夜の雨 12


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 冷たい手の感触を額に感じてうっすらと目を開くと秋孝さんがわたしを見ていた。解熱剤を飲んでしばらく経っていたので今は体が熱く感じられて汗をかいていた。秋孝さんが持ってきてくれたペットボトルの水を飲むために起き上がる、それだけのことがひどく辛かったが、なんとか水を飲むことができた。
「すみません……」
 体中が痛むような気がして起きていられなかった。朝食の支度もできず、すみませんと言うだけで精一杯だった。
「俺のことは気にするな」
 横になっただけでしんどい。もう目を開けていられなくて閉じてしまったが、そんなわたしを見て秋孝さんはそれ以上なにも言わなかった。彼が寝室を出ていく気配にも目が開けられなかった。

 熱が下がるまでに二日かかり、そして熱が下がると頭痛と鼻づまり、そして咳が出てと、風邪の症状のオンパレードのようになってしまい、ずっとベッドから離れられなかった。こんなにひどい風邪をひいてしまったのは初めてだった。
「なにか食べるか」
 二日間、水しか飲んでいないわたしに秋孝さんが聞いたが首を振った。できればなにか食べたほうがいいとわかっていたけれど、家には簡単に食べられる栄養補助食品などはなかった。別荘地に近い住宅の少ないところなので近くにはコンビニはなく、行くとしたら車で行くしかないが、秋孝さんは日本の運転免許を持っていない。駅の近くに小さなスーパーがあるが、そこへ行って欲しいとも言えず、とにかくいまは眠りたくて目を閉じていた。
 何時間か経って、また秋孝さんが寝室へ入ってきた気配に気がついたときは窓の外が薄暗く、夕方になったのかと思ったがお天気が悪くなっていただけだった。
「雨……?」
「いや、雪だよ」
 雪になったら出かけるのがもっと大変になってしまう。途方に暮れるような気持ちで横になっていたわたしに秋孝さんは皿を差し出した。
「え……」
 皿の上にはおにぎりが二個。
「少し食べるといい。俺はもう食べたから」
 そう言って秋孝さんは皿をわたしの手の上に置いた。そして湯気のたつ湯呑をサイドテーブルへ置くとわたしの返事を待たずに寝室から出ていった。

 これって……。
 おにぎりは無骨な形で、いかにも男の人が握ったという感じだった。まだ温かい。
 いったん皿を置いて湯呑を取り、熱いお茶を慎重にすすった。口が湿ったせいか食べられそうな気がする。おにぎりは塩むすびで食べやすく、一個だけだけど食べることができた。
 秋孝さんが作ってくれた。ごはんも炊いてくれたんだ……。
 なんだかうれしいような悲しいような気持ちだった。秋孝さんはなにも言わずわたしの世話をして家事をしてくれていた。正直言ってそこまでしてくれるとは思っていなかった。意外だった。

 わたしが熱を出してしまってからも、秋孝さんは同じベッドで寝ていた。熱を出してしまった日の夜にベッドへ入ってきた秋孝さんに
「うつるから……」
 そう言ったのに秋孝さんは
 「うつらないよ」
 と、なぜか言いきってとなりに寝た。
 そんなこと、わからないのに……と、心の中で思いながらも熱で動けないわたしは秋孝さんにリビングで寝てもらうことも、自分が別に寝ることもできなかった。
 熱でぼうっとしながらもずっととなりに横たわる秋孝さんを意識していた。今まで秋孝さんが帰ってきているあいだはこんなふうに寝ることはむしろ少なかった。それが良かったのか、悪かったのか、わからない。
 あのシャツについた赤い色を見たときからわたしの気持ちはぎこちないものに戻ってしまっていたのかもしれない。

 ようやく昼間も起きていられるようになるまで一週間かかった。やっと調子が良くなってきて昨日からは家事も出来るようになっていた。
 今日、秋孝さんは仕事のために東京まで出かけていた。日帰りで、夕方までには戻ってくると言って朝から出かけていた。
 秋孝さんが出かけた後で顔を洗ったときに鏡に映った自分の顔は酷く、痩せた顔がさらに貧相になり目の下に隈(くま)ができていて、みっともなかった。こんな顔を秋孝さんに見られていたかと思うと、恥ずかしいというよりは情けなかった。
 もっと顔色が良くなればいいのにと思いながら肌の手入れをして髪を整えた。それが済むとキッチンに立って冷蔵庫と冷凍庫をのぞいた。買い物へ行く気力はまだなかったけれど、寒い時期でひんぱんに買い物へ出かけられないために買い置きしていた物がかなりあったので夕食はそれでなんとかなりそうだった。スープカレーにしようと骨付きの鶏肉を解凍してスパイスをまぶし、下ごしらえをしていた途中くらいからなんとなく足がだるくなってきた。まだ風邪が完全には良くなっていないのかもしれない。無理したらぶり返してしまうかも。それは避けたかった。
 ひと休みしようとソファーに座ったが、温かいお茶でも飲もうと思って立ち上がったときに体の変調に気がついた。風邪を引いて寝込んでいたのですっかり忘れていたが、生理が始まっていた。





