夜の雨 32


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 染め上がって天日で干す糸の束が指先に冷たい。真冬の工房での染めの作業は寒くて大変だったけれど、植物の樹皮や実などの草木染めの材料は採れる時期によって違いがあり、冬には冬にしかできない染めがあるのだと怜秀先生は教えてくださった。一年の季節の巡りのもとで先生は仕事をされている。
 染めの作業をしない日、工房と家のまわりにある広い敷地を歩きながら怜秀先生はそこに植えられている染料の材料にもなるいろいろな木々の手入れをしていた。梅や桜の木はまだ枝だけの寒々しい姿だったが枯れているわけではない。先生の後についてところどころに落ちている枯れ枝や落ち葉を片づけながら見てみると梅の枝には固い芽がたくさんついていた。これは花芽だろうか。まだときどき雪の降る季節なのに固く冷たい枝の中では花を咲かせるための準備がされている。
「もうすぐ梅の花が咲きますなあ。そしたらいつもはもう少し暖かくなってから始めるのやけど、希和さんがいてはるあいだに織りを始めましょうか。希和さん、あなた織ってみますか」
「えっ、わたしがですか」
「そうです。どないどすか」
 梅の木のそばで怜秀先生にそう言われたが、すぐには返事ができなかった。わたしの作品ではなく、先生の作品だ。先生は高齢ということもあり着物の作製は年に一作のペースにされているが、一作とはいえ糸の染めから織りまでほとんどをご自分でされている。整経(せいけい:糸を機織り機に掛ける前に整える作業のこと)は八重子先生の手を借りられるそうだが、まさに先生の一年に一作の年齢を刻む着物なのだ。そんな先生の作品をわたしが織っていいものかどうか。
「来年わたしが生きているとは限りまへんからなあ」
 先生は笑顔でそうおっしゃったが、まだまだお元気なのに。それでもわたしにと言ってくださった先生の気持ちがわかったのは、わたしの祖母も亡くなり、そして何か月か前には秋孝さんのお母さんも亡くなっていたことがあったからだ。今、先生に教わらなければ、という気持ちでここへ来ているのも確かだった。

 返事をためらっているわたしに怜秀先生は穏やかな笑顔を向けていた。祖母の懐かしい顔を思い出させるやさしい笑顔だった。
「旦那はんのためにも織ってみたらどうですか。希和さんはそのためにここにいるのやろ」
 旦那はんのために、という怜秀先生の言葉にはっとした。
 怜秀先生は秋孝さんが来たあの夜以来、秋孝さんのことはなにも言わなかった。秋孝さんが帰っていき、わたしが残ったことを先生は尋ねたりしなかった。
「希和さん、この梅の木をごらんなさい。こないな寒い時期から木は芽を出す準備をしています。冬も春も繋がっています。この世には関係ないなんてことは一切ありしません。希和さんがここにいるあいだは、できることをすればええと違いますか。染めも織りも先の長い仕事です。そのあいだにはいろいろありますやろ。けど、なにかあってもやめへんかぎりは続いていきます」
「先生……」
 待っている秋孝さんのためにも、いまできることを懸命にやれということだろうか。
「ありがとうございます。一生懸命織ります。よろしくお願いします」
 改めて先生に頭を下げた。

 次の日から先生と一緒に織る前の準備を始めたが、織りに入る前にクラフト市のことで村上さんへ電話してみた。村上さんには怜秀先生のところで研修を受けることは伝えてあった。秋孝さんとわたしと共通の知り合いは村上さんしかいなかったからだ。

