夜の雨 16


16  希 和

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「希和さん、お久しぶりです」
 小さな駅の改札を出た香那(かな)さんが車の脇に立っているわたしのほうに笑顔で近寄ってきた。三月だけどこちらは東京よりも寒いからと言ってあったので、香那さんはダウンコートに帽子とマフラー、手袋という厳重装備で足元はブーツだった。
「お久しぶり。車で来たから乗ってね」
「すみません。迎えに来てもらって」
 ふんわりとした白っぽいグレーのモヘアのニット帽子をかぶった香那さんはとてもかわいらしかった。村上さんと結婚しても全然変わってない。香那さんをわたしの軽自動車に乗せて家へ向かった。
「香那さん、わざわざ来てくれてありがとう」
「いいえ、わたしが勝手に押しかけてきたんですから。わたしも希和さんに会いたかったです。一年振りくらいですよね、このまえ会ってから」
「そうだね」
 一年前、わたしはまだクラフト市のスタッフだった。結婚するときにスタッフを辞めて軽井沢に近いここに住むようになってからクラフト市のスタッフに会うことは一度もなかった。学生スタッフたちとは年齢が違うし、事務関係の仕事は村上さんとわたしがおもに行っていたからあまり個人的な交流はなかった。そんななかで香那さんは口数の少ないわたしにも話しかけてきて、わたしの仕事をよく手伝ってくれた。

「わあ、すてきなお家ですね。別荘みたい」
「ほんとうに別荘だったのよ」
 家の中に入った香那さんはリビングの造りを見て目を輝かせていた。大学を卒業して今は設計事務所に勤めている香那さんはこういう家にも興味があるのかな。
「大きな家じゃないけど」
「でも外壁の下側に石を使っているのも凝ってます。ヨーロッパの山小屋ふうの造りですよね。もしかしたらわざわざ設計された家じゃないのかな。この家は建てられてからずっとそのままだったんですか」
 香那さんはしきりと感心していたが、わたしはそういうことに全く知識がない。
「ごめんなさい、それは聞いてないの。古い家だから秋孝さんがこの家を買ってから水回りや電気設備はリフォームしたそうなんだけど」
 それを聞くと香那さんはにこっと笑った。
「秋孝さんって呼んでいるんですね、永瀬さんのこと。あの永瀬さんのことを名前で呼べるなんて希和さんだけですね。すてきだなあ」
 どこかうっとりとしたように言った香那さんに思わず顔が赤くなった。どうやら香那さんはわたしと秋孝さんが出会ってから短期間で結婚したのを劇的な大恋愛のように思っているようで、短期間で結婚したのは確かだけれど、燃え上がるような恋愛をしたのとはちょっと違うと思う。でも、そんなことを言うのは恥ずかしいし、上手くも言えない。わたしのことよりも香那さんがずっと歳の離れた村上さんと大学卒業と同時に結婚したほうがよほど劇的だと思うのだが。
「お茶を淹れたからどうぞ。座って」
 わたしが用意しておいた前菜ふうのお料理やサンドウィッチと一緒に香那さんが手土産に持ってきてくれた焼き菓子も出してアフタヌーンティーふうに紅茶を淹れた。これなら昼食代りになると思って。
「あ、これ美味しい。希和さん、お料理上手なんですね」
 小さめのひと口サイズに切ったスモークサーモンときゅうりのサンドウィッチや焼きたてのクロックムッシュを香那さんは美味しいといって食べてくれた。若くて素直な食べっぷりがうれしい。
「わたしももっとお料理がんばらないと。雅人さんにぜんぜんかなわないです。家事もほとんど雅人さんにやってもらっているし」
 雅人さんというのは村上さんのことだ。香那さんだって村上さんのことを名前で呼んでいる。そう思うと笑いが込み上げてきた。
 村上さんは以前はカフェをやっていて料理も自分で作っていたからとても上手だ。スタッフたちの打ち上げで村上さんのピザやご飯料理を何度もごちそうになったことがある。
「香那さん、お仕事大変でしょう」
「はい。まだ見習いだし、勉強しなければならないこともすごく多くて大変です。家のことは雅人さんに頼ってばかりでこれでいいのかなって思うこともありますけど、雅人さんもわたしが仕事をするのは応援してくれているから」
 香那さんはまだ若いし、村上さんも香那さんには仕事をさせたいと言っているそうだ。でも子どもができたらどうするのだろうかと、ふとそんな考えが浮かんだがそんなことは聞けない。
「希和さん、それでクラフト市の仕事のことですけど、お聞きしてもいいですか」
「あ、はい」
「雅人さんから話は聞いてくださったと思いますけど」
 真剣な表情で話しだした香那さんにわたしも持っていたティーカップを置いた。

