夜の雨 18


18

 目次



 今、日本へ向かっている。
 夜、成田に着く。

 秋孝さんからのメールにはたったそれだけしか書かれていない。夜というだけで時間が書いてなかったが、今はもう午後2時を過ぎている。のんびりしてはいられない。とにかく家へ帰らなければ。
 そう思って村上さんに帰る挨拶をするためにクラフト市の本部へ向かったが、本部に着かないうちにまたメールが届いた。

 今、乗継で香港にいる。これから成田へ向かう。
 成田にホテルを予約してあるので来られるなら来てほしい。

 最後に飛行機の便名とホテルの名前が書かれていて、簡潔で秋孝さんらしい文とはいえメールを二度続けて送ってくることも今までないことだった。乗り継ぎで香港だなんて、時間がないのか、急いでいるのか、なんだか慌ただしいような感じがした。それにホテルを予約してあるって……?
 すぐに電話してみたけれど秋孝さんの携帯には繋がらなかった。

 どうしよう。
 来られるなら来てほしいと書かれていたけれど、成田へは行ったことがない。
 秋孝さんはなんとなく急な帰国のようだった。いままでは何日か前に帰国の連絡をしてくれていたのに、こんな急に……。

「希和さん、どうしたの」
 村上さんに話しかけられてびっくりしてしまった。わたしが本部の入口の近くで携帯の画面を見ながら突っ立っていたからだが。
「あ……いえ。わたし、そろそろ帰りますので」
「帰るの? じゃあ香那を呼ぶよ」
「いえ……いいです。香那さんも持ち場で仕事中でしょうから。それに、あの、わたし、ちょっと用事ができてしまって」
 村上さんがちらっとわたしが握り締めたままの携帯電話を見た。秋孝さんのことを言おうかと
一瞬迷ったが、言えなかった。早く空港へ行かなければと気持ちが急いてしまっていたのかもしれない。
「すみません、今日はこれで失礼します」
「そう。香那には俺から言っておくよ。今日は来てくれてありがとう」
 村上さんはちょっと怪訝そうな顔をしたけれどそれ以上はなにも言わず見送ってくれた。わたしも慌てて今日は楽しかったと付け加えて挨拶をしてクラフト市を後にした。





 とにかく空港へと思い来てしまったが、広くて大きな建物の中で人も多くて迷いそうだった。というか、迷う以前にどこへ行けばいいのかわからない。案内所を見つけるまでにうろうろしてしまって恥ずかしいし、無駄な時間ばかりが過ぎていくようで不安になってしまった。ようやく教えてもらった到着ロビーへ行って、もう一度便名から到着時刻を確認すると秋孝さんの乗った飛行機が着くのは夜の9時過ぎだとわかった。到着までまだ3時間ほどあった。
「はー……」
 ロビーに並ぶイスのひとつに腰をおろして息を吐いてみたが緊張がほぐれない。ビジネススーツの人たちやツアー客らしい人たちが行きかっていたが、こういう場所では気が休まらない。初めてくる場所で、知らないところで、人が大勢いて……なによりも不安だった。

 秋孝さんには一応空港で待っていることはメールしておいたが、返事はなかった。
 どうして彼が急に帰ってくるのかわからなかった。仕事に関係あることだろうか。それとも、もしかしたらなにかあったのだろうか。
 長い待ち時間のあいだにそんなことを何度も何度も考えてしまった。心の底は不安で、でも秋孝さんは帰って来るのだからとなんとか不安をやりすごしていた。
 ロビーで待つ人たちが入れ替わりながら少し空いてきたが、空港内のほかを見る余裕などなく到着便の表示ばかりを気にして待ち続けた。ようやく秋孝さんの乗っている飛行機が到着したが、それから乗客が出てくるまでの時間がさらに長く感じた。行き違いになってしまったかと思いかけていたところで秋孝さんが歩いてきたのが見えたが、声が出なかった。
「希和」
 秋孝さんが気がついてわたしを呼んだが、それでも声が出なかった。
「来ていたのか」
「は……い」
 やっと声が出て、でも返事ができただけだった。
「10時か。直通便に乗れずに時間がかかってしまったな。……どうかしたのか?」
 言いながら秋孝さんにわたしの目をのぞき込まれるようにされて、馬鹿みたいに秋孝さんを見上げていたことに気がついた。ここでずっと待っていたあいだ、不安で心細かったなんてそんな子どもみたいなことは言えない。
「いえ、お帰りなさい。あの、なにか日本で急用ですか」
 秋孝さんはカバンをひとつ持っただけで、スーツを着ていたがネクタイはしていなかった。長時間飛行機に乗っていたのだろう、ボタンをはずした上着の下に見えるシャツがしわになっていた。
「詳しいことはホテルで話す。明日は京都へ行かなければならないから、悪いが今日は家に帰れない。行こう」
 わたしも一緒に泊るの? と今更ながら思ったが、夫婦なのだからべつにかまわないし、秋孝さんもそのつもりらしい。秋孝さんの手が背に触れて軽く押されて慌てて歩き出したが、それがひどく恥ずかしい。人の多い空港内で誰もわたしたちのことなど気に留めてないと思っても恥ずかしかった。