『希和さん? 元気でやってる? 良かった、電話してくれて』
 村上さんのいつもの気さくな声にほっとした。
「すみません、あの、ご心配かけて」
『いや、こっちこそ悪かったね。もう知っていると思うけど、秋孝に希和さんが研修に行っていること教えたのは俺なんだ。秋孝から希和さんの行き先を聞かれていったんは断ったんだけど、秋孝に何度も粘られてね。秋孝があそこまでするとは思わなかった。だけど希和さんに断りなく教えてしまってごめんね』
「いえ、それはいいんです。結果的に村上さんの判断にお任せしたようにしてしまったのはわたしですし。いろいろご迷惑かけてしまってすみませんでした」
『迷惑なんかじゃないけど……、希和さん、あれから秋孝と会ったんだよね』
「はい」
『ふたりの間のことに立ち入るつもりはないけど、今度は秋孝は理不尽なことはしなかったんだよね』
 やはり村上さんは秋孝さんとわたしと両方を心配してくれていたんだ。
「はい。秋孝さんは待つと言ってくれました。わたしの研修が終わるまで」
『秋孝が待つって言ったの?』
「はい、アメリカには戻らないで家で待つって」
『戻らない? アメリカには戻らないって言ったの? あいつが?』
 村上さんの言葉には驚きが含まれていた。
『ふうん、そうなんだ。アメリカには戻らないんだ。そうか、秋孝が……』
 村上さんにとっても秋孝さんが日本にいるようにしたことは意外だったようだ。それとわたしを待っていると言ったことも。
「あの、いろいろご心配かけてすみませんでした」
『いや……。秋孝って冷たそうに見えるけど、それだけじゃなかったんだな』
 村上さんは彼自身に言い聞かせでもするようにゆっくりと言った。
『希和さんに対してあいつのしたことは腹が立ったけど、あいつは自分の境遇にずっと苦しんできていたのにそれを見せない男だったんだ。秋孝にとってはそれくらい重いものだったと思うしね。だけど秋孝にとって希和さんは……いや、これは俺が言うことじゃないな』
 そう言って村上さんは最後まで言わなかったが、わたしもそれ以上は尋ねようとは思わなかった。
『じゃあ希和さん、クラフト市の申込用紙はそちらへ送るということでいい? もともと郵送で送っているものだから送り先を指定してくれることは全然かまわないしね。希和さんにもぜひ申し込みしてもらえるとうれしいよ。期待しています。あ、申し込みと出展の要領は希和さんがいたときから変わってないけど、もしわからないことがあったらいつでも聞いて。香那も待っているから』
「すみません、ありがとうございます」

 思い切って村上さんに電話してよかった。研修がちょうど終わったときにクラフト市が開かれるが、なんとか出展できないだろうかと考えていた。怜秀先生にはまだお話ししてないが、できることなら出展してみたい。その前に先生の作品の織りを精一杯やらなければならないが。
 そんなことを考えながら織りの準備を進めていたときだった。村上さんへ電話して一週間も経っていないのに、また電話がかかってきた。携帯電話の着信に村上さんの名前を見たときには驚いてしまった。

『希和さん』
 村上さんの声はどこか緊張しているようだった。
『この前、希和さんから電話もらった後で秋孝に電話したんだ。ちょっと仕事のことを話したかったんだけど、でもその後秋孝から連絡がなくてね、こっちからかけても電話に出ないんだよ。何度かけても出なくて、やっと出たと思ったらなんだか調子が悪そうで。希和さん、知っている?』
 調子が悪いって……まさか。
『秋孝は大丈夫だって言ったけど、あいつ、人に助けを求めるようなやつじゃないから心配になったんだ。……あの、聞いてる?』
 驚きでなにもしゃべってなかった。
「はい。すみません……」
『希和さんが行けないなら俺が様子見に行くけど。どうする?』
 ……どうする?
『できれば行ってやってほしいんだ。秋孝は弱音は言わないやつだけど、アメリカでの仕事をやめた後だから、さすがに心配だ』

 村上さんへ電話してくれたお礼の言葉を言えたかどうかもわからなかった。研修の予定を確認してみると答えたように思う。でも予定は見なくても知っている。明日からいよいよ織りの作業に取りかかることになっている。もう準備はできている……。

「希和さん、どへんしました」
 工房から昼食のために戻っていた怜秀先生が台所に戻らないわたしに声をかけてきた。席をはずして村上さんからの電話を受けて、すぐに秋孝さんの携帯電話に電話したが出なかった。そのまま先生のお宅の廊下に突っ立っていたところだった。
「先生……」
 秋孝さんが病気かもしれない、そう考えただけで動揺している。だけど明日からは織りを始めることになっている。織りにはもちろん何日もかかるけど、先生の作品を織らせてもらうのに急にわたしが抜けるなんてできない。
「先生、お願いがあります」
 おや、というように先生がわたしを見た。
「これから明日までお休みをいただけないでしょうか。明日には必ず帰ってきます。家に……帰らせてください。ひと晩だけでも」





