桜風―あなたに伝えたい―


桜風 さくらかぜ ―あなたに伝えたい―

 目次



 地色が白に近い淡い桜色。その淡い淡い色の上に桜の枝と舞い散る花びらを描くんだ。そうだな、帯はちょっと渋めの七宝つなぎ文様で……桜の葉のような帯上げの色、帯締めは濃い紅色で引き締めて……最高の花嫁衣装だろ? そんでもって桜の満開の下、ここのお宮さんにお参りするんだ。それが咲紀(さき)と俺との結婚式さ……。
 楽しそうにそういう善弘(よしひろ)にわたしは困った視線を向けた。
 この境内はお花見客でいっぱいになるんだよ。遠くからもお花見に来るんだよ。そんな中で着物着てお参りだなんてすごい注目の的だよ。いやだよぉ。
 それもそうか……でも朝早くとかならいいんじゃないの。ふたりだけでさ……。

 ちいさな町の小高い山のふもとに建つ小さな神社。このあたりの氏神様でもあるその神社の背面の山は六百本を超えるソメイヨシノやヤマザクラでおおわれていて春はお花見客が引きも切らない。昭和四十年ころから始まった桜の樹の植林と遊歩道の整備がされて、桜の花の季節だけとはいえこの小さな町に似つかわしくない賑わいを見せる。 電車の窓からはところどころに白っぽいヤマザクラの花を織り交ぜてソメイヨシノのピンクに染まった山が見えて、 人々は電車を降り引き寄せられるように山の方へと列を作るように歩いて行く。開花予想は毎年三月末。ここは本州でも先駆けて桜の開花予想が出される。やがて一分咲き、三分咲き、と開花が進む頃には町は一年に一度だけのお花見気分につつまれて桜の山の周辺は浮き立つ。四月上旬の土、日曜日には地元町内会や商店会が出す店や屋台が神社の広くはない境内や参道にずらりと並び、 近所の子供たちは大人にうるさがられながら店々を飛び回りお菓子を買ったりする。
 わたしと善弘もそんな地元の子供だった。近所同士で幼稚園も小、中学校も同じ。毎年桜の季節には町内会が出すかき氷の店を楽しみにしていた、そんな子供だった。

 わたしと善弘は中学までは同じだったけれど、勉強のできる善弘は隣りの市の県下でもトップクラスの進学校へ進み、わたしはそれよりもずっとランクの低い学校へ通った。わたしの学校も隣りの市にあったから善弘とは時々電車で一緒になったがもう子供のように気軽に言葉を交わせるわけもなくいつも挨拶程度しかしなかった。 それでもわたしは自分の学校のほうが駅から遠いのに
こっそり善弘の電車の時間に合わせて遅刻ぎりぎりで学校へ飛び込むようなこともしていたが、たとえ「おはよう」の一言だけでも善弘と交わせるのがうれしかった。
 高校二年も終わった三学期の終業式の日、帰りの電車で珍しく善弘と一緒になった。わたしの学校も善弘の学校も県立高校だから終業式の日も同じなのだ。
「咲紀、今年もお祭り手伝うのか?」
 善弘は電車を降りて同じ方向にあるふたりの家へ向かいながらそう聞いてきた。さっき駅のホームから見た山はまだ桜の花は咲いてはいなかったが山全体が日一日と赤みがかってきているのがわかる。花芽がふくらんできているのだ。
「うん、手伝うよ。町内会の人にもあてにされちゃって、しっかりメンバーに入ってる」
 お祭り、というのは桜まつりのことで三週間ほどのこのお祭りの期間中の土、日曜日に町内会で出す食べ物や地元特産品の店を町内会で数人ずつ当番を決めて店番をする。中学生だった頃から母を手伝って一緒に店番に参加していたわたしはいまやすっかり一人前扱いだ。
「俺も手伝おうか」
「え、いいよ。善くん勉強が忙しいでしょ。東京の大学へ行きたいんだっておばさんから聞いたよ」
「だから今のうちにちょっとのんびりしたいんだ」
 子どもの頃から絵の好きな善弘は東京の美大を狙っていると聞いた。勉強もそのために頑張っているし、デッサンの勉強に毎月東京まで通っているという。高校二年の春休みでも店番の手伝いなんてそんな余裕はないはずだ。地元の短大への進学を考えているわたしと違って。 善弘はそんなことを知っているわたしにそれ以上手伝うとは言わずに
「じゃあ、四月の第一日曜に顔出すよ。またかき氷食おうぜ」
 と言った。
 小学生じゃあるまいしかき氷だなんて。でも町内会のおじさんたちが近所の子供にはサービスでイチゴ、メロン、レモン、ブルーハワイといったシロップを全種類かけてくれてそれが楽しくて四月の上旬はまだ肌寒い日がほとんどなのに子供たちはみんなかき氷を食べていた。

