夜の雨 33


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 機(はた)の前に座り、杼(ひ)を通す。筬(おさ)を打ち込むたびに体にその音と手ごたえが響く。
 黙々と織る。気持ちを平らにして均一の加減で作業をしていく。

 軽井沢の家から帰るときに秋孝さんは「待っている」と言った。怜秀先生のところでも聞いた言葉だ。彼がそう言ってくれたからわたしは帰ってこられた。秋孝さんが待っているからこうして織ることができる、
 先生の指示のもと、何日も作業を続けるのは気力も体力もいる。自分にできることを精一杯やることが今のわたしの仕事だ。

 そしてベージュよりももっと柔らかな薄香色の地にほのかに渋い利休白茶色や淡い桜色がかすむ野原の地平のように横糸で着物の裾部分に入れられた反物を織り上げたのは三月の初旬だった。
「よう織りましたね」
 織っている途中でも何度も先生に見ていただいていたが、最後にそうおっしゃっていただけたことになにより安堵した。湯のしなどの最後の処理は専門の業者さんにお願いするのでわたしの作業はこれまでだった。織りが終わったのを機(き)に以前から考えていたクラフト市のことを相談してみると先生は快く承諾してくださった。
「それはええことだと思います。若いうちはとにかくどんどんやってみることです。寡作の人もいるけれど、どんな物を作るにしても作らな始まりまへん。希和さんがクラフト市に出してみたいゆうのはすばらしいことや。今の人は着物や伝統工芸だけにこだわる必要はおへん思います。わたしが希和さんを弟子にしなかったのもそへん思っていたからどす。ものを作るゆうことは誰それの弟子だとか、そんなんに縛られてたらできしまへん。結婚しているあんさんがこれからも染織を続けていくためにもな。研修が終わるまではここの道具は好きなようにお使いやす」
「先生……」
 自分の作ったものをクラフト市へ出してみたいという、身の程知らずともいえるわたしの願いを聞いてくださったばかりか、わたしがこれからも染織をつづけていきたいという希望もちゃんと承知してくださっているのだと思うとお礼の言葉をいくら言っても足りなかった。

 すぐさま準備にとりかかり、材料を揃えた。クラフト市はちょうど研修期間が終わる五月にあるので作製期間は二か月ほどしかないが、とにかくやるしかない。
 しんと静まり返った工房の中に機を織る音だけを響かせながら、ただひたすらに織っていく。わたしを見守ってくださった怜秀先生と八重子先生のために。そして秋孝さんを思いながら。
 作りたい。わたしができるものを精一杯作りたい。殻が落ちた心からそんな欲求が溢れていた。








 四月のクラフト市会場は早朝とはいえ芝生に木々がくっきりと影を落とす最上のお天気だった。区割りされた展示スペースに荷物を運んでいるあいだにもどんどん気温が上がりそうで絶好の野外イベント日和になりそうだった。
 まだ開始の1時間前で各ブースでは準備の真っ最中だったが、200余りのブースが並ぶさまは壮観だった。公園内の立木と歩道に合わせたブースの並びは全体では回廊状になっていてぐるりと回ることができるようになっていて、回廊の内側の広場にはワークショップを行うブースが配置されていた。さらに隣接する駐車場を会場にしたところには食品のブースが並び、こちらは作家ブースよりももっと早く準備が始められていた。この会場レイアウトはわたしがクラフト市を手伝っていた頃から変わらない、このクラフト市の特徴といってもよいものだった。
 自分のブースで準備をしながら、これでいいのかと何度もブースを見直したりして落ちつけなかった。展示はこれでいいだろうか。お客さんに少しでも見てもらえるだろうか。それに作り手が接客と販売もしなければならないので、うまく話せる自信はないけれど見てもらうためにはお客とのコミュニケーションはとても大事だ。不安を少しでも少なくするために技術的な事を聞かれてもちゃんと答えられよう、また作製のコンセプトやアピールポイントなども事前に頭に入れておいた。

