夏の夜
夏の夜
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夏祭りの夜はなんとなく空気がざわついている。
そう思いながら座敷のエアコンのスイッチを入れた。
「結衣、着付けをするからクーラーを効かせておいて」
母からそう言われている。店とは襖で仕切られた座敷は畳の香りも清々しい広い部屋で、普段は店の客に反物を見せたり試着をしたりするための部屋だった。
今日は夏祭りだから浴衣を着たいというお客さんでもいるのだろうか。
結衣の実家は呉服店で、母は着付けができる。店で着物を買ってくれたお客に頼まれて母が着付けをすることが時々ある。
「あっつい」
効き始めたエアコンの冷風にTシャツの襟元をぱたぱたさせていると母が入ってきた。母の 持っている畳紙の小窓をちらっと見ると渋い草色で男物のようだった。
男の人に着付けるんだ。夏祭りに行くのにわざわざ着付けてもらう人がいるんだ。
「来ないわね」
母が約束では六時に来ることになっていると言ったがもう十五分も過ぎている。
「どこの人? 近くの人?」
「東和くん」
「え?」
母の言った名前に驚いた。
小早川 東和(とうわ)は同い年の同級生だった。家も近くで幼馴染みといってよかった。
「東和くんが着物着て夏祭り行くんだ。わざわざ着付けして」
「結衣だって浴衣着ればいいじゃない」
「暑いからいいよ」
呉服屋の娘として結婚する時はひと通りの着物を作ってもらった。でも結婚して住んだマンションには和ダンスは合わなくて、それに着物を着るときは家で着付けをしてもらうのだからとそのままタンスごと実家に置いてもらっていた。だから二枚ある浴衣だけではなく夏用の単衣の着物も帯もみなここにある。今となったらそのほうが良かった。
もうマンションには戻らない。
そう思って帰ってきたのだから。
「東和くん、もう何年も会ってないな」
「そうね。東和くん、去年までは仙台勤務だったんだって。東京の本社に戻ってきて家から会社へ行っているそうだけど、会うことはないわねえ」
「お母さんが会わないくらいならわたしが会うことなんてないよ」
思い出しても東和に会ったのは成人式に合わせて行なわれた中学校のクラス会でのことだ。もう六年も前のこと。割と物静かな東和とは顔を合わせても話しをすることはほとんどなかった。
「遅いわね。電話してみようか」
六時を三十分も過ぎて母がそう言ったときに店のほうからではなく玄関から声が聞こえた。
「あ、お母さん、わたしが出るよ」
「久しぶり」
生真面目な顔で東和が言った。会社帰りらしいスーツ姿で手には革のブリーフケース。結衣がいることに驚きもしない。
「ほんと久しぶりだね。会社帰り?」
「うん、遅くなってごめん。……上がればいい?」
「あ、うん。奥へどうぞ。お母さん、東和くんが来たよ」
玄関に立った東和が奥に向かってそう呼びかけた結衣を見ている。
「え、なに?」
「いや、東和くんて久しぶりに呼ばれたから」
馴れ馴れしいと思われたのだろうか。
結衣はちょっと後悔した。家が近所の幼馴染みといっても会うのは久しぶりだ。スーツを着た東和はまるで結衣の知らない東和で、見たことのないビジネススーツできちんとした髪型でブ リーフケースなんて持っている、今まで見たことない東和だった。それなのに顔はやっぱり東和だ。子どもだった頃の顔、中学生や高校生だった頃の顔ではなかったが。
奥の座敷へ東和を案内してから冷たい麦茶を取りに台所へ行った。麦茶を用意して座敷へ戻り廊下から声をかけようとして急に開いた障子に驚いて盆が傾げそうになった。
「あっと、悪い」
出てきた東和はまだワイシャツ姿だったがネクタイを外し胸元のボタンをいくつか開けている。その開いた胸元が目の前にあって目をそらした。
東和がすり抜けるように廊下へ出て歩いていく。トイレか。
しばらくすると母から呼ばれた。
「結衣、見てごらんなさい」
母が障子を開ける。座敷の真ん中には着物を着た東和が立っていた。
「ほら、似合っているでしょう」
母が自慢げに言う。店で誂えてもらった着物を東和に着てもらっているのだということを抜きにしても母は自慢そうだった。
「うん、似合ってる」
結衣もそう思った。
しゃり感のある着物地は麻だろう。こんなふうに夏の着物が似合う男の人は少ないと思う。男は痩せているだけでは着物は似合わない。腰で着るという男の着物は姿勢と身のこなしだという。