 善弘は言ったとおり日曜日にやってきた。わたしの当番が終わる頃にやってきたので善弘のお母さんにちゃんと当番の順番を聞いてきたのだろう。それからふたりでかき氷を買って、もう小さい子供ではないのにやっぱり町内会のおじさんはシロップの全種類がけをしてくれた。
「すげー、レインボーだな」
 善弘が笑って言う。
「善くん、今年は上まで登った?」
 わたしがかき氷を食べながら尋ねると善弘は首を振る。
「高校に入ってから登ってないよ。いっしょに行くか?」
「うん!」
 神社の背面の山の斜面には細い道があって桜の樹の下を山頂まで登っていける。山頂といっても標高差は九十メートルくらいで頂上にはちょっと開けた展望台のような広場があってそこもたくさんの桜の樹に囲まれている。

 たくさんのお花見客がその道を登っていた。斜面につけられた道は人がすれ違うのにやっとなくらいの急な登りだ。みんなお花見気分で登ってくるが、パンプスやサンダルでは登りにくいし、お年寄りにはしんどい道だ。 でも善弘とわたしは慣れた道でゆっくり登る人たちを追い越しながらひょいひょいと登っていく。
 途中で桜の幹が張り出して通りにくいところでは先に行く善弘が振り返って手を差し出した。黙って彼の手を握る。善弘と手をつなぐなんて一緒に通った幼稚園以来だ。 一気に登ったので山頂の広場に着く頃は少し息が切れていた。
「幼稚園の遠足も、小学校の遠足もここだったよね」
 小さな町の手軽な遊歩道だ。ふもとからは子供の足でも三十分もかからない。
「かわってない。やっぱここの桜が最高だよ」
 桜の間から遠くに見える海。暖かい今日は春の陽射しで一気に開花が進んでいる。 ときおりちらちらと舞ってくる桜の花びらに混じってぽとりと桜の花が落ちてくる。桜の樹の下の木製ベンチに腰をおろしたわたしのちょうど目の前にも桜の花が落ちてきた。
「あれ? 花ごと落ちてきた」
「鳥、だよ」
 善弘が上を指さす。
「え? 鳥?」
「そう、鳥が花をついばんで落とすんだ。蜜を吸っているんじゃないかな」
「へーえ」
 桜の枝の梢を見上げる。すぐにはわからなかったが目を凝らして見ていると花のあいだをちらちらと動く鳥の影がある。
「ほんとだ。鳥がいるね」
 振り返って善弘と目が合う。善弘がわたしを見ていたことに気がついて思わず頬が赤くなる。
「向こうから行こうか」
 善弘が言って立ちあがった。お花見の人たちは来た道を戻って下って行くが、この広場から裏手に行く道もあってぐるりと山をまわりこんでまたふもとに戻ってこられる。ミカン畑がところどころにあるその道は舗装された農道だったが桜のないそちら側には今の時期あまり人は行かない。 それでも途中では一本のソメイヨシノが花を咲かせていて、ひっそりと静かにたたずんでいるようだった。
「わあ、きれい」
 わたしが声を上げると善弘は道沿いにあるその桜の樹の下へ行った。
「咲紀、おれ東京の大学へ行こうと思っている。うまくいけば来年の今頃は東京だ」
「うん」
「そうなれるようにがんばるから。だから……咲紀のこと好きだからつきあって欲しい」
「え……」
「おまえとつきあっているせいで受験失敗したなんてことにしないから。だから」
 善弘の言いたいことがわかった。受験生のくせに、なんて言われないようにがんばるからつき
あって欲しいと言っているんだ。まじめな善弘らしいその言葉。
「わたしだって短大に行こうと思っているから同じだよ。善くんと同じようにわたしもちゃんとやる。善くんとつきあうのはやめろって言われないようにがんばるか……」
 最後まで言い終わらないうちに桜の樹の陰でふたりの唇が触れ合った。
 ただ触れただけのキス。触れ合った柔らかな唇の感覚だけしか思い出せないようなそんなキス
だった……。