 秋孝さんは迷わずホテルのバスが待っているところへとわたしを連れていき、空港近くのホテルにはすぐに着いた。フロントでチェックインをして部屋へ入ると秋孝さんがすぐにカバンを置いて上着を脱ぎ、ツインのベッドの片方の上に無造作に放り出した。
「さすがに疲れたな」
 カフスのボタンをはずしながら秋孝さんが言った。彼が疲れたなんて言うのを今まで聞いたことがなかったけれど、やはり長時間の移動で疲れたのだろう。
「明日は朝一で京都へ向かう。野田先生が倒れられて緊急手術を受けたんだ。以前も狭心症で手術を受けたことがあるんだが、今回はあまり容体が良くないらしい」
 秋孝さんの上着をハンガーにかけていたが、えっと息を飲んだ。

 野田先生というのが秋孝さんが展覧会を準備している画家の先生のことだということは知っていた。以前に彼が京都へ行くときに話してくれたことがある。それで秋孝さんは……。
 驚きで声も出ないわたしに秋孝さんはそこへ座れというように向かいのベッドを指し示した。
「行ってみなければわからないが……、どうなるかな」
 秋孝さんにしては珍しく曖昧な言いかただったが、かえってそれが画家の先生の容体の悪さを窺わせるようだった。そして今後どうなるのかまだ彼自身にもわからないのだろう。こんな時なんと言っていいのかわからない。秋孝さんは静かに考えるように言っているが、でも心配しているんだ……。
「ご心配ですね……」
 そう言うと秋孝さんは手を伸ばしてきてわたしの手を取った。彼がわたしのとなりに座り直しながら手を引かれ、肩を抱かれた。
「まあ、とにかく明日は京都へ行くしかない。明日は家まで送っていけないが」
 顔のすぐそばで彼の声が聞こえる。仕事とはいえ心配はしているだろうが取り乱したりしていない秋孝さんの声に男の人って強いと思ってしまう。話を聞いてわたしのほうが内心は動揺しかけているのに。
「帰るだけだからひとりで大丈夫です。あの、京都からはいつ帰ってきますか」
「いや、たぶん家には帰れないと思う。アメリカでの仕事があるからなるべく早く戻らないとならない。関西から直接帰るつもりだ」
 そうなのかとがっかりしかけたが、でも仕方がない。今回は野田先生が病気で帰国したのだから。
「あの、気を付けて……」
 答える代わりに唇が頬に触れてきた。軽く触れて離れ、秋孝さんの顔を見ると彼の黒い目にのぞき込まれた。空港でもそうだった、自分の奥底まで見られてしまうような視線だった。
「そういえば仕事をしているそうだな」
 急に言われてびっくりした。メールで知らせてあったけれど、言われるとは思わなかった。ちゃんと読んで憶えていてくれてたんだと思うとうれしかったが、今ここでその話はしにくい。先を促すように秋孝さんの手がわたしの手をなでていたが。
「また今度話しますから……」
「そうか」
 また唇が触れた。軽いキスではなく、すぐに舌が入り込んできて吸われる生々しいような口づけだった。彼の手がわたしの胸に触れている。
「待って、シャワーを……」
 今日はクラフト市へ出掛けてそのままここへ来てしまっている。一日外で過ごしているのに。でも秋孝さんの手は止まらずシャツブラウスのボタンがはずされていく。言いかけた言葉も唇で塞がれて言えない。座った体勢からあおむけに倒されてスキニーパンツとショーツを引き下ろされてしまった。思わず体をひねろうとしたら右足の足首をつかまれた。
 きつくつかまれたわけじゃない。でも足を開かれた体勢がたまらなく恥ずかしくて、恥ずかしさで頭の芯がくらっとしてくる。今までここまで性急にされたことはない。ベッドに乗ってきた秋孝さんが上になりながら自分のシャツのボタンをはずしていく。
「あの……」
「後でいい。待てないんだ」
 急に触れられてびくっと体が動いてしまった。開かれて閉じられない足のあいだが彼の指で触れられて、まだ濡れていないそこがかすかに痛い。体がもがき、逃げてしまいそうになったがそれもできない。待ってと言いたいのにそれも言えなかった。わたしの上で秋孝さんがじっと見おろしていた。