「希和さん!」
 明るい声とともにスタッフと書かれた腕章をつけた香那さんが近寄って来た。
「希和さん、ようこそ来てくださいました。申し込みをいただいてからずっとずっと待っていたんですよ」
「今日はお世話になります。よろしくお願いします」
「こちらこそよろしくお願いします。準備は大丈夫ですか。なにか困った事やわからないことがありましたら回っているスタッフに遠慮なく声をかけてくださいね」
 香那さんがわたしもスタッフだった頃に言っていたことをきちんと言ってくれる。それがうれしい。
「あ、これ、今回のクラフト市の冊子です。いままではブースマップだけでしたけど今回から作ることになったんです。作家の皆さんの紹介も載っていますので見てくださいね。受付けでも一般のかたに配布します」
 そう言って香那さんは「Vol.8クラフト市」と表紙に書かれた冊子を渡してくれた。会場のブースマップは毎回配られていたけれど、今回からはブースマップに加えて各出展者の紹介も載せられている冊子になっていた。こんな冊子に自分の名前が載るなんて、一年前のわたしには出展もまだ無理だと思っていたのに夢のようだ。
「では希和さん、村上も開催時間までは回らせてもらっていますのでよろしくお願いします」
 そう言って香那さんがほかの出展者にも冊子を配るために行ってしまうと、ブースの奥に座って冊子を開いた。
 始めに今年の出展作家数人の作品の写真が昨年の開催時の様子の写真とともにレイアウトされて載せられていた。そしてもう一方のページの中央には短い文章が献辞のように載せられていた。文末にある名前に目が引き寄せられる。主催者の村上さんの名前ではない、その名前は……。



『 ここに一枚の布がある。藍染めの濃淡で染め分けられた木綿糸によって織られている。柔らかな手触りを出すために粗く織られた織り目は糸の質感を伝えている。
 作り手の手から離れてしまえばその作品を語るのは作品そのものだけになる。作品はいつでも無言だが、手で触れ、使うことによって喜びを見出すことができる。この布をまとえば質感を肌で感じることができる。
 作り手の真摯な作業によって生み出される品が、このクラフト市でそんな出会いを待っている。

                                      クラフト市アドバイザー 永瀬秋孝 』



「希和さん」
 村上さんの声にはっと顔を上げた。
「あ、それね」
 冊子を手に茫然としているわたしに村上さんはいたって平静に、物腰柔らかく言った。
「今度からクラフト市のアドバイザーを秋孝にやってもらうことになったんだ。クラフト市とは別にインターネットで手工芸品の販売サイトを作ることになってね、そちらでのアドバイザーも兼ねてもらう。ネットでの販売サイトは東京の白広社っていう広告代理店と事業提携することになって運営会社を作ったんだよ」
 村上さんは気軽な感じで言ってはいるが、大きな広告代理店と提携してネットでの事業をするなんて考えただけでもすごいことだ。
「村上さんが言ってた仕事のことって、このことだったんですね」
「うん。でもクラフト市自体はこれまで通り、いや、今まで以上に作り手と使い手のための場としてやっていくつもりだよ。俺にとってはこのクラフト市はなによりも大切なものだと思っているからね。希和さん、今回は参加してくれてありがとう」
「あ、いいえ、わたしこそありがとうございます」
「今日はその発表も兼ねているんだけど……」
 途中から村上さんの声が聞こえているのに遠くなる。ブースの向こうに見えた人にどきっと心臓が跳ね上がったから。