 善弘は言った通りみごとに東京の美大に合格した。
 わたしは地元の短大に行くつもりだったが東京の短大に志望を変更して福祉関係の勉強をすることにした。
 高校三年になってから善弘は別に隠そうともせずに自分やわたしの両親にもつきあっていることを話していた。お互いの家が数十メートルしか離れていないのだから隠していてもいずれ知られてしまう可能性のほうが高い。やっぱりこんな時期に、とお互いの両親に心配されたけれど浮ついた 遊びでつきあっているんじゃないんだとわかってもらえれば大丈夫だよという善弘の言葉通り わたしも自分の勉強がおろそかにならないように気をつけた。そのおかげで最初の志望よりもひとランク上の短大に合格できたのだから。

「咲紀、桜が咲いたぞ!」
 善弘からの電話でわたしは東京へ引っ越すための準備の途中で家を飛び出して神社へ向かった。
 そこには善弘が待っていてやっとひとつふたつほころんだ桜の花を指さしていた。 わたしは桜の花が咲いたのがうれしくて、善弘がそれを知らせてくれたのがうれしくて、そして目の前の善弘もうれしそうに笑っているのがうれしくて、笑った。
 この桜が満開になる頃はふたりとも東京なんだ。それがうれしくてわたしは笑った。



 善弘は大学の近くにアパートを借りて、わたしは短大生用の女子寮へ入っての東京での生活が始まった。親元を離れて東京へ出るわたしには女子寮に入ることが進学の条件だった。両親には善弘とのことも心配だったろうが東京という大都会の環境のほうが心配だったようだ。 最初のうちこそ不安もあったが受験からも親からも解放されてわたしはすぐに東京での生活を楽しむように
なった。同じように地方から出てきたざっくばらんな子と友達になって気取らなくてよかったのも気楽だった。その子と一緒に「わたしたち田舎者だからあー」なんて言って六本木や原宿やいろいろなところへ出かけたりした。

 善弘のアパートまでは電車で四十分もかかるほど離れていたが毎週のように会いに行っていた。やっと好きな勉強に打ち込めるようになった善弘はあまりアルバイトをする気もないらしく勉強と絵ばかりを描いていたから外でデートするよりも部屋でわたしが食事を作ってあげているほうがお金もかからなくてよかった。
 善弘の部屋は雑然としていて、いつもスケッチブックや画材や本があふれていた。おしゃれに無縁な善弘はちゃんとした格好をすればそれなりに見られたのに髪はぼさぼさ、汚いジーパンというまるで私がイメージしていたような画学生になっていくのがおもしろかった。
 この頃の善弘が描いた絵を見せてもらったことがある。彼の部屋へ行ったときに。 デザインのような、下絵のような、赤やオレンジや黄色やグレーといった色がさまざまに筋のように重ねられた、夕日のような光がまるで洪水のように光っているような抽象的な絵だった。課題ではなくアクリル絵の具か何かで思いつきで書いたという絵だった。 彼の真面目な人柄からすぐには想像できないようなその絵をわたしは黙って見ていた。緻密なデッサンやていねいなスケッチ、そんなものは今まで何度も見せられていたが正直、この絵は意外だった。しかし絵に関して知ったかぶりもできないわたしは何も言わずにただ黙って見ていた。
「気に入らない?」
 善弘の腕が私の肩へまわされてきていた。
「わたしが気に入るかどうかじゃないでしょ?」
「まあね……」
 そのまま抱きしめられてキスされる。
「善くん?」
「俺は? 俺のことはどう思っている?」
 今さら聞かれなくてもずっとずっと好きだった。だから今、こうしているのに。
 彼がそのことをわかっているのかわたしはちょっと不安になって身を固くした。
「善くんがどんな絵を描いてもわたしは善くんが好きだよ……」
「うん……咲紀」
 彼の手がわたしの服の中へ入ってきて、このままいったらどうなるかわたしにはわかっていた。もうふたりとも高校生ではない……。