 夕方というよりも少し遅くなって秋孝さんは帰ってきた。
「おかえりなさい」
「ただいま」
 いつもどおりに秋孝さんは言って部屋へ入ると着替えをしてきた。カジュアルな細身のズボンに薄手のセーターを肌にじかに着ながら部屋から出てきて、キッチンにいたわたしに
「大丈夫だったか」
 と言った。
「大丈夫です」
 すぐには目が合わせられなかったが、それはやはり失礼なので料理の手を休めて顔をあげた。少し引きつってしまったかもしれないが、なんとか笑顔になった。
「あの……、心配かけてすみませんでした。ありがとうございました」
「いや」
 秋孝さんはいつもの素っ気ないひと言だった。でも、別に彼は風邪を引いてしまったわたしを迷惑がっているわけでも、機嫌が悪いわけでもない、いつもの秋孝さんだった。そう思えた。

 夕食を食べながら、秋孝さんは明後日、もう一度仕事で東京へ出かけることになったと話してくれた。
「すみません、お仕事の予定を狂わせてしまったみたいで」
「そんなことはない。仕事相手の都合なだけだ」
 たぶんそうなのだろうとは思う。秋孝さんは人に恩を着せたりするような人じゃない。
「じゃあ、明日はお休みですか」
「うん、そうだな」
 心の中で別の心配をしているわたしに秋孝さんは気にすることもなく答えた。

 いつも通り、秋孝さんが先に入浴を済ませ、入れ替わりにわたしがお風呂にはいった。風邪を引いた後だからというわけではなかったが、体を入念に洗い、いつもよりゆっくりと寝室へ行った。
 秋孝さんが眠っていたらわたしも寝ようと思っていたが、掛け布団をめくると同時に秋孝さんがわたしへ向き直るように体を動かした。やはり眠っていなかった。彼の腕がわたしに向かって広げられている。
「あの……」
 体を固くしたわたしを秋孝さんはすぐそばで見ていた。恥ずかしいが言わなければならない。結婚して今まで、秋孝さんが帰って来ているあいだに生理になったことがなかったというだけで、いつかは言うときが来ると思っていたが、でも、やはり言いにくい。夫婦とはいえ男の人に対していったいどう言えばいいのか。普通に言うしかないと思うけど、ほかの人たちはどんなふうに言っているのだろう。
「わたし、生理で……」
 やっと言うと一瞬の間があったが、秋孝さんの腕がすっと下げられた。
「そうなのか、気がつかなかった。悪かった」
 そう言うと秋孝さんは掛け布団を引き上げてわたしの肩まで掛けてくれた。そして自分も横になると「おやすみ」と言った。そっと彼のほうを見るともう目を閉じて静かな呼吸を繰り返していた。
「あの……、怒ってない?」
 愚かだとは思うが、そう聞かずにはいられなかった。
「なにを怒るんだ? そんなことを気にすることはない」
 目を閉じたままの秋孝さんから返ってきたのは簡潔な答えだった。甘い言葉ではなくても秋孝さんはそう言っている。
「はい。おやすみなさい……」
 わたしがそう言うと彼はわずかに頭を動かしただけだった。





 それから一週間後、秋孝さんはちょうどひと月の予定通りアメリカへ帰った。
 帰る日の前日にはやはり抱かれたけれど、あのシャツのことがあった日のような激しさでも、以前に帰るときの明け方まで繰り返し抱かれたような熱を帯びた行為でもなかった。静かに、それでいて離れることなくわたしを愛撫する手は労わってくれていると思えるほどだった。秋孝さんは避妊具を使っていたが、今度帰ってきたときにお義父さんのところへ挨拶へ行くのなら、わたしもそのほうがいいと思えた。そんな安心感にも似た気持ちが心の底に残っていたぎこちなさを溶かしていくようだった。ゆるぐことなくわたしを高める彼の手にすべてをゆだね、普段はすることのないキスに溺れた。

 やましいことはしていないと言った彼を信じよう。
 こんなわたしに、できることはそれだけだから……。


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