 少し先のブースに陶芸の作家さんと話し込んでいる秋孝さんがいた。作品の並べてある低い棚の前で陶器を見ながら話していた。となりにいる作家さんがなにか説明するように話していて、それを聞きながら秋孝さんもうなずいていた。写真を担当するカメラマンのスタッフが位置を決めて写真を撮り始めると秋孝さんは作家さんと共に後ろに下がってそれを見ていたが、また作家さんがなにかを言うと秋孝さんが笑顔で答えていた。秋孝さんが誰かと笑顔で話しているなんて、そんなの今まで見たことがない……。
 そしてその作家さんと話し終わるとカメラマンのスタッフと連れだって歩きだす秋孝さんをまわりのブースの作家さんたちも見ていた。それは以前にも見たことがある風景だった。じわりとまわりの人の目を集めてしまうような、彼が以前クラフト市に村上さんを訪ねてきたときにも同じことがあった。ただ歩いているだけでも彼の背の高い姿や放たれる強い個性の感じられるなにかが。
 作家さんたちが秋孝さんのことを知っているのかどうかわからなかったが、彼はそんなことは気にするそぶりも見せずに歩いている。そしてわたしも彼から目が離せない。

「あ」
 歩いてきたカメラマンのスタッフが先にわたしに気がついた。その声に秋孝さんがこちらを向く。
 白いシャツと紺色のカジュアルなジャケットを着ている彼の襟元には同じような藍色の布が巻かれていた。
 それが……。

「希和」
 なつかしい声だった。
「希和さん」
 そして村上さんの声がしたが、秋孝さんはわたしを見ている。
「希和さんに紹介するよ。今度クラフト市のアドバイザーになった永瀬秋孝です。まあ紹介する必要はないんだけどね。まったく、あんな恋文をぶちあげやがって」
 恋文。それって……。
 思わず頬が熱くなったが、秋孝さんを見ても表情さえ変えなかった。ああ、いつもの秋孝さんだ……。
「悪いな。俺は評論もやってたんでね」
 秋孝さんはそう言ったが村上さんは笑わなかった。
「おまえの相手が希和さんだから許してやる。さて、そろそろ時間だ。じゃあ希和さん、がんばってください」
 お礼を言う暇もなく村上さんがさっとブースを離れていった。カメラマンのスタッフも村上さんの後を追いかけていった。

「大丈夫か」
 秋孝さんに言われて我に返った。見上げると秋孝さんがさっきと同じようにわたしを見ていた。
「開催時間だが、大丈夫か」
「あ、はい。大丈夫です」
 秋孝さんの言う通り、もうすぐ開催の時間が迫っていた。精一杯しっかりと答えた。
「それなら俺も本部に戻る。今日は取材をするから希和を手伝えないが、がんばってくれ」
「あ、あの」
 本部のあるほうへ戻ろうとした秋孝さんを引きとめて、そして彼にちゃんと聞こえるように言った。
「わたし、今日、このクラフト市が終わったら家に帰ります」
 秋孝さんは顔色も変えずわたしの前に戻ってきて、そして言った。
「待っている」

 それからは無我夢中だった。
 開催時間とともにお客が入りだし、わずかな時間差で回廊状の会場の一番奥まったところにあるわたしのブースのまわりにもたくさんの来場者が来ていた。どこのブースにも作品を見るお客が入れ替わり立ち替わり流れていく。最初は見て回る人、お目当ての作家のブースに直行する人などさまざまだ。開始時間からの午前中が混み合うことはスタッフだったときの経験で知っていたけれど、そうそうにわたしのブースにもお客が何人も近寄って見てくれて、桜で染めた綿のストールを「わあ、きれいな色ね」と言って四十代くらいの女性が手にとってくれたのが最初に買ってくれた人で、それからも多くの人が見てくれて何点も売れた。まだ作家としてキャリアもなにもないわたしの作ったものが最初から売れるとは思っていなかったが、これはうれしい誤算だった。
 気がついたときにはあっというまに時間は過ぎて午後になっていた。会場にはまだたくさんの人が歩いていたが、緑豊かな公園内ということもあってかゆったりとした流れで人が歩いていて、人の動きで木製のハンガーに並べて掛けたストールが時折ふわりと揺れている。なにかを食べるひまもなかったけれど不思議に空腹も感じなかった。
 そして若いカップルの女性のほうが試着してもいいですかと声をかけてきて、鏡を用意していなかったことに気がついたが、男性のほうが女性の首に掛けたヨモギで染めた緑褐色の糸で織ったストールを「いいんじゃない?」と言ってくれた。それを買ってくれた女性に何度もお礼を言うとにっこりと笑って、この渋い色がすてきと言ってくれたが、こんな地味な色を若い女性に買ってもらえるとは思っていなかった。ふたりが歩いていくのを見送りながら、女性の笑顔にわたしがほっとしている。