 秋になって善弘の大学の学祭へ行って善弘の描いた絵を見た。 いつか見せられたような絵ではなく、花の絵だった。びっしりと咲いた夏の花を描いた緻密な、素人の私が見ても緻密な絵だった。油画を専攻している彼らしい絵だと思った。あの光の洪水のような絵ではなくてむしろわたしは安心した。
「滝、いたいた」
 善弘の苗字を呼ばれて友達らしい人から声をかけられた。その人も女の子と一緒で驚いたことにその女の子はジーパンとTシャツの上に振袖の着物をコートのように羽織っていた。
「善弘の彼女? 染織(せんしょく)のほうも見に来てくれよ」
「染織?」
 わたしが聞くと女の子のほうが答えた。
「織りとか染めをやっているの。私は織りだけど。彼は滝君と同じ油画だけどね。でもふたりとも染織科に入りびたってんのよ」
 その女の子がちらっと善弘を見た。気になる視線。
「俺は最初はこいつにひっぱられて行っただけ。こいつは彼女が目当てだったんだけどね」
 善弘が友達をこづいた。わたしのいる短大と違って自由で、というかいいかげんな雰囲気がわたしにはうらやましくもあった。
「染織を善くんがやるの?」
 目の前の彼女が振袖を着ているので着物の染めとか織りのことだと思ってわたしはびっくりして善弘に尋ねた。
「意外におもしろいし」
 善弘は真面目くさってそう答えた。
 またしても意外な善弘を見てしまったようだった。
 わたしの知らないところで善弘はどんどん変わっていく……。

 それでも、それは彼の大学での勉強のことだから、今はいろいろなことに興味がわくんだとわたしは気にしてはいなかった。善弘と会って彼がわたしを好きだと言ってくれるだけでよかった。やがては彼も大学を卒業して就職して、そしたら結婚できるかも……そんな日を想像していた。

 善弘はいつも駅まで送ってくれた。
 わたしが善弘と肌を触れ合わせた後で帰るのがつらくなっても、やさしくなぐさめてくれながら駅への道を歩いた。
「またな。待っている」
 善弘はいつもそう言ってくれた。電車の窓ガラスに顔を押し付けるようにしてホームに立った善弘を見る。彼はいつも手を振って笑っていてくれた。
 あの時までは……。

 わたしは短大卒業後の就職先を東京で決めることができた。善弘の住む近くにアパートを借りようと思っていたが、わたしは一緒に住んでもいいと思っていた。そうすれば一緒にいられる時間も多くなる。善弘さえよければ、勉強の邪魔にならなければ……そう思って善弘に相談したが、彼の答えはわたしの予想しないものだった。
「俺、大学やめようかと思っている」
「え?」
「金沢の研究所に行こうと思っている」