 新幹線を乗り継ぎ、駅に着いたときにはもう夕方を過ぎていた。あたりは暗く街灯がまぶしく光っていたけれど、タクシーから降りた家の前はもっと暗く、木々に囲まれた家には灯りがひとつもついていなかった。ここへ来る途中で何度か秋孝さんに電話をしてみたが彼が電話に出ることはなかった。玄関の呼び鈴を押すのももどかしく自分の持っていた鍵で開けて中へ入った。
「秋孝さん」
 中は真っ暗だった。電気をつけて見回すとリビングのテーブルには使った後のコップや皿が置かれていて生活の跡があった。でも秋孝さんがいない。
「希和?」
 寝室から声が聞こえてあわててドアを開けた。ベッドに座っている秋孝さんの姿を見て一気に体の力が抜けそうになったが、すぐにベッドのそばへ行った。
 寝室の中も暗く、暖房もつけられてなくて寒かった。ベッドに腰掛けた秋孝さんはスウェットを着ていたけれど掛け布団はめくられていて、さっきまで横になっていたという様子だった。

「秋孝さん……」
「帰って来たのか」
「はい……」
 彼の前の床に膝をついてしまった。見上げる秋孝さんの顔がドアからの光だけでもわかるほどやつれている。もともと太った人ではないのに、頬がこけて……。
「どこか……具合が悪いんですか」
「風邪を引いただけだ」
「いつから……」
「一週間くらいかな。寝ていたから治ったよ」
 治っただなんて。
「こんなのはただの風邪だ。アメリカでだってこういうことは何度もあった」
「秋孝さん、ただの風邪だって食べなければ良くなりませんよ……」
 笑って言おうとしたが笑うことができない。秋孝さんはずっとひとりで寝ていたと思うと……。

「希和」
 彼の手がわたしのほうへ伸びてきて頬に触れられた。ひやりと冷たい指だった。
「すまない。希和を帰らせてしまったな」
 少しかすれた声だったが、秋孝さんの視線はしっかりとしていた。
「余計なことだったでしょうか」
「……いや、そんなことはない」
 ちょっと考えるようにして秋孝さんが言った。
 なにげないひと言だったけれど、以前の彼からは想像できないひと言だった。
 秋孝さんはいつだって強い人だと思っていた。自分というものを持っていて、自分を曲げない強い人だと思っていた。
 だけどお母さんのことも、仕事のことも、普通なら平気でいられるようなことじゃない。秋孝さんがめったに弱音を吐かない人だからといってダメージを受けてないと思うのは間違いだったかもしれないのに、わたしは自分のことばかりだった。

「今夜だけだけど……そばに居させてください。ごはん作りますから……わたしが熱を出したときに秋孝さんはおにぎりを作ってくれましたよね」
 わたしにとって男の人にあんなことをしてもらったのは後にも先にもあの一度だけだ。あのときのことを思い出したのか、ふっと秋孝さんが笑った。
「そうだったな」
 雷の鳴る夜にわたしに音を聞かせないようにしてくれたこともあった。なにも言わずやさしくしてくれたことがあったのに、わたしはそれを忘れていた。
 彼の手に頬を押し当てるとまだ冷たかった。
「寒いでしょう。布団に入って」
 急いで暖房をつけてからコートを脱ぐと服のままでベッドへ入った。ベッドの中はまだ冷たく、秋孝さんの腕が引き寄せるようにわたしの体を引き寄せた。
「希和が来てくれてよかった」
 秋孝さんの声が顔をつけた胸から聞こえた。彼の手はわたしの肩を抱いている。結婚して一緒に眠ることもあったのに、こんなにも静かに寄り添ったことはなかったかもしれない。秋孝さんの顔は見えなかったけれど思い切って言ってみた。
「寂しかったです……、ずっと」
 秋孝さんと結婚してからも。子どもの頃からも。祖父母はいてくれてもずっと寂しかったような気がする。寂しいと思ってもそれを誰かに言ったことはなかった。祖父母がいなくなってからも、結婚してからも、ずっと。
「寂しいか」
「はい……」
 涙が込み上げてきそうになってそれ以上言えず顔を秋孝さんの胸に押しつけていたが、いつのまにかわたしも眠りに引き込まれていく。
「俺もだ……」
 秋孝さんの声が眠りの中で聞こえたような気がした。

 寂しい。
 わたしが子どもの頃からずっと心の中にしまっていた言葉だったのに。

 ああ、秋孝さんも寂しいって……。


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