたキャリアがある。結婚して子供も生まれたが夫とうまくいかなくなり、ごたごたからノイローゼのようになって会社を辞め、結局子供の親権も夫へ渡してしまった。 その後何年かして半田のいる雑誌の編集部に入ったのだ。
「お前まで俺に手を引けっていうのか」
 由利子はうっすらと笑った。
「そう言ってもあなたは聞かないでしょ?」
 ふん、と言ってエンジンをかけて由利子を自宅まで送ってやった。さっき編集長に呼び出されるまでふたりで抱き合っていた部屋だ。
「寄ってく?」
 由利子がそう言ったのは初めてだった。
 いつも抱き合うだけの部屋。半田は好き勝手にやってきて由利子を抱いていた。 由利子はいつもおとなしく抱かれている。半田が仕事で苛立っていても、腹立ちまぎれで何も言わずただ由利子を抱いて欲望を満足させて帰っていっても何も言わなかった。
 このところS興行がらみで由利子の部屋へは行かないようにしていた。チンピラのような男につきまとわれたり、監視されているような気配があったからだ。編集長からも気をつけろと言われていた。
 だから久しぶりに由利子を抱いていつもより確かに由利子は半田に精いっぱいしがみついてきていた。半田もそれを感じていたが、いや、感じていても何も言ってはやれなかった。

「お前、俺のこと好きなのか?」
 すでに由利子は裸で半田の体の下に組み敷かれている。
「さっきは邪魔されてしまったからな。今度は……」
 半田の手の動きに由利子の体がびくりと反応した。
「あ……っ……」
「俺のこと待っていたんだろ? このところご無沙汰だったから。ん?」
 ざらっとした半田の無精ひげに由利子は身をよじった。
「そう……そうよ……待っていたの……だって……」
 しかし半田にはもうそれ以上由利子の言葉を聞く気はなかった。体だけが動いてしまう。それを半田はどうすることもできない。

「S興業が変なことをしそうだから私のところへ来なかったんでしょ?」
 やっと息が落ち着いた由利子がつぶやく。
「あ? そんなこともないけどな」
 中途半端な答えしかできない。
 俺はそういう男だ。好きな女に好きと言えない。どんなに体を抱いても。男気なんてないさ。高宮が言ったというその言葉を苦く噛み締める。
「まあ、なるようにしかならんだろう」
 また由利子のところへ来ることができるだろうか。それは自分でもわからなかった。

後編へ続く


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