 金沢には人間国宝の人が主催するという友禅染の研究所があるという。
 友禅染は江戸時代からある染色技法で京都でも金沢でも優れた職人によって染色が行われているがその多くは分業制で下絵だけを描く人、色挿し(模様部分の色着け)をする人はそれ専門というように各工程で分かれており、昔ながらの徒弟制度のなごりも強い。染めのほとんどを自分の工房でやっているような友禅作家と呼ばれる人たちもいるが、 伝統工芸にありがちな後継者不足が言われている昨今でもこういった作家や工房でも新弟子を取ったりすることは少ないらしい。今の子はとにかく続かないそうだ。すぐにやめる。長く厳しい修行を経て技術の習得が出来るまでには何年もかかるのに。
「でも俺はあきらめない」
 善弘はすでに別の先生について染色の勉強をしているそうだ。大学でこのまま勉強を続けて技術を磨くことも考えたそうだが、加賀友禅の人間国宝の人の研究所が若干名の新弟子を取ってもよいという情報がもたらされたという。この機会を逃したらもう後はないと善弘は言う。
「どうして、どうして善くんが着物なんて……」
 わたしにはわけがわからなかった。男の善弘には着物なんて全く縁がなかった。家は呉服屋さんでも染物屋さんでもないのに。おそらく善くんは呉服屋さんの中へ入ったことすらないだろう……なのに、なぜ。
 すでに金沢へ何度も通い何度断られても研究所へ通いつめて、着物の下絵や花のスケッチを山のように持ち込んでは「あんた画家のほうが向いているよ」と言われても全部描き直してまた持っていったりしているそうだ。
 そんなこと、わたしにはひと言も話してくれなかったのに……。

「ごめん。大学やめようか、じゃなくて、やめる。もう決めたんだ」
「何年もかかるんでしょう? その勉強……」
「一生だよ」
 善弘はきっぱりと言った。
「どうして……なんで言ってくれなかったの……」
「ごめん。それしか言えないけれど、ごめん」
 いつか大学祭の時に会った染織科の彼女が目に浮かぶ。彼女だったら善弘のことを理解できるだろうか。一緒に夢を追いかけられるだろうか。
 こんな邪推をしても無駄だとわかっていても今のわたしには善弘を信じることができなかった。彼のやっていることは昔からわたしにはわからなかった。彼の描いている絵を見せられても……。
「給料なんてほとんど出ないんだ。住み込みだから。休みだって休んでいられないんだ。何年かかるかわからないけど、勉強は一生だけど、一人前には何年かしたらなれる。いや、なれるようにする」
「ほかの方法はないの……」
「あるさ。でも俺は決めたんだ。実際やってみた。やりたいんだ」
「…………」
 そう言われてしまったらもう何も言えない。善弘の選んだことだから。
「俺のこと、いやなら咲紀の好きなようにしていい。俺には咲紀にこうして欲しいなんて言えないから」
 わたしは思わず善弘の胸をたたいた。
「そんな……そんなこと言って……わたしが善くんのこと好きなの、知っているくせに……」
 善弘はわたしに胸をたたかれている。
「善くんはどうなのよ……」
 彼は答えない。黙って、いつまでも黙ってわたしにたたかれていた。

 善弘が金沢に行く直前、短大を卒業して実家に帰省していたわたしのところへ彼はやってきた。
「桜を見に行こう」
 善弘はそう言ったがまだ桜は咲く直前だった。神社の境内には屋台の道具などが隅のほうに準備されているだけで誰もいなかった。
「いま、おやじとおふくろに怒られてきた」
「うん……」
「大学辞めてしまったから当然だな。咲紀ちゃんのことはどうするんだって言われた」
 それから善弘はちょっと黙っていた。
「咲紀。待っていてほしい。俺、必ず一人前になるから。俺の嫁さんになってくれ」
「善くん」
「最初の二年の間はとにかくがむしゃらにやる。たとえ寝ないでもやるつもりだ。だから待っていてほしい」
「いくら善くんでも二年も寝ないでがんばれないよ……」
 そんなことを言ってもしかたがないとわかっていたが、わたしはにじむ涙を見せまいと冗談めかしてそう言った。
「善くんがそう言うなら待ってるよ。だから……」
 善弘は安心したように笑ってわたしの手を取った。
「おまえの花嫁衣装は俺が作ってやる。ここに咲く桜の模様だ。咲紀の桜だ。地色が白に近い淡い桜色。その淡い淡い色の上に桜の枝と舞い散る花びらを描くんだ。そうだな、帯はちょっと渋めの七宝つなぎ文様で……桜の葉のような帯上げの色、帯締めは濃い紅色で引き締めて……最高の花嫁衣装だろ? そんでもって桜の満開の下、 ここのお宮さんにお参りするんだ。それが咲紀と俺との結婚式さ……」