 天井の明りを背にした秋孝さんの目は翳っていた。顔は見えるのに彼の目が暗い。黒くて、暗くて、なんの光もない。そんな目で見られているのに気づいて体が止まった。
 すっと秋孝さんの視線が下がり、体も下がっていった。両足に手が掛けられ、あっと思う間もなく唇がつけられた。今まで知らない感触がわたしの中心を開き、舐めている。
 そんな。汚いのに。シャワーも浴びてないのに。
 同じことが頭の中をぐるぐると回ったが動けない。
 恥ずかしい。灯りのついたままの部屋の中で仰向けの足のあいだで秋孝さんの頭が動いているのがどうしようもなく恥ずかしい。明るい中で、それだけでも恥ずかしいのに舌でなんて、こんなこと今までなかったのに。
 動けないままに開いたところの突起を舌で転がされるたびにじんじんと快感が伝わってくる。急激に高められる体にもうなにもできない。あっけなく体の奥に震えが走り、達しながら入れられた指を締め付けて体が反った。
 中から指が抜かれて秋孝さんが体を起こした。手の甲を口に当ててぬぐうとズボンと下着を脱ぎ去り裸になった。
 動けずに秋孝さんを見ているわたしと同じように秋孝さんも避妊具を付けながらわたしを見ていた。目の下の疲れを刻んだようなしわも、暗いその目も初めて見るものだった。暗い、いや、昏い目だった。なにかを思っているような彼の目にやはり動けない。また目が逸らされてわたしの胸に彼の顔が付けられてきた。

 明日は京都へ行かなければならないのに。
 そう言えるはずもない。
 秋孝さんを受け入れながら与えられる快感に何度も体が震えた。打ちつけられ、奥を突かれ、いつもより荒く動かれても快感は増していく。わたしに押しつけられている彼の体を感じるのがうれしいというのかどうかわからない。秋孝さんの暗い目はきっと野田先生を心配しているからだ。だから帰国して来たのに、いまはわたしを抱いている。でも、この一時でも彼が望むのならそれでかまわない。
 揺れていた秋孝さんの体が止まって長く溜めた息を吐き出す。閉じた目を開けた彼はいつもの秋孝さんの目だった。そう思いたかった。



「希和」
 呼ばれて目を覚ますともう秋孝さんは服を着ていた。あっと思って起き上がったが、わたしはベッドのシーツの中で裸のままだった。昨夜はあの後でシャワーも浴びず眠ってしまった。クラフト市で歩き回って、それから成田に来たから疲れていた。秋孝さんがシャワーは起きてから浴びればいいと言っているのを聞きながらもう目が開けていられなくて眠りに落ちていった。いまだけは秋孝さんがとなりにいてくれると感じながら。
「ここの支払いは済ませておくから、希和も気を付けて」
「はい……」
 せめて服を着てドアのところで見送ろうと思ったのに、それもできず秋孝さんはさっと部屋を出て行った。わたしの仕事のことも、クラフト市へ行ったことも、なにも話せなかったが今回はしかたがない。
 秋孝さんが出て行った後でしばらくのあいだ、目を閉じてシーツにくるまっていた。なぜだか湧いてくる涙を我慢しながら。


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