夜の雨 26


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 紅(こう)が悲鳴を上げ続けていた。
 神経を逆なでするように続く悲鳴が急激にこちらの体温を下げていく。そして突き刺さるような視線を感じた。遠巻きに見ている大勢の人の視線だった。並んだ顔が何度も光る。何人ものカメラマンが美術館の中だというのにストロボを光らせて撮影していた。
「訴えてやる。これは暴力だわ! 訴えてやる!」
 紅がわめいた。
 黒い髪を乱し、手を頬に当てて。
「訴えたければ訴えればいい」
「まだ強気のつもり? あなた、自分がなにをやったかわかってないんだわ!」
「わかっている。これだけの人の前だ。もう取り返しはつかない。紅、もう充分だろう。俺があんたの絵を評価しなかったことへの腹いせならもう充分なはずだ」
「なっ……」
 声を詰まらせた紅の顔から見る間に血の気が引いた。さっきまで興奮していた顔が面白いほどに一瞬で表情を変えていた。
「良くもない物を良いと言っても世界には通じない。あんたが一番わかりたくないことだろうが」
 紅の描く絵は彼女の美貌ほどには評価されたことがない。紅が俺と体だけの関係を持ったのも俺から何らかの評価が欲しかったからだ。

『アキタカ!』
 ウォーレンが人垣をかき分けるようにして出てきた。彼と一緒に警備員たちも出てきたが、ウォーレンは俺に近寄った警備員を止めた。
『アキタカ、控室へ行くんだ』
 警備員に連れていかれるまでもない。その場を離れようとした俺に紅がまた叫んだ。
「酷い人!」
 髪の乱れた紅はいかにも被害者で、ウォーレンが止めようとしたのを振り切ってまた叫んだ。
「あなたって本当に酷い人!」
 おまえに言われる筋合いはないと、振り返ってそう言おうとしたができなかった。紅に憐みを感じたからでも、警備員に行くように促されたからでもない。

 ひどい。
 秋孝さん、ひどいです……。

 頭の中に聞こえていたのは悲しそうな希和の声だった。紅の言いかたとはまったく違う言いかたで俺を責めていた。泣いたりしない女だと、感情を露わにしない女だと思っていた希和が俺を責める声だった。

 秋孝さん、ひどいです……。





 ウォーレンからの叱責は激しいものだった。美術館長である彼からの叱責は当然といえば当然だ。
「なんてことをしてくれたんだ。君は自分のしたことがわかっているのか」
 館長室の外にまで聞こえてしまいそうな大声だったが、なにも答える気はない。どう答えても自分のしてしまったことが消えてなくなることはない。
「理由はなんだ」
 それでも答えない俺をウォーレンは厳しい目で見ていたが、やがて怒りを収めるようにデスクの前の椅子に座った。手をあごに当ててウォーレンはじっと俺を見ていた。
「私は君がフリーランスになる前の、この美術館に所属していた頃から知っている。君は自制をすることができる人間だと思っていた。女性に暴力を、それも人前であんなことをしたらどうなるかわからなかったわけではないだろう。なぜあんなことをしたのか、私が納得できるような理由を話してくれないか」
 無言で答えなかった。ウォーレンが釈明を求めているのはわかったが。
「あの女性はノダの助手だそうだな。君の恋人か?」
「いいえ」
「それならなんだ」
「コウ・タニモトとは以前付き合っていたことがあるだけです。私が結婚する前に別れています」
「結婚?」
 ウォーレンの厳しい表情に驚きが走った。
「結婚していただって? 君が? 知らなかったよ」
 ウォーレンは肩をすくめることはしなかったが、あごに当てていた手ははずした。
「君はそういうことは言わないからな。君には君のやり方があるのだろう。しかし、女性に対する
暴力沙汰は困る。私の立場も察してくれ」
「申し訳ありません」
 ウォーレンには謝るしかなかった。
 妻を侮辱されたからと言えばウォーレンは一応納得してくれるかもしれないし、世間的にはそのほうがまだ言い訳として通るだろう。しかし、そう言えるほど希和を大切にしていたわけではないのに、いまさら理由にすることはできない。
「君が謝るとは。しかしこのままだと君だけが不利な安っぽいスキャンダルになってしまうぞ」
「自分のしたことです。理由には関係なく責任を負います」
「それでいいのかね、君は」
 ウォーレンの言葉は意外だった。
「ノダは君を買っていた。同じ日本人同士だからではない。ノダは君の仕事を評価していた。だからこそ君も何としてもこの展覧会は成功させたかったはずだ」
「そう思っていました。私も」
 率直に言った俺の言葉にウォーレンは苦い顔のままでしばらく黙っていたが、やがて重々しく口を開いた。
「君にはノダの展覧会の今後の仕事からは離れてもらう」
「わかりました」
 答えて立ち上がった。これ以上ウォーレンと話すことはない。
「アキ」
 ドアに向かおうとしたところでウォーレンに呼ばれて振り向いた。
「カウンセリングを受けるならカウンセラーを紹介するが」
「……いいえ。必要ありません」
 なんの助けも求めてはいない。

 館長室から出て美術館の正面出入り口へ向かった。野田慎二の展覧会は盛況ともいえる客の入りで、美術館の中でも出入り口の付近でも多くの人とすれ違った。誰も俺に気がつかなかったが、たとえ振り向かれたとしても、もう俺はこの仕事とは関係ない。展覧会がここまで成功すれば後は会期終了までいけるだろう。
 すでに日本のテレビ局から日本での展覧会の仕事から俺がはずされることが連絡されてきていた。紅とあんなことがあればスポンサーでもあるテレビ局がアクションを起こさないはずがない。いずれ俺が契約違約金の支払いをしなければならなくなるだろう。

 紅はすでに日本へ帰国していた。訴訟は起こさなかったが、俺がしたことがすぐに消えるわけもない。タブロイド紙ではあったが新聞にまで写真が載せられたのだ。ニューヨーク市内に持っていたオフィスの契約を取り消して秘書を解雇し、もともと野田の展覧会に仕事を絞っていたので他の仕事もなかった。
 付き合いのあった何人からかは、そこまでする必要はない、ニューヨークのめまぐるしい動きの中でおまえのしたことなどすぐに忘れられると言われたが、そういうことを言われること自体が煩わしかった。




 家の中は雨の音が聞こえるくらい静かだ。
 オフィスを解約してもインターネットがある世の中だ。パソコンや携帯電話を持っている以上さまざまなコンタクトは途切れることはない。しかし確実にそれらは減っていた。こちらから返信するのはごく少数しかない。
 動く気になれずベッドに横になってかすかな雨の音を聞いていた。真っ暗な部屋の中で単調な雨の音だけが聞こえる。

 今まで積み上げてきたものが崩れ落ちていった。いや、自分で崩した。
 紅の言ったことに自制が効かなかったと言い訳にもならない。これまで何度も腹のたつ思いを封じ込めてきたのに、あのときはもう押さえが効かなくなっていた。
 どうしてそうなったのか、自分でもわからない……。

 何時間か眠っていたが、携帯電話の震える気配に暗い眠りから引き戻された。暗闇の中でメールの着信を知らせる携帯電話の光る画面にはKiwaの文字があった。

『野田慎二先生がお亡くなりになりました』

 希和からのメールはたった一行だけだった。


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