 ……でも、わたしは待ち切れなかった。
 善弘が金沢で勉強している間、就職して仕事に慣れ単調な毎日を送るうちにだんだんと善弘に会えない毎日に慣れていった。いや、慣らしていったのだ。
 金沢まで会いに行きたかった。でも善弘は来ないでくれと電話で言う。つらくなるからと。わたし
だってつらいのに、なぜ来いと言ってくれないの……。
 二年はとてつもなく長いトンネルのように感じられた。まだ半年もたっていないのに……。 彼に会えないことが、つらいことがわかっていたから考えないように、思い出さないようにしていた。会社で飲み会に誘われればほとんど出た。気がまぎれるから。時には飲み過ぎてしまうこともあったが、なるべく善弘のことを考えずにいたかった。

 そんな時にいつもわたしを飲み会に誘ってくれる営業課の人から誘われて行くとその日はわたしとその人のふたりだけで会社の飲み会ではなかった。
「いつもみんなが一緒だから、一度君とゆっくり飲みたかったんだ」
 わたしよりも七歳も年上の原田久志(ひさし)さんというその人は営業課というイメージからは遠い穏やかで落ち着いた人だった。わたしと同期の子は少し額の広くなってきている彼のことを陰で「おじさん」などと言っていたが、穏やかなその人の雰囲気にわたしはほっとした。社会人になってから初めてほっとしたような気がした。 善弘とのことで何も楽しめないままにいたわたしにとって久志さんは隣りに並んで座っていてもいいような、それを誰にも咎められないような、そんな人に感じられた。
 それから……。

 やがて善弘の言っていた二年が過ぎたが善弘は来いとは言ってくれなかった。二年で一人前になって独立できるわけじゃない。見習いが終わる、くらいの目安だ。
 それでもわたしはこの二年を待っていたのに。

 久志さんからプロポーズを受けてそれに答えながらわたしは考えていた。
 善弘、待っていたのに。
 でも待っていてもわたしには善弘が夢中になってやっているものがわからなかった。善弘がわたしが黙ってずっと待っているとそう思っている彼の気持ちがわからなかった。

 それから善弘からは何の連絡もなくなった。わたしが結婚するからと連絡してから。
 久志さんとはわたしの両親の望みで仲人を立て正式に結納を交わし、結婚式も披露宴も派手ではなかったがオーソドックスな形できちんと行った。結納前に久志さんがわたしの両親へ挨拶に来てくれた時などはわたしも家に帰ったが、すぐ近くに住んでいる善弘の両親のことが気になって出歩くこともしなかった。 東京で結婚してこれからは東京に住むのだ。もうこれからはここに帰ってくることも少ない……そう思っていた。

 結婚式では白い花嫁衣装の和装で式を挙げドレスでの披露宴だった。
 白い打ち掛けに綿帽子の自分を鏡の中に見ながらわたしはいつか善弘の言っていた彼が染めてくれると言っていた着物のことを思い出してちくりと胸の奥が痛んだ。でも、もうそれは思い出だ。哀しいけれどいい思い出なんだ……きっと……。

 東京で久志さんと新しい生活が始まった。
 仕事は忙しかったけれど普段は穏やかでやさしい久志さん。早く子供が欲しいと言ってわたしを抱き寄せる。まだ結婚したばかりよ? 新婚気分もいいけれど僕は子供も欲しいよ。君に似た女の子なんて最高だなあ。女の子? 気が早いわ……男の子だってどっちでもいいよ……。
 いつもはやさしい久志さんもわたしを抱くときは強引だった。その行為に夢中になっている時の彼は子供のことなど口実ではないかとわたしが思ってしまうほどだった。
 愛されているのだ、愛し合う結果として子供が欲しいと彼は言っているのだ……そうわかっていても、自分が愛されているのだと感じていても、体は反応していても、わたしはどこかで久志さんにすべてを流されてしまわないようにしている自分を感じていた。

