冬、二夜 2


冬、二夜

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「はあー」
 寝心地の良いベッドだったが服を着たままだった。起き上がった尋香は黒いワンピースを脱ぎ捨ててストッキングも脱いでしまった。小さな常夜灯のような明りのついている部屋を見回すと枕元に客用らしいパジャマが置いてあったのでそれを着た。
 暗くてもわかる、まだ真新しい感じのする部屋の中。高宮が三生と結婚後に住まいを移した新居へ来るのは尋香は初めてだったが、落ち着いた内装や家具はいかにも高宮と三生にふさわしい家だった。

 尋香はまた、ため息をついた。
 若林は酔っぱらったわたしに困っているようだった。

 瑠璃が今、つきあっているのは有名な俳優を親に持つ若手俳優で、昨日会っているところを写真週刊誌に写真を撮られてしまった。
「別にかまわない。むこうが言い寄ってきているだけだもの……」
 その若手俳優は瑠璃の素っ気ない態度が続くのがかなり頭にきているらしい。言い合いになりそうだったが、そもそも言い合うほどの気持ちは瑠璃にはない。 でも写真週刊誌に載れば騒がれるだろう。それはどうでもいいと思っていたが、問題なのはT企画の社長の若林だった。
 今までも瑠璃が誰かとつきあうたびに若林は「良く考えろ」とか「まだ早い」とか言ってきた。それはつまりダメということだ。若手女優ではナンバーワンと言われている瑠璃に恋愛ごとはまだダメだと言っているのだ。見た目のたおやかさと裏腹にはっきりとした言動の瑠璃はそのたびに若林へ文句を言ってきた。 無理に別れさせられるようなことはされなかったが、これまでつきあった男たちとは皆、長続きしなかった。若林はそれもわかっていたのだろうか。
「ふん! なによ」
 調子がいいくせに芸能プロダクションの社長として抜け目のない若林。有望な若手を大事に育てている。わたしもそんななかのひとりなのだ。あの人にとっては……。


 翌日、目を覚ました尋香がパジャマのままドアを開けて出てきた。
「おはよう、起きた?」
「うーん、三生、お水ちょうだい」
 尋香はリビングのソファーへ座り込むと三生の持ってきてくれたコップの水をごくごくと飲んだ。
「高宮さんは?」
「とっくに仕事よ。尋香はゆっくりしていけばいいって。今日は休みなんでしょ?」
 尋香は返事をしなかったが、立ち上がってキッチンの三生のそばへ来た。
「それ、美味しそう」
「食べるでしょ? さあ、座って」

 三生がホットケーキと果物やヨーグルトをテーブルへ並べると尋香と向かい合って座った。
「いただきます」
「はい、どうぞ」
 神妙に言うとふたり一緒に笑いだした。高校を卒業して以来、こんなプライベートで一緒に過ごすことはなかった。ホットケーキへメープルシロップをたっぷりかけて尋香が頬張ると、ふたりとも高校時代の寮生活を思い出してくすくすと笑いあった。

「尋香は今日、どうするの」
「どうしようかなあ。もう少しいてもいい?」
「いいわよ。わたしは午前中にちょっと出かける予定があるんだけど、午後はあいているから」
「大学?」
「ううん、大学はもう来月の卒業式だけだもの」
「ふーん……、そうなんだ」
 尋香は食べ終わって三生の置いてくれた紅茶のカップを引き寄せた。
「三生は大学卒業したらどうするの」
「うん、大学院へ行くことは決まっているんだけど一年は休学しようと思っている」
「やっぱり休学するんだ」
 三生は紅茶を飲んでいる尋香の顔を見たが、尋香はそっぽを向くように横を向いていた。形の良い唇がちょっと突き出されている。
「あーあ、わたしも結婚したくなっちゃった」
「若林さんと?」
「まあね」

 意外に素直な尋香の言葉。奔放そうなふりをして、でも軽はずみではない尋香。そんなかなりわかりにくい尋香にきっと若林は手を焼いているに違いない。自分に正直で、でも素直になれない尋香。
 三生は中学生の頃からT企画に所属している尋香を知っている。尋香がバレエのレッスンに行っている時に若林にスカウトされたことも。その時はまだ尋香は中学生になったばかりだった。それから中学、高校と若林は少しずつ尋香に仕事をさせてきた。尋香が高校を卒業しても引き続き演技を学ばせて映画でも舞台でも通用するものを身につけさせている。それは尋香自身の希望でもあったけれど、 人気を得るために手っ取り早く最初からテレビのドラマへ出したりしないのは若林の戦略でもあった。女優としてはこれからが大事な瑠璃だから彼女を育てていく若林にもいろいろと思うことがあるのだろう。