そんな母からの受け売りを思い出しながらそれでも結衣は東和は着物が似合うと思った。細すぎず、かといって太ってもいない体型。着物は草木染めのような渋い草色の無地で縦しぼが入っている。濃紺に白い献上柄の角帯との組み合わせは無難だけれどかえってそれが似合っていた。東和くんには派手な大きな柄は似合わない、と思う。
「東和くん、下駄持ってきた?」
「あ、忘れた。忘れました」
結衣の母がもう、という顔をした。
「駄目じゃない。家が近所だからいいようなものの、革靴で行くつもり? 結衣、東和くんちへ 行って下駄を持ってきてあげて。せっかくのお見合いなんだから」
「お見合い?」
少し驚いて東和の顔を見た。だが、東和は別段表情を変えなかった。
「そうよ。お祭りで引き合わせるなんて風流でしょ。お相手のかたも乗り気だっていうし。きっと うまくいくわよ」
結衣が東和の家へ行くと東和の母が紙袋に下駄を入れてくれた。
「悪いわね、結衣ちゃん。お願いね」
いいえ、と答えて結衣は東和の家の玄関を出た。結衣の母とも親しい東和の母は今夜は特別ににっこりとうれしそうに笑っていた。
「東和くん、下駄置いといた」
「ありがと」
結衣が戻ると東和はそのまま冷房の効いた座敷で涼んでいた。
「暑いな」
「そうだね。着物は着慣れないと暑く感じるからね」
涼しい部屋なのに東和がはたはたと団扇であおいでいるのを見て結衣は笑った。
この暑いのに着物なんて着るから。普段は着ないでしょうに。
「ここから出たくないな」
そういうわけにはいかないよね。
結衣がすみに置いてあった麦茶のグラスの盆を持ち上げて部屋を出ようとした。結衣が立ち上がると座敷の真ん中で胡坐をかいて座っていた東和もあおぐのをやめてすっと立ち上がった。立ち上がりながらはらりと裾を直す。
「結衣は夏祭り、行かないの」
黙って首を振った。
出歩きたくない。
結婚して一年もたたずに実家へ戻ってきている。実家へ帰ってきて二ヶ月だが、近所の人の目もある。出歩きたくない。
「じゃあ、俺も行かない」
「え?」
行かないって、……だって。
東和は懐から携帯電話を出すとそれを持ちながら廊下に面した障子を開けた。廊下へ出て後ろ手に障子を閉める。
障子一枚隔てただけだから東和がどこへ電話をしてなにを話しているのかが聞こえてしまう。東和は自分の家に電話をしていた。障子のむこうに立って話す東和は話していることがわたしに聞こえてもかまわないのだろうか。
「……それはちゃんと昼のうちに断りを入れておいたから。だから」
障子のむこうから聞こえる東和の声。
どうしたら。
広い座敷の中で、障子のむこうの東和の話し声に耳をそばだてているようなことって。
どうしたら。どうしたら。
そう思っているうちに東和が座敷へ入ってきた。
すぐに部屋を出るべきだった。
「あの、麦茶のおかわり持って来るね」
あわてて盆を持ち直して座敷から出ようとした。
「結衣、待ってくれる?」
東和がわたしのそばに立っている。
東和はわたしを見ている。
障子を開けようとしたのに東和は桟(さん)へ手をかけて押さえている。
「見合いには行かないことにした」
そんなことしていいの。急にそんなことして。
「夏祭りで見合いだなんてあんまり風流過ぎて俺に似合わない」
桟を押さえる東和の手。
「せっかく着物着たのに。東和くんたら」
母を真似てなるべく屈託のないように言う。立ったまま、盆を持ったままで。
「一緒に行かないか。祭り」
思わず東和の顔を見る。東和は口の片端をほんの少しあげて笑うような顔をした。
子どものときから東和はこんな顔をすることがあった。かすかに笑っているような、促すような。
心臓の鼓動が騒ぐ。
そんなことできるわけない。
「なに言ってるの。お見合い断ったのにその場所に行くだなんて、東和くん、どうかしている」
「いいから。行こう」
不意に東和に手を引っ張られた。
廊下に出て、玄関を出て。サンダルに足を入れられたのが不思議なくらいに東和に引っ張られていく。引っ張られるままに東和の家の前まで来てしまう。
「東和くん!」
東和は黙って家の前にある車のドアを開けた。開いた助手席のドアの横で東和がわたしを見たけれど車に乗れるはずがない。
「はっきりしないって、言われたんだって」