 やがて妊娠に気がつき、そのあとつわりがやってきた。わたしのつわりは吐き気はそれほどひどくはなかったが、とにかくだるくて眠い。昼間の午後はほとんど昼寝をしていた。久志さんは実家でのんびりしたらと言ってくれたが眠気にしても生活に支障がでるほどではなかったし、専業主婦をさせてくれている久志さんに申し訳なくて実家にも帰らなかった。
 ……帰りたくはなかったから。出産も東京でしようと思っていた。お産の時は帰ってきてくれると
思っていたのに、と母に言われたが無理を言って出産の前後は母に東京へ来てもらうように頼んでいた。お父さん、待っているのに……母にそう言われたが、やっぱりわたしはわがままを押し通すつもりでいた。そのつもりでいたのに……。

 久志さんに病院へ運ばれたわたしはもう血の気がなかったそうだ。
 なかば朦朧として自分では憶えていないうちにすべての処置がされていた。もう女の子だとわ
かっていたのに。もう少し後なら助かっていたかもしれないのに……。
 かけつけてくれた両親と久志さんの両親の見舞い。涙を見せるわけでもないわたしは放心してしまったように見えたのだろう。久志さんと両親たちはわたしに聞こえないように声を落して話し、わたしの知らないところで事を済ませた。それはわたしを思いやってくれたことだったが、わたしには何を尋ねることも許されはしないのだと思わせるだけだった。

 時間が経てば体は元通りに戻る。
 でも心は戻らなかったようだ。久志さんは子供はまた作ればいいよ、と言ってくれたが彼が飽くことなくわたしを抱き寄せようとする、その腕にわたしは抵抗した。
 また同じことを繰り返そうとしている……。

 心は彼にないのに。
 小さな赤ちゃんはそれがわかっていたのだ。だから去って行ってしまったのだ。こんなわたしから。

 夜になると繰り返される諍い。わたしが抵抗をあきらめて抱かれてしまうこともあった。そんなわたしに久志さんは情熱をそそぎこむように思いのままにする。愛し合っていたならばどんなにか甘美な行為だろう。 愛をささやかれて、体を熱くされて……でもわたしはその後で寝入ってしまった夫の傍らで猛烈な落ち込みを感じる。体が動かないほどの……。
 やがて昼間でもわたしは何もやる気がおこらずぼんやりと過ごすことが多くなった。ほとんどなにもせずに夕方になり夫が帰って来るとおとなしく抱かれる。最初のうちこそ久志さんもわたしが落ち着いたと思ったらしいが、やがて何かがおかしいと気がついたようだった。

 誰の言葉も別の世界の人の言葉のように聞こえる。言っていることはわかるのにそれがかすんだような遠いことのように感じる。
 わたしの中はよどんで流れが止まっていた。

 いつのまにか……実家にいた。
 久志さんに送られて来たのか、両親が迎えに来てくれたのかそれもわからなかった。寒くて布団へもぐりこんでそこがベッドではなく自分の部屋の畳に敷かれた布団なのだと気がつく。
 ここは……わたしの家……?
 コートも着ないでふらふらと玄関を出る。子供の頃から見慣れた通りの様子。まわりの家々。ふたり連れのおばさんがこっちへと歩いてくる……。
「あーれ、咲紀ちゃんじゃないかねえ? あんた帰って来ていたんかい?」

 だれ……?

「大変だったねえ、元気だしなよ。お母さんにこんど漬物あげるから取りに来てねえ」

 だれなの……?