 尋香は立ち上がってテーブルからソファーのところへ戻るとリビングを見回した。
「いい家ね」
「ありがとう。尋香、もっと早く遊びに来てくれたらよかったのに」

 高宮と三生の新しい家のことは以前に三生から聞いていた。ふたりは結婚してから半年後にこの家を建てて、それまで住んでいた高宮のマンションから引っ越していた。
「高宮さんは三生との結婚が決まった時から家を建てるつもりだったんじゃないの。でなきゃこんなに早く建てられないわよね」
「そうみたい。わたしに話してくれた時はもう土地も準備してあったし」
「三生のことだからマンションでいい、新しい家なんていらないって言ったんでしょ」
「……なんでわかんの?」
 欲のない三生に尋香は笑った。


 三生は以前からそうだった。
 整った顔と170p以上ある身長にバランスの良い体型で、本気を出せばいくらでもそれを目立たせることができるのに、三生の興味はおしゃれとか持ち物とかそういうことにあまりなかった。 もったいない、と尋香は心の中で思っていてもそれを三生へ言わなかったのは三生が周りに流されないものを持っていると思っていたからだ。それは尋香も同じだった。ふたりとも高校生の頃から自分のやりたいことがわかっていて、お互いが早く大人になりたいと思っていた。だからこんなに性格の違う三生と尋香でも友だちでいられたのだと尋香は思う。

 高宮と結婚してもあまり変わったようには見えない三生。
 三生は今年は休学するが大学院へいって勉強を続けることにしているという。それは高宮とふたりで話し合って決めたことなのだろう。頼りない三生ではないけれど、高宮は三生にとってかけがえのない人だと尋香にも感じられる。愛し合うというのはこういうことなのだろうか。 出会いからいろいろなことがあった三生と高宮だったが、尋香が知っている高宮は一貫して三生を愛し、それを態度にも表わしている。今はもうふたりは結婚して三生は高宮の妻なのだ。

 大学での勉強のことも、将来のことも、そして高宮さんのことも三生はいつでも真面目に真剣に考えている。それが三生が真に望むことだから、だから他のことにはあまり欲がないのだ。そんな三生に高宮さんは何と言ってこの家のことを三生に承知させたのだろう。あの高宮さんのことだから……。

 ゆうべ、わたしが抱きついても高宮さんは動じなかった。それに引きかえ若林は……。

 ちくりと痛いような気持ちが尋香の心に小さな陰を射す。
 三生はわたしの持っていないものを持っている。愛する人から愛されている幸せ。それを妬んだとしてもわたしにはどうにもならない……。

 今までどんな男とつきあっても本気にはなれなかった。みんなわたしの女優という仕事だけに、美しさだけに目を奪われる。若林にとってはそれはいいことなの? それとも……。
 今つきあっている男などどうでもよかった。会っていたレストランから出てくるところを写真週刊誌に撮られてしまったけれど、それもなかば予想していたことだった。このことを聞いたら若林はなんて言うだろう。わがままだと思われてもいい。もう、誰ともつき合うなと……。

   ……和彦のばか。わたしの気持ちも知らないで。
 でも、一番ばかなのはわたし……。



 ソファーで黙り込んだまま滲む涙を隠していると三生が腕を回してきた。
「尋香」
 何も言わずに抱きしめてくれる。中学、高校と同じ寮で生活していたけれどこんなふうに寄り添ったことはない。若くて、十代の未熟な悩みを抱えていた女子高校生だった頃でさえ。
「尋香、若林さんが好きなのね」
 三生が言うと尋香は素直にうなずいた。
 いつのまにか好きだった。言いたいことを言って、若林を困らせもした。十三も年上の若林に尋香の遠慮のない物言いが怒られもしたけれど、それでも若林は瑠璃の才能を大切にしてくれた。
 
 どうして、素直になれないのだろう。
 三生にはこんなに素直になれるのに。

 若林はいま一歩というところで踏み込んでこない。口ではいろいろと言っているのに。
 それは社長としての立場が大切だから……?


 三生のあたたかい腕に抱かれて尋香はじっとしたままだった。
「……ね、尋香、若林さんが迎えに来てくれるまで帰っちゃだめよ。午前中はわたしにつきあって。若林さんが迎えに来たとしても待たせておけばいいわ」
「彼は迎えになんて来ないわよ」
「迎えに来なきゃ明日の仕事へ行かないって雄一さんから言ってもらうのはどう?」
「……三生ってば策士ね」
 尋香は三生の顔を見た。三生も尋香も笑っている。
「わたしは仕事に関しては無遅刻無欠勤なんですけど。若林社長だってそれは知っているわよ」
「わかってる。仕事抜きで若林さんに迎えに来てもらうようにするから」


2009.08.25

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