不意に言われた言葉に思わず顔を上げた。
知っていたの。
恥ずかしさに自分の顔が赤くなったのがわかった。どうして……それはきっと母が東和のお母さんに話したのだろう。それしか考えられない。
「そんなこと気にするな。結衣を傷つけるために言ったんだろう」
――――――――
おまえってはっきりしないんだよね。
言いたいことがあったら言えよ。言えばいいじゃないか。
いつもそんな恨みがましい目で見ていないで。
じゃあ言っていいの。
あの女の人は誰なの。あなたのなんなの。
どうしてあなたのいない時にあの人から電話がかかってくるの。
心の中で何百回も繰り返して、でも言えなかった。
言えないまま黙ってマンションを出てしまった。
「結衣が傷ついてやることはないだろう」
「東和くんには関係ないのに……」
どうして、と言いそうになってわたしはまた言葉を飲み込んだ。はっきり言えない。はっきりしない。わたしはいつも。
「そうだね。でも俺は結衣のこと夏祭りに誘いたかったんだよ。ずっとそう思っていたから」
また顔が見ていられなくなって、立ったままで東和がそう言ったのを目を伏せて聞いていた。
「ずっとだよ。だから見合いは断ったんだ」
だから……。
「ちょっとつきあって。家に帰ってもなんか言われるだけだから」
そう言うと東和は開けたドアの中へ乗るように示した。しぐさだけで東和の手は触れなかった。
東和が運転席へ座る前に後部座席から取り出したスニーカーへ履き替えた。今まで履いていた下駄を無造作に放り込むとそのまま黙って座ってエンジンをかけた。
東和がハンドルを切るたびに張りのある着物の生地がわたしの右腕をかすめそうになる。東和の着ている単衣の袖。
着物では運転しにくいだろうにそんなことは気にしていないみたいだ。裾が開いてしまっているけれど、男の人はいいよね。そういうことを気にしなくてもいいんだから。
東和はなにも言わなかった。ぐるりと市内を回ってから車を停めたのは大きな河の河川敷のグラウンドの駐車場だった。
「もうすぐ花火が上がるだろう」
打ち上げ花火の会場からはかなり離れているけれど、きっとここからも見えるのだろう。少し離れたところには二、三台の車が同じ方向を向いて止まっている。
「外へ出ようか?」
出られるわけがない。人がいるかもしれないのに。
「男の人はそういうこと、気にしないんだから……」
そう言うと東和がちょっと困ったような顔をした。困っているのはこっちなのに。
あんなふうにお見合い断ってしまって、それで連れ出されて。なんだかとても困る状況なのに東和くんがそれを気にしているのか気にしていないのかわからなくて、ついそう言ってしまった。
「……ごめん」
東和の手が触れた。
わたしの右手に。
エアコンの効いた車の中でひんやりとしていたわたしの腕の手首の上を東和の手がそっとつかんでいる。東和の手は乾いていてあたたかかった。
「ごめん」
もう一度、彼に謝られて気がつく。
こんなふうに謝ってくれたら。
折れるのはいつもわたしだった。
そしてなにも言えなくて。
「わたし、……わたしね、まだ離婚できてないんだ」
「うん。待つよ」
頬に東和の唇が触れる。待つよ、と言った言葉とともに。
「キスしにくいから顔を上げてくれる?」
東和の言葉がわたしの顔を上げさせる。東和はわたしが顔を上げるのを待ってキスをした。
東和の唇が触れて、そしてまた離れた。
「東和くん……」
「顔、下げないで」
わたしに顔を下げさせないように東和が下からキスをする。
狭い車の中でまるで初めてみたいに不器用に体を固くしたままのわたしに。
それが東和とわたしが初めて交わしたキスだった。夏祭りの夜の、でもお祭りの想い出とは違う想い出。
東和のキスは触れては離れる、なでるようなキスだった。
「帰ろう。心配しているだろうな、結衣のお父さん、お母さん。黙って出てきてしまったから。謝るよ、俺」
唇を離すと東和はそう言った。
「……うん」
わたしも謝る。
東和と一緒に謝ろう。わたしの両親や東和のお父さん、お母さんにも。
だけどそれならばいくらだって謝れる。たくさん謝って、そして許してもらいたい。
東和に待っていてもらいたいということを……。
2010.08.31
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