 ああ、わたしも作り手になれたのかな……。








 クラフト市が終わった。
 ブースを片付けていくつもの荷物をまとめているとすっと手が伸ばされて大きな荷物が持ち上げられた。無言で持ち上げられて驚いて見ると秋孝さんだった。ほかの荷物も彼が持ち上げたのでちょっと慌てて言った。
「あの、後片付けは」
 すべての出展者が撤収を完了するまで、そして会場の片付けと清掃を済ませるまでスタッフの人たちは帰ることができない。
「もちろんしていくよ。その前に希和の荷物を運びに来たんだ。俺は車で来ているから」
 え、と驚くと秋孝さんがポケットから車のキーを出して見せた。
「日本での免許を取ったし、車も買った。車で待っていてくれないか。希和だけ先に電車で帰られたらたまらない。俺が連れて帰ってもいいだろう?」

 待っていると言ったのは秋孝さんなのに、今度はわたしが待っている。なんだか不思議な気持ちがした。疲れているのかもしれないが、ふわっと気持ちが落ち着かない。
 暗くなっていく駐車場の秋孝さんの車で彼が終わるのを待ち、そして家に帰るまで、実際の時間よりも長い時間を待っていたように感じた。でも秋孝さんもずっとわたしを待っていてくれた。

「ただいま……」
 リビングの入口に立って部屋を見回しながら言ったその言葉が終わらないうちに秋孝さんがそばに来た。
「おかえり」
 懐かしい声だった。クラフト市で聞いたよりも、もっともっと懐かしい声だった。
 いままではずっとアメリカから帰って来る秋孝さんを待っていた家にわたしが帰って来ている。そして待っていると言った言葉通り秋孝さんがいる。
「待っていてくれたんですね……」
「ああ」
 秋孝さんが低い声でささやく。わたしの体を引き寄せて。
「わたしも待っていました」
 彼にしか聞こえない小さな声でつぶやくと初めて自分からキスをした。

 唇を触れ合わせる音が繰り返される。
 わたしがしたキスはいつのまにか秋孝さんからのキスになっていた。体を引き寄せる腕も、肌を滑っていく唇もずっとずっと待っていたものだ。唇を合わせるたびに体の奥を占める彼の存在が感じられて何度も震えた。
「希和」
 名前を呼ばれるたびに胸の奥が熱くなる。秋孝さんが今、ここにいてくれることが感じられる。目を閉じてしまっても触れ合っている体でもそれが感じられる。
「希和」
 泣いているわたしを秋孝さんが体を引き起こして膝の上に抱いてくれた。秋孝さんの顔を見おろすように抱かれて涙が頬を伝っていく。
「愛している」
 暗い中に響いた彼の声に秋孝さんの顔を見ようと目を凝らしたけれど、涙が邪魔してよく見えない。見開いたままの目から涙がぽたぽたと落ちていく。
「わたしも……」
 言いながら彼の頬にひとつひとつ涙が落ちていく。止められないままに彼を濡らしていく。

「雨だ」
 頬に落ちる涙を受けている秋孝さんの唇がほんの少し微笑んでいる。
「希和の雨が降ってくる……」
 そしてまた唇がつけられた。

 涙がわたしを、そして秋孝さんを濡らしていく。
 頬を、唇を、落ちるしずくで濡らしていく。
 すべてを濡らして止まない夜の雨のように――。


                            終わり


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