「咲紀ちゃん?」
 わたしは後ずさるように玄関の戸に背をぶつけた。
「咲紀!」
 あわてて飛び出してきた母に支えられるように家の中へ入れられる。けげんそうなおばさんたちの顔。 そして……そしてちょっと離れた向こうにいる……善弘のお母さんの困ったような悲しいような顔……こっちを見ている……。
 どうしてそんな目でわたしを見るの……。

 父の顔。母の顔。何も言わないけれどその両親の視線がわたしには耐えられない。
 善弘のお母さんの顔。久志さんの顔。そして……わたしを見るだろう善弘の顔。

 やめて! わたしをそんな目で見るのは! どうして、どうして……。

 もうわたしは一歩も外へ出なくなった。部屋の中からも。布団をかぶって差し入れてくれる食べ物を食べるだけだった。誰がその食べ物を運んできてくれるのかそれすらもどうでもよくなった。
 ここにいたくはなかった。でも動けない。暗闇の中でわたしは体を縮み込ませてひたすら目を閉じて念じていた。

 ここにいたくない。ここにいたくない。ここにいたくない…………

 夜なのか昼なのかわからないが、ふと明るくなった窓の外をぼんやり見て気がつく。
ああ、このままここにいたら、また、また桜が咲いてしまう。家からわずか数十メートルしか離れていないあの神社の裏山。ひと雨ごとに近づいてくる春の気配。春めく山々。
 ここにいたくない。どこでもいいから違う場所に行かなければ。

 家を飛び出し、よろめくように走る。県道を横切り、山とは反対へ反対へと走る。線路が近付き線路脇の駅へと向かう道へ出る。電車に乗って……どこか遠くへ行かなければ……。
 震える指で切符を買い改札を抜ける。ホームへの階段を上ると……そこは……。
 そこからは……。

 桜の山が見えた。山全体が赤っぽく色づいて……ソメイヨシノに先駆けて咲くヤマザクラがところどころに白く咲いていて……ああ、咲いてしまう。桜が咲いてしまう。もうあんなに……いつか見た、高校生だった頃善弘と電車を降りて見た光景。

 善くん……。

 桜は咲くのに。
 わたしはあなたのところへ行けなかった。
 桜が咲いてしまったら……また次の春を待つしかないの……?
 また一年を待つしかないの……?

 ホームに近づいてくる急行列車の音。速度を落とさずに駅の手前のゆるやかなカーブを過ぎて車体の傾きを真っすぐに立て直すように通り過ぎようとするその圧倒的な風圧を感じながらわたしの体は急行列車の前へ倒れこんでいった…………。






 あれから……何年たったのだろう。
 変わらず春になればほころぶ桜。山全体が桜色に染まり、やがては花びらが風に舞い地面に散り敷く。そして花びらは雨に打たれ風に吹き寄せられ茶色くなって土に還っていく。
 繰り返される春の営み。そんな繰り返しをわたしは見ていた。
 何年も……何年も……。

 でもその年は違っていた。
 満開の桜の下をまだ人影もない早朝、ゆっくりと神社の石段を昇るふたりの人影。見覚えのあるその姿と後に続くもうひとり。

 善弘……。
 氏神様に結婚の報告に来たんだね。後ろの女の人はわたしに約束したような花嫁衣装ではなく、ふたりとも普段着だ。
 ありがとう、善弘。あなたの約束かなえてやれなくてごめんね……。
 あなたの染めてくれた着物、着たかった。桜の花の振袖……でもごめんね。
 もう行くよ……。
 ずっとずっと好きだった……でももう行くよ……。

 そして……。
 わたしは何千もの桜の花びらになってあなたへ舞い降りる。
 時が来れば風がなくともふわりと花から離れて落ちていく何千もの花びら。あなたの肩に、髪にふれては落ちていく。留まるのはほんの一、二片。あなたは桜の枝で埋め尽くされた空を見あげてふっと表情を変える。
「鳥か……」
 桜の花をついばむ鳥の気配に枝が揺れている。静かに……。

                                                    終わり


2008.03.01掲載
桜風さくらかぜ 拍手する

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