「雅人さんはぜひ希和さんにクラフト市のスタッフに戻って欲しいって思っているんです。それはわたしも同じです」
 その話は数日前に村上さんからもらった電話でも聞いていた。差し支えなければまたスタッフの仕事をして欲しいと言われて、次のクラフト市までに考えておいて欲しいとも言われていた。
「クラフト市が軌道に乗ってお客さんもたくさん来てくれるようになって出展希望の作家さんも最近はとても多くなっているんです。いろいろなところからクラフト市を開催して欲しいっていう引き合いも来ています。だから希和さんにまた事務のほうをやってもらえたら事務局のほうはとても助かるし安定すると思うんです。希和さんの仕事ぶりならわかっているし、安心して仕事を任せられるって雅人さんも言っていました。希和さんも知っていると思いますけど、学生スタッフはバイトだからどうしても入れ替わりがありますよね」
 香那さんが村上さんのために一生懸命わたしに話していて、それはとてもほほ笑ましい。できることならそうしたいけれど、でも……。
 黙っているわたしに香那さんは申し訳なさそうな顔をした。
「ほんとはわたしが希和さんぐらいに事務局の仕事を手伝えればいいんですけど、今は休みの日に少し手伝うことしかできなくて」
「香那さんはお仕事があるからしかたないと思うな。無理をしても良くないし、村上さんもそんなこと望んでないと思うけど」
「……はい、そうですね」
 香那さんはどこかしゅんとしてしまった。

「香那さん、わたし、やっぱりクラフト市の仕事はできないと思う。ごめんね」
 香那さんをがっかりさせるのは辛いけれど、やはりクラフト市の仕事はできない。
 香那さんが大きな目を見張ったのを申し訳なく思いながら椅子から立ち上がった。
「香那さん、ちょっとこっちへ来て」
 リビングを出て玄関から直角に曲がりこんだ廊下の続き部屋のようなスペースに香那さんを案内した。
「え、これは」
 そこに置かれていた物を見て香那さんはとても驚いたようだった。
「機織り、ですよね……」
 自信なさげに香那さんが言ったのはしかたがないことで、今どき若い人で手織りの機織り機を見たことがある人なんてほとんどいないんじゃないかと思う。
「あの、希和さんが織るのですか」
 うなずくと香那さんはまたびっくり驚いた顔をした。
「祖母がずっとやっていて教わっていたの。香那さんは峰田怜秀(みねた れいしゅう)先生って知っている?」
「峰田先生って、あの染織家の」
 美術館で展覧会が開かれるほどの染織家だったが、地味な分野にも関わらずさすが香那さんは知っていた。
「祖母はずっと峰田先生の作品を織る仕事をしていたの。ほんとうに亡くなる少し前まで織っていて……、それで同じ仕事をわたしもできないかなって」
「峰田先生のお仕事を希和さんがするんですか? すごい。それってすごいです」
「ううん、違う。香那さん、違うよ」
 慌てて訂正した。
「峰田先生は祖母の技術を認めてくださっていたのであって、わたしじゃない。わたしにはぜんぜん無理。祖母に手ほどきしてもらって中学生のときから織ってはいたけれど、まだまだだし。 でも、祖母が亡くなってからずっとどうしようかと思っていたけれど、祖母の古くからの知り合いの織り元さんから少しずつ仕事をもらえることになったので、これから勉強しながらやっていこうと思っているの」
 普段はあまり話さないわたしだけれど、今日は良くしゃべれた。相手が香那さんだからかもしれない。

「これね、祖母が峰田先生の仕事で織ったものなのよ。先生がこの着物で賞を受賞した記念に反物の端をいただいたものだけど」
 額に入れて壁に掛けた布は秋孝さんが趣がある、と言ってくれた布だ。桜色のような絹の紬で、わたしの大好きな布。いつかこんな布を織れるようになりたい。
 香那さんは祖母の織った布をじっと見ていたが、やがて振り返った。
「希和さんは作り手の人だったんですね」

 作り手。
 香那さんが言ったその言葉がじんと胸に響いた。村上さんやクラフト市のスタッフの人たちは尊敬を込めて工芸作家を『作り手』と呼んでいた。
 わたしがクラフト市を手伝わせてもらったのも祖母が織り手だったからだと思う。いつか自分も作り手になりたい。作る手を持った人になりたい。密かにそう思っていた。
「ごめんね、香那さん」
「そんな、希和さんが謝ることじゃないです」
 香那さんは済まなそうな顔で言った。
「私たちこそすみませんでした。希和さんがお仕事すること知らなくて、クラフト市の仕事をお願いすればまたしてくれるんじゃないかって都合良く考えていました。ごめんなさい」
「香那さん……」
 率直に言われてわたしのほうが恐縮してしまいそうだった。
「あ、そうか。それでなんですね」
「え?」
 急に香那さんが言った意味がわからなかった。
「わたし、希和さんがクラフト市のスタッフを辞めるって聞いたとき、結婚したらニューヨークへ行くんだと思っていました。でも希和さんにはやりたい仕事があったから、だからアメリカへは行かなかったんですね」
 その通りだった。日本にいたいと言ったのはわたしだ。
 それなのに返事が出てこなかった。


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